世界を大いに盛り上げれるのは涼宮ハルヒしかいない(駄文A)
まずはじめに
『涼宮ハルヒの憂鬱』(以下『〜の憂鬱』)という作品が終わった…無論アニメの話だが
しかし終わる前にレビューを書こう書こうと思いせっせと書いていた矢先の事で驚いた
しかも最終回を見て焦った
まったくやってくれた
それまでレビューに書いていた事(つまり春の『〜の憂鬱』に対する感想・思考)とまるっきり正反対だったのだ
後々ゆっくり語ろうと思う
つまりこの文章は終了後に全面的に書き直したものなのである
日曜日が潰れたよまったく
まぁ前書きを長々とやっていても仕方が無い
早速本題に移ろうと思う
まずこのレビューの構成だが
・1部『涼宮ハルヒの影響』…『〜の憂鬱』というアニメ作品が世にもたらした影響について
・2部『涼宮ハルヒの観念』…『〜の憂鬱』という作品が何を言いたかったか
である
ちなみに前回同様、今回も春個人の感想・思考でありマ○ター○ーション(今後マスター)に他ならない
だから熱心なハルヒ信者は「タコ死ねやボケ」と思うと同時にこのレビューを閉じてもらって構わない
なにせ原作をまったく読んでない上、数話の見逃しがあるのである
そう思われるのもいた仕方が無い
あくまで「春次音が感じた、アニメのハルヒへの感想」である
それを承知で以下を読んでいってほしい
それと『〜の憂鬱』をまだ見ていらっしゃらない方でこれから見ようと思っている方もこのレビューは見ないほうがいいだろう
では始めたいと思う
1部『涼宮ハルヒの影響』
はっきり言って春にとって『〜の憂鬱』は予想外の作品であった
元々いとうのいぢの絵が嫌いであった(某ゲームを思い出してしまうから)
『杓眼のシャナ』は1話だけ録画したが
あまりいい印象は受けなかった(曲は良かったが)
だから今回(『〜の憂鬱』)は絶対見ないと思ったのである
そんな春の心を動かしたのは友人の何気ないメールだった
「今暇?暇なら面白いもんあるぜ」
模試が一段落し、少々余裕があった為「何よ?」と返した
「ハルヒのEDなんだけどさ」
ハルヒ…?あぁ『〜の憂鬱』か
少々ガッカリしながら話を聞く
何でも『〜の憂鬱』のEDはクオリティが異常に良く、あちこちで祭りになっているとか
…そんなんより下手なFrashのほうが暇つぶしになるだろ
そう思いつつサイトに貼られたEDを見たのだった
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
…開眼というか覚醒というか
その時ほど先入観という情けない虚構に囚われていた哀れで愚かな自分を恥じたことはない
あのまま小意地な思考に囚われ続けたらこんなものには出会わなかった、出会えなかった
まさにそんな瞬間であった
春のようにED、または画質のクオリティの高さに何人の人が『〜の憂鬱』を見始めたのかは分からない
しかしこれが『〜の憂鬱』にとって有益な、1つの幸運の一つでもあると思う
実際に春は確実にその瞬間に、この作品に心を奪われたと言ってもいい
the京アニクオリティ
日本のサブカルチャー、万歳
クオリティについて一つ
全体を通して『〜の憂鬱』のクオリティの高さには目の見張るところがあった、というのは
大体感じてる方もいるだろうし上でそう述べてきたが
春をここまで感動させたのは『ライブアライブ』の1シーンであった
『God knows...』の終盤、ハルヒの髪が顔に張り付いていたのだ
言わずともわかると思うが、過激なライブ・弾き語り・観客の目・照明装置の熱等々
ステージ上の人間はそうそう無事ではない
非常に暑いのだ
春も高校では一応演劇部として舞台経験があるがあれは相当しんどかった
さらにハルヒは長髪である
髪の毛が汗で顔、額に張り付くのは至極当たり前の光景だ
しかしアニメにおいて、その当たり前はどこまでが当たり前であったか
つまらないアニメの一つなら髪はサラサラのままで終わっただろう
演奏が終わり話が終わり作品が終わる…
しかしそれではなかった
まさしく「アニメではないアニメ」に感動したのだった
あの話を「演奏中のハルヒの顔が崩れている」等々で非難する人もいるが
春はあの1話が『〜の憂鬱』の中で最も良かったと言いたい
さて
『〜の憂鬱』でもう一つ語らなければならないことがあるだろう
CD
『〜の憂鬱』関連のCDの売り上げは他を圧倒していた
まぁ一部サイト等で「目指せオリコン1位」を掲げていたが
それでもあの売り上げは異常であっただろう
HEYHEYHEY、JCD、CDTV…挙句めざましテレビにさえその影響は凄まじく
他のアニソンが初登場で上位に食い込んでいてもすぐに下っていったのとは違い
中々その位を譲り渡さなかった
インパクトのある曲風・歌詞…
しかしそれだけ売れる力があったのか
あの曲達には他のどんな力があったのだろうか…
それともそれも含めて全部
『〜の憂鬱』という作品の力だったのか…
どちらにせよ『〜の憂鬱』という作品が
この世の中に旋風の如く現れ、旋風の如く消えたのは周知の事実である
上半期のアニメ業界において
かの『Fate/stay night』よりも注目を集めたのではないか、と思うのも
過言ではないように思えてしょうがないのである
2部『涼宮ハルヒの観念』
涼宮ハルヒは異常能力の持ち主であった
願うだけで通常ではイレギュラーである存在を生み出し世界を塗り替える
さもその存在が「当たり前」であったかのように
小泉は言った「3年前に世界は出来上がったのではないか…」と
確かにそうだ、今の自分という存在は過去(厳密に言えば過去でもなく、別空間・別世界)にとってはイレギュラーだったかもしれない
それとは知らず、「今までの記憶」として「新しい記憶」を受け取り、生きているのかもしれない
これはアニメの中の話である、そうやって笑ってもいられないのではないか?
