2001年度へ 徒然日記

2001/August

01/08/31(Sat.)
 いよいよ8月最後の日になった。
 今月は8日間だけしか自宅で過ごしていない。九月に帰国したときには、「マッサージ」に通おう。 


01/08/28(Tue.)
 中国で初めて,道端に移動式ベッドを置いただけの按摩(アンムァと言う)さんに行った。。
 簡易ベッドに横たわり、痛いところを身振りで教えて按摩が始まったが、痛くない方の肩をもみ始めた。自分の痛いのは反対側だと言うのにもゼスチャーで示す。「明白了」と言われたので一応安心したのだが、本心はわかったのだろうかと疑問であった。
 約40分も揉んでもらったが、「明白了」と言われた通り、痛い方の肩に時間をかけて揉んでくれた。明日は腰を揉むから来いと言っている様だ。この露天按摩さんは土曜・日曜が休みであるが、夕方7時から11時まで開業しているとのこと。
 日本での接骨医院は揉む時間の手抜きをして/器具に仕事をさせ(自動販売機と同じではないか)/長く通院させて/毎回1000円前後(健康保険を使って)、マッサージに行けば保険がきかず3000円も取られるが、中国の按摩代は10元=150円である。中国語の実習をして・按摩をしてもらって・しかも食後の散歩まで兼ねているのに150円とは安い。
 お陰で痛みは減った。一度の按摩で痛みがやわらいだのは、「アンムァ」の効果か。

01/08/27(Mon.)
 同じホテル滞在に滞在しているイラク人から時々通訳を頼まれることがある。イラク人と私の間は英語であるが、中国人と私の間は中国語であるにもかかわらず、不思議なことに用が足せるのである。
 日本語と中国語の間には「漢字」という共通の土台があるとしても、文字の意味までが同じものが多いのはなぜか/音・訓読みで調整したとしても、文字がなかった時代の日本は漢字伝来によって新しい単語を増やしたのか? 昔の人はパズルをするようなに言葉と文字を組み合わせたのだろうか。
 「ご飯」は「めし」あるいは「いい」といっていたが漢字が伝来されて「飯」になったのだろうか。パソコンで漢字検索をすると{はん、いい=飯}が出てくる/長い鎖国時代はどうしたのか/奈良時代や明治時代の学者は苦労したであろう 今は新しい外来語が入ると片かなで置きかえる事ができる。しかもパソコンと自動車の雑誌を読むと半分近くが片かなになっている。 等を考えるが、昔のような努力は要らなくなった様にも思える。しかし、漢字を土台にした日中の共通の文化は大切にしたいものだ。
 
 中国語のワープロ入力を見ていると、ローマ字入力から漢字に転換していく効率は必ずしも良くない。いずれ中国の漢字文化が変わるのではないかと懸念されるようなスピードである。ローマ字から日本文を作る方がはるかに早い。平仮名と漢字をミックスしただけでなくカタカナまで活用している日本語は、英語から最も遠い位置にある言葉と言われるにもかかわらず、面白い言語ではないかと思う。

01/08/26(Sun.)
 ホテルに、一週間ぶりに戻った。全員が大歓迎してくれる。部屋は前と同じである。預けていた荷物は部屋に届けられていた。
 大連のホテルの部屋入り、日本から持って来た行李をベッドの上に置いたまま、海星公園に釣りに出かけた。空港に降りる直前の景色を眺めていたら、無性に釣りがしたくなり、居ても立ってもおれない気持ちになったからである。
 
 釣果はまあまあ。10〜15センチほどのメバルとアイナメが10匹に加えて、なんと20センチほどの黒鯛が1枚釣れたのである。20人ほど釣り人がいたが、とにかく魚が釣れたのは、私一人。
 
 日本から持ち込んでいる「釣具と腕」の差であろう。私は、車海老を切った餌を使っていたが、隣の釣り人に貰った青虫の方が当たりは良い。しかも青虫で黒鯛まで釣れた。彼から苦労して餌屋の所在を聞いたので、次回からは本格的に釣りが楽しめそうである。早く身近な釣りキチさんを捜さないといけない。

 星海公園は、モーターボート、観光船、海水浴で人出が多いので釣れないと言われているが、テトラの上から見ていると、10センチほどのサヨリが群れをなしているし、時々30センチほどの魚の影も見られるので、魚影は濃いように思える。良い釣り場へ行ってみたいものである。

01/08/25(Sat.)
 ホームページの更新がまだ旨く出来ない。
 なぜか写真が転送されないものがある。その原因は自分のやり方に問題があると思われるのであるが、真の原因がわからないので困った。

