大中寺との縁、住職光悦師への感謝そして駿河梅花文学賞のこと
那 珂 太 郎 はじめて大中寺を訪ねたのは、三好豊一郎の案内で会田綱雄共どもの三人連れ、昭和60年2月13日のことだった。今から23年前に当る。三好さんが「梅椿駿河に古き大中寺」と発句し、「かをりを添へる白き水仙」と嘱目のまま私が受け、「ゆかりある太子偲びつ微酔して」と会田さんが大正天皇の詩碑のもと、酒盃を手に挨拶した即興を、住職下山光悦師が表装して残されてゐる。寺の清閑な庭のさまと、まだ三十代の住職の、明るく親身な応待ぶりが印象深かった。 これがきっかけで3年後の昭和63年から、三好さんの発議で眞鍋呉夫を宗匠に立て、加島祥造、三好、那珂に、光悦師を加へて連句の会を毎年催すことになった。4年後の平成4年暮に三好さんは急逝したが、その前後光悦師は愛鷹山や沼津海岸やを度々案内してくださった。 とりわけ平成8年10月の静岡清水方面の史蹟めぐりは記憶も鮮やかである。予定の日に偶光悦師に鎌倉での葬儀の急用が生じ、眞鍋と私は、吐月峰柴屋寺で師を待つことになったが、到着後すぐ光悦師は宗長の墓所を案内し、ついで名物安倍川餅を予約した「石部屋」へと急ぎ、そのまま藁科川の中洲にある木枯の森へ向かった。腰痛のため歩行に難渋する私を、師は裸足になり衣の裾をからげ、即座に背負って川瀬を渡ってくれたのである。私は成人して以来、人を背負ったり背負はれたりした経験は皆無だったので、光悦師の無償の奉仕は禪の修行のおのづからの実践だらうが、強く感銘する他なかった。光悦師は薄明の空に浮かぶ満月を仰ぎながら、清少納言に会ひさうな気がすると呟き、丘上の八幡神社まで導いてくれた。 ついでタクシイを呼んで三保の松原ヘ向ひ、羽衣の松の辺を月光を浴びつつ散策し、清見寺近くの寿司屋で馳走にあづかった。光悦師は私共より四半世紀分若い筈だけれど、周到な手順と心くばりには、ただ敬服するばかりであった。 これよりさき、平成7年頃から、光悦師には大中寺の梅園百周年記念として、「駿河梅花文学賞」を設けたいとの念願があった。経緯は省くが、眞鍋の驥尾に付して私もこの企画に加はることとなる。数年の準備期間を経て募集が始まったのは平成10年、翌年2月に「梅花文学賞」応募作から詩・短歌・俳句・英語俳句HAIKU四部門の賞と、選者合議推薦による「梅花文学大賞」が発表された。 第1回以後、今年平成20年で第10回を数へることとなり、この「梅花文学賞」の催しは完了することとなった。「清新芳醇な魂の表現」をめざして播かれた種子は、きっと多くの人々によって育ってゆくだらう。大賞に限っても、受賞者達のその後の営為は、詩歌の分野に少からぬ新風をもたらしてゐること、選者にとってもひそかな喜びである。 |
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