腐れ縁は一日にして成らず
「何でこんなことに…」
李絳攸は自分の姿を見下ろし、げっそりと呟いた。
ここは彩雲国王都貴陽、豊穣祭の会場のとある評議会の控え室である。
「そんな顰めっ面してると、優勝出来るものも出来なくなってしまうよ?目指すは優勝なんだろ?」
周囲の騒がしさにも関わらず、絳攸の呟きを聞き留めた藍楸瑛が絳攸の顔を覗き込む。その言葉に絳攸は実に嫌そうな顔を浮かべた。
確かに、自分はそう宣言した。が、しかしである。
絳攸は隣の腐れ縁の男をじろりと睨む。
そう、男。だが今の藍楸瑛の姿は女だった…多少でかいが。
「そもそも、お前一人が出場すれば良かったんじゃないかっ」
こいつが「絳攸も出るなら出よう」などと迷惑極まりないことを言ったばかりに、こんなことになったのだ。
「でも、邵可様は断っても構わないと言ったのに出場を決めたのは君じゃないか」
頭に載せた朱雀を模した飾りをシャランと鳴らして、そのでかい女が正しいことを言う。
「そ、それはそうだが…」
尊敬する邵可様に内職などさせる訳にはいかない。そう思って出場を決めたのは確かだ。
「だろ?」
口籠る絳攸に構うことなくそのでかい女・藍楸瑛(性別:男・只今女装中☆)が、実に楽しそうににんまりと笑う。
…こいつ女装の趣味でもあるんじゃないのか?
そう疑いかけたところで、絳攸は己の姿を思い出して溜息を漏らした。
楸瑛のことは言えない。自分も女装中だ…。
癖で前髪を掻き上げようとした手が、現在の髪型に思い至り、止まる。頭上できっちり二つに結い上げられたこの髪形を崩してしまっては、自分では直せない。
絳攸は苛立ちを抑える為、殊更ゆっくりと息を吐いた。
自分が女装評議会などという滑稽なものに出場することになったのには、日頃から世話になっている一家の台所事情があった。
邵可様の為、秀麗の為、…あの家人の為だとは余り思いたくないが。彼らが白い飯にありつく為。そう呪文の様に絳攸は己に言い聞かせる。
呪文の成果でだいぶ心が落ち着いた時、表から盛大な銅鑼の音が響き渡った。
「ほらほら、もう時間だよ」
もう一度心の底から溜息を吐き、楸瑛に背を押されて絳攸は評議会の舞台へと上がった。
僅かなざわめきの後、観客の盛大な歓声と好奇の視線が絳攸の全身に突き刺さる。笑顔を心掛けようとするが、引きつっているのが自分でも判る。
―――嗚呼、この感覚は錯覚ではなく、二度目だ。
絳攸はゆっくりとその菫色の双眸を伏せた。
―――そう、一度目は十年前だ。
十年前、自分はここである少女に出逢った。
「何でこんなことに…」
李絳攸・十二歳は自分の姿を見下ろし、げっそりと呟いた。
頭が重い。常は上で一つに括っているだけの髪に色々な装飾品が付属している為だ。しかも動き難い。常は動き易さを重視した衣を着ているのに今日は裾が長い衣で足を引っ掛けそうだ。女物の肩巾も邪魔である。…何故、歴とした男子である自分が女物を身に着けているかというと…自分は今女装しているからだ。
絳攸は天を仰いだ。
「何で、俺が女装…」
少年の嘆きは誰にも届かなかった。
ことの起こりは一月前に遡る。
「何故ですかっ、兄上!?」
最近吏部に就任したばかりの紅黎深は兄・邵可に詰め寄った。彼の普段を知る者からしたら有り得ない涙目である。
「何故って…受け取れないよ。私は紅家から縁を切った者だからね。弟とはいえ紅家当主の君から、生活の為に金品を貰う訳にはいかないんだよ」
邵可は苦笑いをしながらも、きっぱりと断った。が、黎深はやはり黎深だった。