01/08/22(Wed.)
 台風の風はそれほどでもなかったが豪雨であった。我が山小屋の簡易水道の水取り入れ口は、大水で流されていたので、鳳来町ではもっと豪雨であったのだろう。この台風のお陰で、豊川の水がめである宇連ダムは少しは回復したものと思われる。

01/08/19(Sun.)
 ホームページを全面更新しようとしている。一ヶ月前に新しいものをアップロードしたが、なぜか全部のファイルがリンクされていない。
 
 中国で撮った写真等をホームページに入れたので、今回全面的に更新したら、今度は幾つかの画面がおかしくなってしまった。

01/08/18(Sat)
 今回滞在予定の4週間は長く感じていたが、今日昼の飛行機で一時帰国する。
 数日前から、ホテルの人達から、何時帰るのか・何時の飛行機か・東京へ行くのか/何時大連に戻ってくるのか等など聞いてくれる。

01/08/17(Fri.)
 夜半から雷が続いている。雲が低いからか、雷の中にいるような感じで、その雷音も大きい。
 ホテルの窓から見える範囲は停電している。食堂も閉鎖。
 大連での落雷は日本と同じように上から下に走る。よく似ている地形のサンフランシスコの稲妻は水平方向に走っていたのを思い出した。
 昨夜、例のイラク人にモスクの地図を渡し、タクシーで行くと良いと説明したが、今朝は行けたのだろうか

01/08/16(Thur.)
 ホテルにイラク人が8人も宿泊するようになった。他にもなぜか中国人が宿泊してるのでホテルは満杯のようだ。
 イラク人が、中国語と私の教えた日本語しかわからないフロントのお嬢さんとの間で困っていたので、仲立ちをした。私とイラク人は英語/私とホテル関係者は、勿論中国語であるが、中国語は会話半分・筆談半分でも立派に通訳できる。

 イラン人は大連市にモスクがあるかどうかを聞いていたのだ。苦労してした結果、大連火車站行きの路面電車に乗り二つ目の停留所で下車するとモスクに行けると言う事までイラン人に伝える事が出来た。 

 会社に出てから英語が堪能な高級技術者に聞くと、モスクへは路面電車に乗るのではなく・トロリーバスの方が便利なことがわかった。今晩、自分は、イラン人にタクシーを使って行ったら確実に行けると教えよう。高々120円で行ける距離である。
 余り言葉が通じない人達と接触していると、「言うほうが悪いのか/聞くほうが悪いのか」がわからなくなってしまう。

 今日は、日中に加えてイラクとの間で国際交流をしたことになる。

01/08/15(Wed.)
 昨夜の夕食は楽しかった。酒の飲めない私をホテル従業員が冷かしに来たのである。

 ホテルの食堂で夕食を食べていると、近くの席でビールを飲んでいた従業員が私用の中ジョッキーを持ってきて「乾杯」をしようと言うのである。アルコールの弱い私は、お茶の入った茶碗を出して乾杯の真似をすると、ヒールを飲めという。しかも「お前は中国流の乾杯を知らないのか」と言っている様だ。楽しいので「好朋友」・「悪朋友」と言い合ったり、梅干を食べたら、ビールを飲んでも良いとかわしたりしていた。

 しばらくすると、隣の席の客まで我がテーブルに集まって来た。その内の一人は、スプーンで乾杯しろと言う。当の本人はスプーン一杯の酒も飲めないほど弱いくせして、配慮をしてくれたのだろう。今度は、隣の席から「シャコ」の差し入れがあった。おまけに「シャコ」の食べ方まで丁寧に教えてくれる次第。返礼に梅干を差し出したが、誰も食べようとはしなかった。嗅いだだけで嫌な顔をする。

 会話は所々しかわからない。飛行機の話が出たのは、酔っ払うと飛行機のように浮いた気分になると言ったのだろう。日本の清酒や焼酎の話とそのアルコール度数の話も出た。度数の説明のためにウイスキーの瓶まで持ってきた。老酒の話も出た。時には筆談をしたり、気心の知れた日本語のわからない守衛さんが通訳してくれたり、時には私の生徒である給仕のお嬢さん達まで応援に駆けつけ通訳してくれた。私と酔っ払いが漫才をしている様を見て、周囲の人達やお客まで参加してくれた。お互いに言葉が理解出来ないのに、大声でしゃべりあっていると不思議に全員が旧知の仲間であったように思えてくる。残念ながら、時間がだいぶ経過したので「再見」でわかれた。
 今朝、ローピーに降りていくと、いつものホテル従業員が待っていてくれた。彼はまだ二日酔いのような顔をして、「好朋友」と言いながら握手をしに来たのは昨夜の気遣いをしたのだろうが、こちとらは不快感は何も無く、楽しかっただけである。言葉がわかると更に好い友人になれるのに残念である。中国語の勉強のために毎日漫才をしても良いとまで思っている。

