茶室建築由来記 茶室の由来
奈良・河瀬無窮亭の茶室
大中寺の茶室の基本設計は、君塚雅光氏にお願いすることにしました。かつての工事の際にも、実に適切なアドバイスをいただき、図面におこしてもらったことがあったからです。しかし、今回の茶室は、型通りのものではなく、誰が作ったと解るものは作りたくない。君塚さんや棟梁の顔も見えない茶室、言うなれば型を抜けた茶室を求めました。
私は20年前に書院・庫裡を、10年前に観音堂を建築する縁に恵まれました。それらは、「真」の建築物です。そういう意味では、此のたびの茶室は「草」の建築になると思います。そこで、平面図が出来上がって、古材がお寺へ到着するようになった時、それらの古材をどのように生かすかということが問題になりました。 私はこのたびの建築に際し、奈良の慈光院・當麻寺。大阪の水無瀬神宮・長栄寺・高貴寺。京都の西本願寺・高台寺・仁和寺。滋賀の居初家・彦根城。岐阜の如庵・暫遊荘等々を見学しました。これらの場所は、お茶の家元ではありません。数寄者の茶室が大半です。と申しますのも、大中寺の茶室には、数寄者の型に拘泥しない良さを表現するように努力した方が良い、と考えたからです。また、その意味では、水無瀬神宮の灯心亭は他の追随を許さない自由な精神性を備えているということに気がつきました。まさに後水尾院サロンの真骨頂であると思います。 さて、古材をどのように使用するか。その問いの答えとなってくれたのは、聖武天皇と光明皇后の御陵の前にお屋敷を構える奈良の河瀬無窮亭(本名、虎三郎。糸扁を職業とし、若くして茶の道に精進。晩年は文化財審議会委員歴任。御子息洋三氏は道具屋〔河瀬〕を営む)の母屋と茶室であり、興福寺境内にある塔の茶室の一連の建物でした。中でも、無窮亭の自由闊達な茶室(栄西堂)には、瑣末にとらわれている人間の脳天を金槌でぶち割るような、価値観の転換を迫られました。ここまでやったら天晴れとでも言うほかはないような茶室で、母屋(数百年を経た家を、戦争中に無窮亭が手を加えたもの)は無窮亭が東大寺長老より譲り受けたという転蓋門の古材(天平)が使用される等、随所に古材をたくみに配した古民家の創作空間になっています。つまり、母屋と茶室とのそれぞれが一体となり、古今無比と思われる空間が構成されているのですが、私はこれ以上を語ることができません。一見しなければ、理解が不可能と思われるからです。 河瀬家を拝見して思ったことは、(これからはどんなに立派といわれる建物に出会っても驚かない。デザイナーが設計したような完璧な建築は誰にでも出来る。しかし肩の力を抜いて千年の時間の中に安らぐような建物は出来ない。)ということでした。そこには、古材の出会いの妙とも言うべき世界が見事に展開されていたのです。古材の使用に際しては、この無窮亭の自由な精神を受け継げるものなら受け継ぎたい、と私は思いました。 それでは次にそれらの古材や入手した建築材料について触れてみたいと思います。 |
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