「でしたら、今すぐ当主を玖琅に継がせます!」
「黎深…そういうことじゃなくてね。私と約束したよね?そんな詰まらない理由で当主を弟に押し付けるようなことがあったら、私は君を許さないよ」
弟の無茶苦茶な理由に流石の邵可も笑みを消す。
「…………すみません」
兄の細い目が更に細まったのを見て、黎深は素直に謝罪した。これも彼の普段を知る者からしたら有り得ないことである。
弟のその様子をやれやれと見つつ、邵可はある提案をした。
「そんなことより、絳攸君をどこかへ遊びに連れて行ってあげたらどうだい。勉強熱心なのもいいけど、偶には息抜きも必要だよ。百合姫と家族で出掛けてごらん。きっと楽しいよ」
「でしたら、兄上も一緒に!」
「親子三人で。そうだね、近々貴陽の豊穣祭があるから行ってみたらどうだい?」
邵可は再び笑顔でそう言った。
絳攸の受難は、そんな些細な兄弟の会話から始まったのだった。
「という訳で、米俵百俵をもぎ取って来なさい」
「…は?」
自室にて机に向かっていた養い子に黎深は閉じた扇子をびしりと突き出し、堂々と命令した。
「あ、あの黎深様?」
「もう既に出場登録をしておいた」
訳が分からず混乱している養い子を余所に、彼は淡々と決定事項を述べた。
「ちょ、待って下さい!出場って一体何がですか?!」
「飲み込みが悪いな。豊穣祭の女装評議会・少年の部にお前は出場することになっているんだ」
「じょ、女装って…そんなこと初耳です!」
青くなる養い子を完全無視して、黎深は敬愛する兄に献上する優勝商品のことで頭が一杯だった。
「優勝して、米俵百俵を兄上に差し上げるのだ」
「俺はっ女装なんてイヤです!あなたが出ればいいじゃないですか!」
どこかうっとりしている養い親に絳攸は断固反抗した。
養い子のその頑なな態度に、黎深の目がすっと細まった。口には笑みを浮かべたままだったが、絳攸の体に冷たいものが走る。
「…お前は、私の女装姿を見たいのか?」
「…………………………いえ」
絳攸は養い親の目だけで人を殺せそうな視線を受けて、自分が恐ろしいことを口走ったことを知る。
「絳攸、優勝以外は認めないよ?」
「……は、はい」
黎深の本気の目を見て、絳攸は思わず頷いてしまった。
それを確認した黎深はその口に満足げな笑みを浮かべた。
「よし、では早速衣装合わせだ。脱ぎなさい」
「は?何言って、ま、待って下さい!」
黎深に衣を掴まれて絳攸の悲鳴が上がった。
「ぎゃー!!」
「こら、何故逃げる!」
「逃げますよ、普通!!」
「ほう、いい度胸だな」
「絳攸?入るわよ」
養い親子の格闘が繰り広げられているその時、絳攸の室の扉がすっと開いた。
「随分と賑やかね」
優雅な所作で室に入ってきたのは、黎深の妻・百合であった。
「百合様っ!」
絳攸は助かった、と胸を撫で下ろし、百合に懇願の視線を向けた。
「百合様、助けて下さい!」
「百合、邪魔をするな」
百合は夫に衣を剥がされかけている養い子と、養い子の衣を剥がしている夫を交互に見比べた。
そして。
「絳攸、何があったの?」
夫の存在など室に無いかの様に、百合は最愛の養い子に尋ねたのであった。
「ねぇ、貴方」
養い子の説明を聞き終えた百合は、ここでやっと夫を呼んだ。
「どうしてわたくしに内緒で、こんなにも楽しそうなことをしているのかしら」
「え、百合様?」
これでこんな無意義なことから開放されると思っていた絳攸は、百合のその言葉に目を瞬いた。
「絳攸、安心なさい」
