木枯らし吹く寒い冬の日。陰陽屋店主、安倍祥明はバイトの沢崎瞬太の通う、北区王子桜中学校へと向かっていた。
* * *
祥明は今朝もいつも通り、近所の喫茶店で遅いモーニングを済ませると店を開けるため、衣裳である狩衣に着替えようとしていた。そこへ、聞きなれた携帯のメロディが鳴る。しかし、ディスプレイに表示されている番号には覚えがない。そのまま無視しようかとも思ったが、相手は固定電話でどうやら近所らしい。時刻も十二時近く、低血圧な祥明の機嫌も通常に戻っていたため、訝しく思いながらも通話のボタンを押した。
「もしもし」
「あの、わたくし王子桜中学校で保健教諭をしております、坂井と申しますが、安倍祥明さんでいらっしゃいますでしょうか」
「はい、そうですけれども……」
祥明は電話に出たことを即座に後悔した。もちろんだが、祥明に子供はいない。親戚の子供が王子桜中に通っているという話も聞かない。むしろ、それらの可能性を考えるよりも早く、バイトで雇っている瞬太のことが頭に浮かぶ。だが、学校から一度バイト先の確認として電話が掛かってきたことはあるが、それ以外わざわざ電話を貰う覚えはない。
保健教諭だと名乗った女性は声に戸惑いを混ぜつつも話を始める。
「沢崎瞬太くん、そちらでバイトをしてますよね?」
「ええ、キツ……瞬太くんに何かあったんですか?」
「実は、風邪を引いて今保健室のベッドで寝ているんです」
「はぁ」
それを何故自分に連絡してくるのだという思いからか、祥明の女性に対しての愛想のよさも少しおざなりになる。
「ご両親に連絡を取ろうとしたんですけれども、瞬太くんが二人とも出ていていないっていうんです。実際、携帯電話にお電話したんですけれども、繋がらなくて。そうしたら、瞬太くんが安倍さんならすぐに捉まるだろうだろうからって、この番号にお電話させて頂いたんです」
「そうでしたか」
祥明は、また面倒なことをになるんじゃなるだろうかと、憂鬱な気分になる。
「それで、非常に申し訳ないんですけれども、瞬太くんを迎えに来ていただけないかと、思いまして……」
「はい?」
「いえ、私が付いて居られれば、ご両親がお迎えに来て頂くまで寝かせておくことは出来るんですけれども、午後から出張が入っていまして。他の先生にお願いしようと頼んでみたんですが、どうしても空いている先生がいらっしゃらなくって」
「まさか、一人寝かせておくというわけにもいかないと」
「はい、それでお願いできますでしょうか……」
「……分かりました」
電話の向こうからの懇願にも近いか細い声に、祥明は渋々と承諾する。実際のところ、普通ならば、バイト先の店長になど連絡などするはずもない。困った挙句の最終手段に近いのだろう、と自分を納得させた。
――しかし、その時祥明は面倒だという事ばかりが頭にあり、学校にいる教師が誰一人として手が空かない、更に学校にいる人間は何も教壇に立って教える教師ばかりではないということに、全くといっていいほど気が付かなかった。
* * *
瞬太の通う王子桜中学校は、陰陽屋から歩いて十分以上は掛かる。生憎と移動の足を持っていない祥明は、いつもの黒シャツ、黒スーツ、黒コートのいわゆるホスト服に着替え、ひゅうひゅうと冷たい風が吹く中、歩いていった。
学校に着いた祥明は受付に用件を伝え、保健室へと案内される。
「すみません、ありがとうございます」
そう言って出迎えてくれたのは、瞬太の母みどりと同年代の保健教諭。心の中でどれほど面倒だと思っていても、女性相手とあっては条件反射的に祥明は営業スマイルを浮かべてしまう。
「いえ、幸い私は自営業ですから。瞬太くんのご両親も私のことを良く知っていますし、責任持ってお預かり致します」
「申し訳ありませんが、宜しく致します」
「それで、瞬太くんは?」
「こっち」
カーテンで仕切られた向こう側から声がして、祥明がばっと開けると瞬太が額に濡れタオルを乗せて、ベッドで寝ていた。
「……ゴメン、祥明」
傍目からにも真っ赤な顔をしてすっかり元気の無い瞬太に、一言いってやろうと思っていた祥明は微かに眉をひそめ、ため息をついた。