 ささやかではあるが、毎日このような「日中友好」をしている。

01/08/14(Trues.)
 小泉総理大臣が靖国神社を参拝したとのニュースが流れた。
 近隣国の見解だけでなく、日本国中でも賛否が問われているが、来年はどうするのだろう。近隣の国から非難が再度でないための日本の見解をまとめ、そして対応をしておかないと、毎年終戦記念日の前に同じことを繰り返すことになる。

 総理も政治家も他の関係者も、ラジオを聞いている限りでは、内閣総理大臣としての参拝の是非を主張するだけであり、韓国・中国がなぜあれほどまでに反対するのか・真の主張は何かを論議していないように思う。小泉総理のパーフォーマンスだけとすれば意味は無い。

 瀋陽から帰って、幾人かの友人に歴史博物館の写真と自分のコメントを書いてメールで送った。その内の二人が、日本の歴史に対する評価をしてくれた。更に多くの友人が日本政府の対応についてのコメントも含めて何か言ってくれることを期待している。

01/08/13(Mon.)
 瀋陽へ行って良かった。“九・一八”歴史博物館/蒸気機関車博物館等々見るものは多い。瀋陽は中国共産党が活動を始めた中心地でもあるらしい。そのために巨大な歴史博物館を瀋陽に設立し、共産党の活躍のストーリーを展示してある。

 日本の近代史を学ぶときに忘れる事が出来ない所が瀋陽である。中国の近代史でも同じであろう。中国は、その屈辱的事実を忘れないようにと、9月18日の柳条湖爆破事件(中国侵略のきっかけとなったと言われている)が発生した所に博物館を設置した。建屋に入ったところに“歴史博物館の説明が”があり、中語・英語・日語で書かれている。その文章は「国辱を忘れてはいけない」/「中華を振興させよう」/「歴史を忘れてはならない」/「歴史を繰り返してはならない」と結ばれている。
 展示はすごくわかりやすくなっているが、日本の新聞の切り抜きが拡大されて壁に掲示してあり、その下に実物大の模型が飾られている。日本の侵略を誇張し、日本の残虐さなどを誇張し、日本を駆逐した中国共産党を賞賛するものでしかない。そこでは中国国民党まで敵になっている。中身は幼稚だ。中国の小学生向けの展示のように思えた。
 
 日本にこのような展示物は無いだろう。しかも、私は学校で日本の近代史あるいは現代史を学んでいない。中・高・大学共に、肝心の所まで来ない間に、学年が終わってしまったからである。身近な現代史の教育が必要であるにも拘らず、そこまでたどり着ける前に学期が終わるようにと仕組まれた結果である。今の日本に必要な教育は、世界と日本の関係を正しく教えることではないだろうか。そのためには、歴史教科書は第1章が現代から始めると良い。弥生・縄文は最後の章とする。古事記は読み物としては面白いので付録に入れることにしたらどうだろうか。

 瀋陽の写真は、写真集に記載してあります。

01/08/11(Sat.)
 一泊旅行で瀋陽に行く。中国での列車旅行は七、八年ぶりだ。
 昨日は、日本語が少し出来る中国の仕事仲間と瀋陽の話しをした。なぜ瀋陽かである。彼は博識である。戦後っ子ではあるが、勿論「日中」の歴史も良く知っている。話しをしていると、隣の席の65歳の技術者も参加してくれた。もちろん本音の話は出来ないので、当たり障りのないことを話しているが、いろいろ学ぶことが多い。中国でも良い知り合いを得た。

01/08/10(Fri.)
 果物商店の顔なじみのおばサンが挨拶してくれた。この数日その商店は展示する品数が少なかったのに、今日は“マンゴー”が置いてある。
 冷やかしで「好吃」と聞くと何か言っていたが「知らない」ということだけが分った。面白いので一個6元=90円もしたが2個買った。ホテルのロビーで「何を買ってきたのか」と怪訝な顔をされたので「マンゴー」と言うが、誰も食べた事がないようなので試食してもらう事にした。小さく切って貰い、無理やり試食して貰ったが、ほとんどの人は梅干の試食時のような顔をする。確かにそれほど美味ではないが、悪くはない。所が何人か試食していると、「ヘン好吃」と言う人が出て来たではないか。