口元に柔らかい笑みを浮かべながら、百合の目がきらりと光ったのを絳攸は確かに見た。
「わたくしが立派な美少女に仕立ててあげるわ!」
百合の自信に満ちたその言葉に、絳攸はおろか発端人である黎深でさえ口を挿むことは出来なかった。
「百合様…俺、」
「『私』よ、絳攸」
衣装合わせに疲れ果てた絳攸が口を開くと、百合に言葉遣いを訂正させられた。
見た目だけでなく、話し方や所作も大事なのだそうだ。果たしてそこまでする必要があるのだろうか、と絳攸は疑問に思うのだが。それが顔に出たのか、頭上からくすりと笑い声が落ちてきた。
「別に女装の為だけじゃないのよ。綺麗な言葉遣いは役に立つ時が屹度来るわ」
百合は銀糸の髪を梳きながら養い子の疑問に答えた。
自らの育ちのことを気にして、絳攸が沈みかける前に百合は絳攸の顔を覗き込んでにこりと笑った。
「そのままの絳攸も可愛いいのだけど、ね。朝廷では装うことも時には必要になるから」
絳攸の瞳が見開かれる。
「官吏に、なりたいのでしょ?」
「―――いっ!」
絳攸は髪を結いかけられているのも忘れて勢い良く振り返ってしまったので、頭皮の痛さに涙目になった。
「大丈夫?」
「は、はい」
頭を軽く押さえつつ、絳攸は百合の言葉をぐるぐると考えていた。
どうして分かったのだろう。まだ誰にも言っていないのに。国試を受けて、黎深様の役に立ちたいと密かに願っていた。しかしそれを言い出せずにいたのに。
「あ、あの百合様」
「うん?」
「黎深様は…このことを」
―――知っているのでしょうか。
絳攸は恐る恐る口を開いたが、百合は笑みを深くしただけだった。
髪に簪を挿し、薄く化粧を施し終えた養い子に、百合は会心の笑みを浮かべた。
「うん、文句無しだわ。これで優勝間違いなしね」
「…そうでしょうか」
疲れ果てた絳攸は力なく答えた。
「あら、わたくしの言うことに間違いがあって?」
「いえっ」
絳攸は慌てて首を横に振った。
「そうでしょ?」
満足気に頷いた後、百合はふと顔付きを改めた。
「…でもね、絳攸。好きな女の子の前ではその姿を見せては駄目よ?殿方の美しさは時に女の子を傷付けるものなのよ。それはもう見事に、ね…」
一時遠い目をした百合の忠告に、絳攸は意味も解らずただ頷くことしか出来なかった。
こうして、絳攸は晴れの豊穣祭当日を迎えた。秋晴れの空が清々しく実に美しい日だった。その空の下、養い親によって絶世の美少女に仕上げられた絳攸は―――道に迷っていた。
えーと、ここはどこだ?
百合様は、家人達は一体何処に?黎深様は…熱を出したという邵可様の娘さんの見舞いに寄ってから豊穣祭に来るということだったから、ここにはいないだろうが。
一刻前まで絳攸は百合の買い物に付き合わされていた。評議会に出るだけでも本当は恥ずかしくて嫌なのに、女装のままで。
養い子の衣(何故か女物)を新調しようとした百合に「お、私っあちらの店を見て来ます!」と逃げ出したまでは良かったのだ…多分。そこから書物を見たり画を見たりして歩いて…そして現在に至る。
絳攸は冷や汗を流しながら、周囲を見回した。
人は…いることはいる。闇雲に百合様達を探すより会場を目指した方がいいだろう。人に訊けばいいんだ、道を!幸いにして自分は今少女の姿だ。「道に迷ってしまったの。豊穣祭の会場まで行きたいのですが、教えて下さいますか?」と訊けばいいんだ!うるうると涙目で、上目遣いで!!
絳攸は百合直伝の美少女の所作を反芻した。
が。
―――くっ!そんなことできるかっ!!!!