「仕方ないな。とりあえず、店で休んでろ。みどりさんと吾郎さんどっちが帰ってくるの早いんだ?」
「……父さんかな。今日は、就職の面接に行ってるから」
「なるほどな。お前の親なら何はさて置き飛んでくるだろうと思ったが、そういう訳か」
「うん。母さんは今日研修で外に出てるんだ。だから、病院に電話しても駄目だし、今その最中なのか、携帯に連絡しても出なくって」
この辺りの会話はもちろん状況を把握するためもあるが、瞬太の親の話題を出す事によって教諭の坂井を安心させるための計算でもある。事実、さっきまで若干強張っていた表情に、今は安堵の様子が見て取れる。
「瞬太くん、それじゃあ担任の先生には私から伝えておくわね」
「すみません」
「それじゃタクシー呼んであるから、行くぞ。起きれるか?」
「ん、大丈夫」
のろのろとだるそうに起き上がる瞬太に、祥明はまずいなと思う。目立つほどではないが、トパーズ色の虹彩が微かに金色味を帯びている。このままでは耳と尻尾まで出しかねない。わかってはいたことだが、このキツネ体質ゆえに、両親以外でそれを知る祥明に連絡する他なかったのだろう。これまでよくやってこれたなと祥明は呆れ半分で思った。
荷物を持って支度を終えた瞬太が祥明に声を掛ける。
「祥明、準備できたよ」
「その前に俺のコート着とけ」
少なくともこれで尻尾は誤魔化せるだろう。
すると、その様子を見ていた坂井教諭が一旦部屋の隅へ言ったかと思うと、手に何やら持って戻ってきた。
「そうだ。よかったらこれ使ってください。遠くはないみたいですけど、汗かきますから」
「ありがとうございます」
渡されたのはちょっと大きめのタオル。頭を隠すのには丁度いい。
(……丁度いい?)
「祥明?」
「あ、ああ、行くか。それじゃあすみません、これで失礼します」
「宜しくお願いします」
坂井教諭が深々と頭を下げる。呼んでおいたタクシーを待たせるわけにもいかず、すぐ外へと向かい乗り込んだ。
そうこうしているうちに、祥明の頭に微かに浮かんだ疑問はどこかへといってしまった。
* * *
なんとか陰陽屋へと戻る道のりではキツネ耳を生やさなかった瞬太は、今は几帳の陰にある休憩室のベッドでぐっすりと眠っている。普段は祥明に対しては口の悪い瞬太だが、やはり眠っている姿には年相応の可愛らしさがある。それを見ながら祥明は煙草を燻らせつつ、ぼんやりと考えていた。
(……普通、先生が誰一人として手が空かないって、いや別に教師じゃなくってもいいんだよな。というか、ずっと付っきりの必要はない。休み時間ごとに様子見たって問題はないんだし。それに赤の他人を呼ぶとかないだろう。それよりも、あのタオル。……まさか、キツネ君のキツネ体質って知ってる?いや、そんなわけはないよな)
実のところ、瞬太のキツネ体質は教師を含め学校中が知っていることなのだが、この時点ではまだ瞬太はその事を知らない。なので、祥明も学校では隠し通せているものだと思っている。
「……それにしても」
この休憩室は祥明の居住スペースでもある。そして、店は地下にある。今日は休業日の札も出しているから、誰も来ない。
「いつまでも俺が手を出さないと思うなよ」
汗に濡れた瞬太の茶褐色の髪を掻き上げてやりながら、そっと呟いた。
お医者様でも草津の湯でも治せない
注1・坂井先生はオリキャラです。
注2・保健室の設定が色々とおかしいですが、全力で目を逸らしてください。
注3・原作では教師までキツネ体質を知っているかは読み取れません。
注4・お前が楽しいだけだろうーが!という訴えは却下します。
2008.06.02
オマケ
「なー、祥明。委員長が「店長さんってツンデレだよね」って言ってたんだけど、ツンデレって何?」
「なっ……!」
「聞いたらさ、要するに店長さんみたいな人のことだよって言うんだけど、意地悪ってこと?」
(メガネ少年ー!)
「それと、防犯ブザー持った方がいいんじゃない?とも言われたんだけど、訳わっかんねぇ」
(…………!)
「キツネ君」
「何?」
「今度、メガネ少年を連れてきたまえ。よーく話し合う必要があるようだ。ふ、ふふふふふ」
「しょ、祥明?」
(あのガキ……!)
お粗末様でした。