 「ヘン好吃」の彼女は、「マンゴー」を食べるのは、南方系であり、北方系の中国人は食べない・食べた事もないだろうと言うのである。そして、日本人は東方系だから食べれると言う。面白い表現だ。果物店のおばサンは東方系の顔をしていたのに、食べたことがない様だ。また冷やかすネタが出来た。

01/08/09(Thur.)
 昨日は、歩道を占拠した何時もの“個人商店”が開かれなかった。その代わり車道にはぎっしりと警察の車両が停車していた。
 違法露天商店=許可のない商店の取り締まりがあったらしく、何時もの商店は違法販売店であったようだ。取り締まりが始まると、商店のオーナーはそのまま店をすてて逃げるのだそうだ。海老や蟹や魚はたいていバケツ一杯位であり、桃、とうもろこし、トマトも同様であるから、いざと言う時には、持って逃げることもできる。風呂敷の上の商品は風呂敷の四隅を持てば、通行人に化けることも出来る。自転車の荷台が陳列棚の人は、自転車に乗ればよい。今思うと、小店主はよくよく考慮した効率の良い商店を開いていた。

01/08/08(Wed.)
 農産物のコスト削減のためには、農業の機械化・流通コスト・規格の簡素化が必要であるとNHK短波放送で言っていた。勿論農業従事者だけではどうしようもない。
 中国は食文化の国と言われるが、その通りである。あらゆる食材を加工するだけではない。いかなる状態のものも食べてしまう知恵があるように思える。その知恵は言うまでもなく、高温加熱の料理である。高温のために大腸菌もO157菌も死んでしまう。

 我が宿泊しているホテルに隣接する、朝市及び日中市や他の歩道市場は見事である。勿論道路の歩道に設置した市場はほとんどが露天であり、市場の終了時間には店も・屋台も・人出も無くなってしまう。つい先ほどの混雑がもぬけの空になってしまうのである。

 野菜と海産物と肉が主体であるが、材料の搬入は2トン車・軽四・リャカー・自転車・カート・担ぎ等々考えられる運搬方法が使われる。店頭販売の商品は、折りたたみ机の上ならば良い方で、舗装道路の上にビニールシートを敷いただけの上にまで展示されている。勿論商品は食べ物にもかかわらず、品揃えされておらず/選別されておらず/梱包されておらず/冷凍もされていない。客が一つづつ手にとって品定めをして、必要な分だけ秤って購入する。

 日本人の感覚では、衛生状態を考えると露天市では何も買えないであろう。遠い超市(スーパーマーケット)まで出かけて、パックになっているもの以外は買えないであろう。しかし超市では、ほとんどの場合は必要な分だけの秤売りはない。

 しかし新鮮さをみると中国の露天市は産地直送=生産者直売であることは明確であり、取れたてである。海産物は生きたまま売られる。
 

01/08/07(Tue.)
 NHKが実施した「8/15の終戦の日に小泉首相が靖国神社参拝すること」に対する賛否世論調査では、どちらかとも言えない/反対/賛成の順になっており、その差は必ずしも大きくない。
 なぜ今更首相が「隣国が反対するにもかかわらず強行しようとするのか」/「なぜ中国と韓国が反対するのか」/を短波放送を聞いている限り詳細説明はされていない。総理の個人的感情で参拝するのだから個人に対する説得が必要であると言う。
 参拝を強行する/中止するのいずれの結果になっても、戦後の歴史を正しく振り返って見ることは必要だ。
 歴史教科書を隣国の主張通りに修正してしまえば、
またまた先送り、で済ませてしまうことと同じではないか。
 
 このままでは何時まで経っても日本の終戦は来ないように思える。

01/08/06(Mon.)
 大連の市電にはよく乗る。一応電車が来るまでは皆さん静かに並んで待っているのであるが、乗車するときにはその順番にはならない。早いもの勝ちで割り込んでくる。今まで並んでいても何の意味も無く、お構いなしに割り込むのである。気の弱い自分はたいてい最後になってやっと乗車出来ることになる。しかし、彼らは乗車してしまえば必ずしも「席とり」をしているのではない。時々、先に乗った若い人と思われる人から席を譲られることすらある。 下車も同じである。扉に近い所に立っていても、扉に殺到するから/前の人を押さない様に気配りすると、どんどん割り込まれ降りるのは最後になってしまうことがある。
 
 体がぶつかっても平気にならなければ繁華街は歩けない。ぶつからない様に気を配るような神経では買物は出来ないであろう。押しのけてでも目的のものに到着する図太い神経が必要である。 超市(スーパ・マーケット)のレジでも最初一列に並んでいたのに突然途中から二列になる事がある。しかも新しくわかれた列が本流になることがある。その時は、本流に割り込まない限り、何時までたって勘定台には到達出来ないことになる。