絳攸は浅紅色の裳を握り締めて立ち尽くしていた。
そんな絳攸の様子に、近くの塩屋から出てきた人物がふと気付き、そして内心で大葛藤している絳攸にそろりと近付いた。
「どうしたの?」
「っ!?」
声を掛けられ、絳攸が勢い良く振り返った先に居たのは一人の少女だった。屹度、十人中十人全員が美少女と認めるような。
髪に挿した淡い藍色の蓮の飾りが少女に華やいだ印象を与える。髪飾りの横から流れる黒髪は艶めき、見ただけで上等と判る青を基調とした衣を纏っていた。しかしその衣でさえ少女を惹きたてるだけで、切れ長な目元は涼やかで、理知的な色を湛えていた。年上なのだろうか。自分より幾分か背が高い。
目を瞠る絳攸に、少女は小首を傾げる。
「…もしかして、迷子?」
「違う!」
いつもの癖でいつもの口調で大声を出してしまった。その声に驚いたのか、少女は目を瞬かせた。
「あ、あの、ごめん……なさ」
「―――ふっ」
慌てて謝った絳攸に対して、少女は噴出した。
今度は絳攸が目を瞬かせる番だった。少女が口元に手を当ててくすくす笑うのを、ただ呆然と眺めていた。
暫くして笑っていた少女は如何にか笑いを押さえることに成功し、呼吸を整えて、口を開く。
「こちらこそ、ごめんなさい。ふふ。余りに可愛かったから、つい。豊穣祭へ行きたいのかしら?」
黒曜石の輝きを思わせる瞳が興味深そうに輝く。
絳攸は何だか頬が熱くなるのを感じた。
「そう、豊穣祭へ行きたい…の」
絳攸が素直に頷くと、少女に行き成り手を掴まれた。
「ちょ…あの、手っ」
「はぐれるといけないから、いいでしょ?女同士ですもの」
少女にそう言って微笑まれると何も言えなくなってしまう。頬だけでなく、耳も熱い。
「私は玉華っていうの。あなたは?」
「こ…、ゆ、百合」
「絳攸」と言おうとしたところで自分の今の姿を思い出し、本当の名を言うのが何故か憚られた。つい評議会の登録名を名乗ってしまった。何故養い親が自分の妻の名を登録名にしていたのかは、絳攸にはさっぱり解らないが。
「豊穣祭には遊びに?」
「う、うん。その、家の者とはぐれてしまって…」
言葉遣いに気を配ろうと思うものの、どうしても意識が繋いだ手の方へといってしまう。
「丁度良かったわ。私も豊穣祭に行くところだったの。その前に用事があって」
「用事?」
「うん。私には兄がいるのだけど、兄に仕事を押し付けられてしまったのよ。全く、人使いが荒くて困るわ」
その玉華と名乗った少女は迷惑そうに言ったのだけれど、その横顔が嬉しそうだった。
「…好きなの、ですね、兄上が」
「え?」
切れ長の瞳が綺麗に丸くなる。
「違う、の?」
絳攸が不思議に思って訊けば、玉華はくすりと笑った。
「いいえ。本当は尊敬してるの」
嗚呼、だから仕事を任されて嬉しかったのだな。自分も黎深様に仕事を任されたらどんなにか誇らしいだろう。もしかしたら玉華と兄の関係は自分と養い親の関係に似ているのかもしれない。
絳攸は玉華と自分の共通点を見付けた気がし、嬉しくなった。だから誰にも話したことがないことを玉華に話してみようと思い、口を開いた。
「お、私も尊敬している方がいる、の」
色々と無茶苦茶なとこがある人だけど、とは言わずに。
「誰か訊いてもいい?」
「育ててくださった方」
「お父上?」
「父上じゃない。血が繋がっていないから」
改めて口にすると、少し悲しくなった。
「…そう。でもね」
しかし玉華はそれを聞いても驚いた顔一つせずに、にこりと笑った。
