此一筋
眞 鍋 呉 夫
この「駿河梅花文学賞」もおかげで大過なく、最後の目標に達することができました。その第一回目の授賞式が行われましたのは、平成11年の今月今日のことでありましたが、実は私共はその数年前から一年に何度か大中寺の光悦さんの居間を占領して、連句を巻くことを楽しみにしておりました。その顔ぶれは光悦さんの短歌の指導をしておられた三好豊一郎さん、それに那珂太郎さん、加島祥造さん、私の4名でありますが、私は今でもこの4名に光悦さんを加えた連句の「座」が、折から100年を迎えた梅園の馥郁たる芳香に導かれて大中寺に根づき、芽を出し、新しい花を咲かせたのが「駿河梅花文学賞」だと信じております。 ところが残念なことに、その三好さんは平成4年の暮になくなり、文学賞の選者の中からも、業半ばにして春日井建さんと種村季弘さんを失わねばなりませんでした。皆さんの中には、今日のようなお祝の席でこんな話をするとは何という非常識な奴だ、とお思いになる方がいらっしゃるかもしれません。私はしかし、今日のような日だからこそ、この賞の核の役割を果して下さったこの3人の方の無私のお力添えを皆さんにお伝えし、おかげで今日の好き日を迎えることができたことを天上のお三方に報告して、心からお礼を申し上げたいと思います。 それで思いだしましたが、平成12年末の西日本新聞の報道によりますと、全国に点在する芭蕉の句碑および記念碑の数は、今や3151基に及ぶそうです。だとすれば、これはもはや単なる民俗問題ではなく、すでに文化問題であり、思想問題でさえあります。なぜなら、独裁的、或いは宗教的な偶像化と似て非なるこの事実は、単に他に類例を見いだしがたいだけではありません。鎌倉幕府の創建以来「権力対権力」という力づくの図式から超出してきたわが国の庶民の、ほとんど本能的だとでもいうべき当為に他ならないからです。 まして、光悦さんは第9回目の作品集の「挨拶」の中で、「そういえば、この文学賞の創設に際しましても、この大中寺をホームグランドとして、かつて芭蕉が「此一筋」と言い遺したわが国の伝統的な詩歌の真髄を後世に承け渡していかなければならない、と昂ぶったことを覚えています」と書いています。だとすれば、芭蕉の碑は更に一つその数を増やしたことになります。それも、かつては白隠禅師が和漢の連句を張行したことがある「大中寺」という巨大な記念碑です。 但し、芭蕉の所謂「此一筋」は、近世以来、わが国の地下を潜流したまま、まだ一度も社会の表面に現われたことがありません。もし、これが疑似近代的なわが国の社会の表面に現われて、われわれ庶民の共通感覚になれば、かつて寺田寅彦も書いたとおり、わが国の平和は永久に護持されるに違いありません。また、そういう意味でも、この「駿河梅花文学賞」が果たし、また果たすであろう役割には、皆さんの御想像以上のものがあると、私は信じております。 それでは最後になりましたが、終始この文学賞のポスターや作品集を見事な装画で飾って下さった畠中光享さん、また一々お名前は申し上げませんが、このかけがえのない10年間を支えて下さった皆さん、特に大中寺の檀家の皆さんにお礼を申し上げて、私のおこがましい挨拶を終らせて頂きたいと思います。 |
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