 誰も文句を言わずに、当たり前の顔をして、割り込みをしている。自分の前で割り込みをさせないためには、前の人と常に触れ合っていなければならないが、なかなか慣れないので疲れる。

01/08/05(Sun.)
 昨年は1782万人もの人が日本から外国に出たらしい。出国先は米国・韓国・中国の順であるとのこと。ビジネス客は減少したのにパック旅行が増大しているのもなるほどと思わせる。

 韓国・中国は隣の国だ。そして文化も食べ物も人種もそれほど変わらない。中に入って黙っておれば他国の者とは誰も思わないくらいだ。日本国内を移動する時間と同じ位で行き来が出来る。韓国・中国へのパック旅行者が増えるのは当たり前であろう。しかもパック旅行すると現地の五つ星のホテル代がただみたいになってしまうのも不思議だ。

 今になって反省しているが、英語会話能力をもっと付けておくべきだった。中国の技術者はたいてい英語がわかる。最近は自分がやっているインターネット範囲でも英文を読まなくてはならない時が時々ある。今後更に英語との遭遇の機会は増大する一方であろう。

 中国語は20年前に少し学習していたのが幸いして、少しづつではあるが話しが出来るようになってきた。聞けるようになったのはうれしい。

01/08/04(Sat.)
 20年来の夢であった「棒錘島」で釣りをすることが出来た。

 都心から棒錘島公園へ行く道路も整備された。途中には近代的なビルが立ち並ぶ。公園に近づくに従って、そこは今でも要人の避暑地である事がはっきりわかる。道路と景色が他とは違うのである。タクシーは道路を閉鎖する大きな扉前で停車した。入場には23元必要とのこと。20年前は鉄砲を担いだ軍人が検問していたが、今は鉄砲は持っていない。
 棒錘島と棒錘島賓館との関係位置を見ながら、昔泊まった別荘を捜すがわからない。島と賓館を見下ろす最も高い所に別荘があったはずだ。広い道路と大きな別荘が増えているので感覚が戻らないのである。 その時散歩した海岸沿いには、他の公園と同じように建物が増えていた。人出も多い。海岸線まで変わってしまったのだろうか?

 長年待ち望んでいた棒錘島での釣りは15センチほどのメバルとアイナメが合計30匹ほど。小さいが思ったよりも釣果はあった。
 残念ながら日本人一人では公園内に入れないので、次回は、誰か釣りきちの中国人を捜さなければならない。20年振りに大連で会えた老朋友が今も釣りをしていると言っていたので誘ってみよう。

01/08/03(Fri.)
 ビャ−ガーデンに行った。食べ放題で30元・飲み物は別でビールの中ジョッキーが20元。
 混雑している。ここでは中国人は瓶ビールを飲む人が多く、ジョッキーのぐい飲みは少ない。

01/08/02(Thur.)
 風邪がなかなかなおらない。土曜日に雨に濡れながら釣りをしたのに加え、帰ってから部屋でクーラーをかけっぱなしにして昼寝したのが悪かったようだ。
 先の1週間は天候が悪かったが大連に突風が吹いた。散歩範囲のあちこちの大木が倒れていた。路地いっぱいに倒れているものもある。新聞・TVは見ないし、誰も台風の話しはしていなかったので多くの大木が倒れているのを見て突風が吹いたことをことを知った。しかし、木が倒れた近辺の露天市のビニールシートは不思議なことにほとんど飛ばされておらず、何事も無かったように朝市が催され、相変わらずの人出である。

01/08/01(Wed.)
 いよいよお盆の月に入った。日本ではこの時期、夏休み・盆休みで大型連休を楽しむ人もあるのに、今の自分には盆休みはない。
 思い返してみると、入社した時は少ない休日が待ち遠しくてならなかったが、どんどん労働時間が短縮され・休日が増えて来たために/また歳をとってきたために連休もそれほど有り難くなくなっていた。

 大型連休の後再び出社できる人は幸せだ。出社するところが無くて連休をせざるを得ない人も多い。とりあえずはハローワークで薄給が貰えるとは言うもののそれもあっと言う間に過ぎてしまう。今後更に進むであろう構造改革の進展によっては、長期連休の人がますます増えるであろう。 自分は幸せだと思う。盆休みこそないが、給料付きで/海外旅行をして/ホテル住まいをして/食べ過ぎない様に注意して/そして中国の人達には親切にされている。半年前までの生活は何だったのだろうかとすら思える位である。

 中国滞在中に、
中国流の痛み分け方法を会得しておきたいと思う。