とても綺麗な笑顔だった。
「血が繋がっていなくても育てて下さったなら…あなたのお父上に変わりないと思うけど?」
何も知らない、今日初めて会った少女の、何気ない言葉に不覚にも泣きそうになる。
「…ありが、とう」
絳攸は玉華に握られていた手を少し強く握り返した。
それから二人は会場への道すがら、色々な話をした。
絳攸には拾われてから同年代の友人は居なかった。今に至るまで特に欲しいとも思わなかったが、少女とはいえ久しぶりに同年代の者との会話は新鮮で楽しかった。玉華の少女にしては少し低めの声が、耳に心地良かった。
「あああああ!良かったぁご無事でしたかぁぁ!」
会場に着いた二人を出迎えたのは紅家の家人の青い顔だった。
絳攸の体を見回しどこも怪我が無いことを確認すると、絳攸の肩に手を置き必死な顔で告げた。
「奥様にお知らせして参りますから、絶対にここを動かないで下さいね!絶対に!!」
絳攸はこくこくと頷いた。家人にしてみたらクビがかかっているどころでは無い。
家人の姿が見えなくなると、玉華は絳攸に向き直った。
「ここでお別れね」
「本当に、ありがとう」
頭を下げる絳攸に玉華は緩く首を降った。
「いいえ、短い間だったけど楽しかったわ。ねぇ、百合姫。また会えるかな?」
絳攸自身もまた会えたらいいな、とは思うものの自分は現在女装している身である。玉華がそれを知ったらどう思うか。
『好きな女の子の前ではその姿を見せては駄目よ?』
何故か解らないが、百合の忠告がふと頭を過る。
「百合姫」
絳攸が返答に窮していると、玉華はふわりと笑った。
花みたいと言うのはこういうことを言うのだとぼんやり思った。
「また会えるお呪い」
「え?」
きょとんとする絳攸の頬に柔らかい唇の感触を残して、少女は去っていった。
絳攸は控え室で赤い顔で俯いていた。どうしても先程のことが頭から離れない。
どうしよう。もしかして、これが世間で言うこ、恋というものなのか!?い、いや!そんなこと無い!大体相手はまた会えるかどうかも判らない、名前しか知らない少女ではないか!こ、恋などではないんだ!!そんな訳……っ
「百合姫」
「っ!」
絳攸は突然肩を叩かれ、飛び上がった。
「百合姫?次が最終選考だけど、大丈夫?」
声を掛けたのは評議会の係員だった。
「へ?最終選考?…あ、はい!大丈夫です!」
気付かぬ内に、次々と勝ち残っていたようだ。
「そう、良かった。最終選考は二人で競ってもらうからね。君はこちらから上がって」
その言葉に素直に頷く。
次に勝てば、養い親との約束は守られる訳だ。黎深様も会場に着いたと百合様が教えてくれたし、ここで負けるわけにはいかない。というか、勝ってさっさとこんなことは終わらせたい。
絳攸は強い決心を胸に舞台へと上がる。
わぁっという声援と好奇な視線が絳攸に突き刺さる。そんな中、舞台上に居る司会者が高らかに告げた。
「最終選考はこの二名で競って頂きますーっ!登録名、百合姫!登録名、玉華姫です!!」
「…………え?玉華?」
告げられた名に、絳攸は慌てて自分が上がった舞台袖とは反対方向に居る人物を探す。そこには先程別れたばかりの、あの少女が。口をぽかりと開けて自分と同じようにこちらを凝視している。
ええと、どうして玉華がここに?ここは確か豊穣祭恒例女装評議会・少年の部の筈。そう女装。女装とは即ち男が女の格好をすること。…男が。もちろん自分も男だ。では玉華は―――!?