我々が生きるこの現実社会も不確定な要素が多数存在する
UFOや超能力や心霊や怪物…
いやそんな大層なことでなくてもいい
例えば自分のことは自分が一番分かっている!と思っても
自分の顔は鏡越しでなければ見ることができない
自分の後ろ姿に至っては相当の工夫を凝らさない限り確認できないのである
不確定要素は人間という弱い生き物に不安(あるいはそこから生じる恐怖)を感じてしまう
そんな星の数ほど存在する不確定要素達に大人は「真理」を作り上げることで自分達を保とうとした
どんな時間・空間でさえ普遍的に成立する「真理」…
実際にはそんなものは最も力の無い弱いものなのだ、ある筈のない虚構
しかし自分達の存在を普遍化させたかった大人達はそれを信じた
信じる他なかった
そして子供は大人から虚構の「真理」を無邪気に受け取って大人へと変化する
そうやって社会は構築され、今に至っていた
が
実は子供は変化していった
大人が子供を擁護し始めた時から子供は子供から大人になる過程において少しづつ、その過程から離れていった
近代から現代にかけて現れた「青年期」と呼ばれるものが成れの果てのそれだ
「青年期」では第2次成長(性長)を迎えるにあたり、心の中に様々な葛藤を起こす
親に反抗したり、本能に忠実になって安易な行動に走ったり、自己を見失ったり
そんな時期に過去どんな大人でも解決できなかった難題に出くわす
子供達が大人になるために信じていかなければならない虚構
大人達が過去に匙を投げ、それっきりにした受け入れたくない普遍と存在しない特殊とのジレンマ
当然心の不安定な「青年期」の人々にとって、そんな形骸を素直に受け取れる筈もなかった
そして「青年期」の人々は更なる深みへと沈んでいった
近年になって現れた数々の社会問題がそれだ
少年犯罪、NEET、パラサイトシングル…
ピーターパンシンドロームやシンデレラコンプレックスといった心の問題も
全ては世界を信じれなくなった哀れな大人のなり損ないの成れの果てだ
そこまでなっていなくとも、「青年期」の人々がその方向に向いている
…涼宮ハルヒはそんな「青年期」の一人であったのだ
涼宮ハルヒは「青年期」の我々と同じで
我々は涼宮ハルヒだったのだ…異常能力は持ち合わせていないが
涼宮ハルヒはあの作品の中で傍若無人、天下天上唯我独尊の限りを尽くす
虚構で固めた世界を真の世界と認識し、それを面白くないものとして否定する
そして自分の理想を夢想していた
そこからそれを現実に変えてしまった(しまいそうになった)
しかしキョンとの愛(?語弊か?)によって現実世界に戻った
ー我々にはその世界を塗り替える力がない
だから我々と涼宮ハルヒは違うのか
いいや何も違いはしないのだ
涼宮ハルヒにはたまたま(?)そんな力があっただけ
考えてることは我々「青年期」の人々と何等変わりがない
「世界がもっと面白かったらいいのになぁ」
そんな些細な願望の塊
その些細な願望を叶えるにはどうしたらいい?
世界を否定する?世界を夢想する?世界を破壊する?
…もっと簡単に考えたらいい
自分が変わればいい
世界を隅々まで見渡し、「真理」に埋もれてしまっていた可哀想な不確定要素を見つけるまでも無く
自分というアイデンティティーを失うことなく、自分の価値観を見直した時
きっと世界は変わる
隣にいた人が急に愛らしくなったり、色褪せていた窓から見える景色は魔法のようにパッと色を取り戻す
人を愛したことが無い?何事にも関心が持てない?
そんなことはない、あなたが変わりたいと願っているのなら必ずその時は訪れる
そしたら今までの心に吹き荒れていた嵐を忘れてしまうだろう
普遍・真理は在り得ないと言ったが最後に破ってしまうかもしれない
一つだけ、一つだけ真理があるとすれば
人は弱くは無い、弱いと思ってるのは自分
そして誰にだって世界を受け入れる力がある
かの涼宮ハルヒがそうであったように…
2006/07/09
エアコン直った
これで夏迎えられるうわぁいやほーい
春次音
付け足し
「はじめに」のところで
「後々正反対の理由を述べる」
とか言っておきながらまったくもって忘れてたね
スワンスワン
さて
『涼宮ハルヒの憂鬱』が言いたかったことですが
春は前述べたように
「自分が変わることによる、世界への価値観の変容」
とまとめましたが
実は最終回一つ前まで
「自己を貫け!世界を変えろ!」
だったんです、うっはぁ全然違ぇ
だから最終回見て驚きよ、真逆だもん
あともう一つ言い忘れ
最終回見て思ったんだけど
あの作品はホントに社会への自立を語りかけてたんじゃないか?って
「萌え」とか「アキバ系」とか
サブカルチャーが濫立してるこの現代において
「萌え」(も含む)というメディアを使って萌え(サブカルチャー=「青年期」)から脱却しろっていう
一種のアイロニーだったんじゃないか?
そうすりゃ
ずっと変革世界を望むハルヒ(サブカルチャーに染まった「青年期」の人々)
↓
キョンとのキス(現実を直面させる出来事)
↓
元の世界(現実世界への興味というか精神変化による世界への関心)
てな感じに
割とすっきりまとまるような感じがします
おっと
あんま長くすると皆さん疲れるだろうし
以上『涼宮ハルヒの憂鬱』感想でした
春は別にポニーテール萌えじゃないなぁ