「どうやら、審査員席の集計結果が出た模様ですっ!!さぁ!豊穣祭恒例女装評議会・少年の部の本年度の優勝は―――!!!」
声を失う二人に構わず、司会者は高らかに優勝者を発表した。
評議会からの帰り道―――米俵百俵を乗せた軒を引き連れての帰り道―――絳攸はこの日の出来事を記憶から抹消することを心に決めた。
「…ふっ、初恋?何だ、それ?食い物か?」
隣に居た百合は、養い子がくつくつと暗く笑って何事か呟くのを確かに聞いた。が、彼女は出来の良い母親だった為それについては追求しないことにした。
その後の絳攸はただただ勉強に励んだ。何かを振り切るように。
実は貴陽から遠く離れたある地で、この女装評議会の結果を心待ちにしている者達が居た。
その者達が早馬から受け取ったのは、四男準優勝の知らせだった。
「楸瑛が負けたか」
同じ顔をした三人の内一人が、料紙を眺める。
「意外だよ。あの楸瑛が負けるとは。本人も結構乗り気だったのにね」
「では優勝は?どこの家の者?」
残りの二人が好奇心に瞳を輝かせていると、三人より遥かに幼い顔をした少年が口を挟んだ。
「ぶすいだぞ。ぐけいたち」
「「「龍蓮?」」」
先日放浪の旅から戻ったばかりの幼い末っ子である。
「しらべたりせずとも、そのときがくればわかる」
淡々とした『藍龍蓮』の言葉に、三人の藍家当主は互いの顔を見合わせて笑った。「それも、面白い」と。
楸瑛が貴陽から帰って来たらどうやって迎えてやろうか、当主達が考え始めた頃、室の扉が軽く叩かれた。
「あら、皆様お揃いで」
室に入って来た女性に三つ子の長男・雪那は優しく笑いかけた。
「玉華、すまないね。楸瑛の奴、君の名を借りたのに優勝出来なかったようだ」
「まぁ、そうでしたの。それは残念でしたわね」
「貴陽に出回っている塩の質を見に行くついでに、優勝して来いって言ったのにな。しょうがない奴だ」
それでもどこか楽しそうな雪那の言葉に、本物の玉華はくすりと笑った。
「雪那さんの可愛い弟さんはどんな子なのかしら」
「一番素直で真面目で可愛い弟だよ。帰ってきたら紹介しよう」
「ええ、楽しみです」
玉華は「本当に楽しみ」とお日様のように笑った。
藍州でそんな会話がされている時、貴陽・邵可邸では紅家当主が満面の笑みを浮かべていた。
「兄上!どうぞ貰って下さい」
「有難う、黎深。絳攸君にも君からお礼を言っておいておくれ」
もの凄い勢いで邵可邸に米俵を運び入れる家人達を横に見ながら、邵可は笑顔全開の弟の好意を素直に受け取った。
黎深のこの上ない笑顔は、養い子の優勝が親として誇らしいのだろう。例えそれが何の優勝であれ。
「そうだ、黎深。実は藍家当主の方々にもお野菜を頂いてね。君からもお礼の文を…」
「何ですかっそれは!?忌々しい三つ子めがっ!!兄上に贈り物など許さん!!!」
邵可が言い終わらぬ内に、藍家当主達と犬猿の仲の黎深はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。そんな弟の様子を見て、どうして仲良く出来ないのだろうと、その原因である邵可は不思議に思った。
女装評議会の優勝商品・米俵百俵と準優勝商品・野菜一月分がまさか同じ所へ贈られているとは、優勝者と準優勝者が知る由も無い。
そして、時は流れ―――
『初めまして、李絳攸君』
―――その男はそう、言った。
「やれやれ、最後は籤引きとはね」
控え室で衣装を寛げながら、楸瑛は軽い調子で言った。
『邵可邸に優勝商品米俵百俵を!』という目的で絳攸、楸瑛と(何故か)劉輝が出場した貴陽・豊穣祭の女装評議会は三人の中から優勝者が出るかと思われた。が、優勝は飛び込み参加の超絶美人に贈られた。二位以下の順位は籤引きにより二位・絳攸、三位・楸瑛、四位・劉輝と相成った。
こんな馬鹿なことはやってられんとばかりに盛大に髪を崩し、衣装を脱ぎ捨てていた絳攸はふと楸瑛を振り返った。
「あの馬鹿王は?」
「裏で落ち込んでいたよ。ま、秀麗殿が居たから大丈夫だと思うけど」
「全く!どこの世界に女装評議会なんぞに出場する王が…って、何だよ」
絳攸はいつものように王の文句を言おうとしたが、じっと自分を見詰ている楸瑛に不快な声を出す。
「うん?やっぱり君には勝てないんだなって思ってさ」
にこりと笑った楸瑛に対して、絳攸は顔を顰める。
「籤だろ」
「運も実力の内ってね」
「女装の実力などいらん」
「そうだけど…二度目だからね。あ、国試を入れたら三度目か。君に負けるの」
絳攸の帯を解こうとした手が一瞬ぴくりと動いたのを楸瑛は見逃さず、笑みを更に深くした。
「覚えてる?」
「…何のことだ」
一瞬考えて、絳攸は知らない振りをすることにした。が、相手は誤魔化されなかった。
「惚けなくていいよ。君だって気付いていただろ?」
絳攸は一度息を吸ってから、ゆっくり吐き出す。
あれは六年前だ。国試で会った目の前のこの男は、自分に言った。少年くささを僅かに残した面に、模範的な笑みを浮かべて。
「お前は『初めまして』と言った」
「そうだったね。…ちょっとした意地だったんだけど。また君に負けてしまったし、もう時効かなって思ってさ」
腐れ縁のその男は、相変わらずの胡散臭い笑みのまま続けた。
「お互い本名も語らなかったからね。まぁ、家の情報網で調べればすぐに判ったと思うけど。調べなかったんだよ。なんでだと思う?」
「知るか」
取り付く島も無い絳攸の返答にも楸瑛は動じない。
「賭けてみたのさ。偶然という運命に」
「運命なんてあって堪るか!」
多くの女性を虜にしてしまう睦言も、絳攸には肌を粟立たせるだけだ。
「それでも、私達は国試で再会した。そして、今も横にいる。これを運命と言わずしてなんて言うんだい?」
「腐れ縁に決まってるだろうがっ!」
絳攸は自分と楸瑛を言い表す尤も適した言葉を言い放った。
「大体、運命なんて言葉は嫌いだ。自分の人生が誰かの手の上なんて冗談じゃない。人生なんてそれがどんなものだろうと自分で決めるものだ」
堂々と言い切った絳攸に楸瑛は僅かに瞳を見開いた後、その黒曜石の輝きを細めた。
「…成程。では私達は自分達の意思で再び巡り逢ったってことだね。その方がより情熱的だ」
「誰もそんなこと言ってない!」
かつての美しい少女は只の年中常春男になってしまった。
だから嫌だったんだ。この話は。記憶の彼方に追いやったと思ったのに。どうして今頃になって掘り返すんだっ!
「ねぇ絳攸、いい加減認めたらどうだい?」
「何を、」
絳攸が掴み掛ろうとしたところで、その腕を楸瑛に取られ身を引き寄せられる。取り残した頭の簪が一つ床に落ちて、高い音を上げた。
近すぎる位置に楸瑛の顔があって、声が詰まる。掴まれた腕が熱い。
「私はもう認めているよ?」
認めるまでに時間はかかったけどね。流石に初恋が男の子じゃ笑えないから、とは口には出さず。
「前にも言ったと思うけど。初恋の根深さを馬鹿にしてはいけないよ」
「そんなもの、…知らない。認め、無い」
何とか距離をとろうともがきながらも、その菫色の瞳で睨む絳攸に、楸瑛は溜息を吐いた。
「ほんと、頑なだねぇ」
その一拍後、端正な顔がふと何かを考えるように真顔になる。
「…私は後何年、君の隣に」
―――居れるのだろうか。
「楸瑛?」
「いや、忘れてくれ」
その問いに答えなど出せない。
答えなど出せないのを、分かっていても。
不安から生まれる問い。
「おい、勘違いするな」
いつの間にか抵抗を止めた絳攸は、まっすぐに楸瑛を見詰ていた。
睫毛の数まで数えられそうな位置で、菫の瞳が煌く。
「え?」
「勘違いするな、と言ったんだ。俺とお前は只の腐れ縁だ」
何度となく告げられた言葉が、この時初めて楸瑛に僅かな胸の痛みを生む。
けれども。そんな痛みなど、絳攸の次の言葉で全て消え去ってしまう。
「その腐った縁が一生物ってことくらい気付け」
何の心算も無く告げる絳攸に楸瑛は瞳を見開き、次いで微苦笑した。
「…君って人は、本当に―――」
三度なんてもんじゃなく私はきっと一生勝てないだろうな、と楸瑛は頭の隅で思った。
目を瞠る絳攸を視界の端に捉えながら、楸瑛は唇を絳攸のそれと重ねる。
「な、な、何するんだ、貴様は!!??」
唇を奪われた絳攸はわなわなと怒りに震え、唇を奪った楸瑛は口の端を吊り上げた。
「何って、お呪いだよ。どうやら私のお呪いは効果絶大みたいだから」
君と一生一緒に居れますように…なんて我ながら大した乙女思考だと楸瑛は思った。
お呪いというより悪質な呪だと絳攸は青ざめながら思った。まぁ呪なんて大抵悪質なんだが。
「お前なぁぁぁぁ」
凄艶な笑みを口に乗せる男に絳攸は色々と言いたいことがあったが、その中でも最優先の言葉を口にした。
「とりあえずっ着替えて化粧を落とせ!」
「おや?私の女装姿は気に入らなかった?」
「気に入る訳ないだろ!!お前はどれだけ人に心的外傷を残せば気が済むんだっ!?」
「少しでも君の心に残りたいという、健気な行為なんだよ」
「どこが健気だ、どこが!」
「私の無尽の愛が伝わっていないとは」
「気色の悪いこと言うな!!!」
「だったらこの愛が君に届くまで伝えるまでのことだよ」
「はぁ?おいっ脱ぐかしゃべるかどっちかにしろ!」
「あ、私の体に見惚れちゃった?」
「馬鹿か!!」
「そう言う君は肩巾が絡まってるよ?」
「え」
「ほら、貸して御覧」
「いいっ!自分で出来るっ」
「でも君、女物の衣なんて脱ぎ慣れてないだろ?」
「慣れてて堪るかっ!!!この常春!!!」
「こーゆー!しゅーえー!!今日は秀麗が手料理をご馳走して…」
「しゅ、主上!?」
「きゃー!!!お二人ともこ、こんなところで…!」
「しゅ、秀麗っ!待てっ何か誤解を…!」
「あー、秀麗殿走って行ってしまったね」
「そ、そなた達が悪いのだ。何もこんなところで、」
「馬鹿なこと言うなぁぁ!!」
「見られてしまっては仕方ないね」
「仕方ないのは貴様の脳味噌だっ楸瑛!」
「ち、痴話喧嘩はよくないのだ」
「晴れて公認の仲になったわけだし、そろそろ籍でも入れようか、絳攸?」
「いっっっぺん死んでこいっっっっ!!!!!」
ぎゃいぎゃいと響く怒声と、けたけたと空気を震わす笑声と。
途切れることなく続くそれは、二人の縁そのものに。
―――愛よりも恋よりも早く、僕達は出逢った。それが全ての始まり。
王の双花菖蒲と謳われる李絳攸と藍の出逢いを知る者は少ない。
*************
楸瑛×絳攸アンソロジー『月香花』に載せて頂いた原稿を加筆修正しました。
DVD
この原稿を書いたのはもう1年以上前なのですが…自分の頭の中が全く成長していないことに驚きました(笑)双花大好き!
UP
08/9/16