蛍火











日中では汗ばむ陽気も日が傾くと和らぎ、過ごしやすい初夏の頃。

 

貴陽の王宮は、日が伸びたとはいえもう夜の帳に包まれていた。他の官吏がとっくに家路についた時間帯になっても、吏部侍郎の室からは灯りが漏れていた。

一人の武官が慣れた様子で、その室の主である青年を訪ねた。

「相変わらず、君の室は見事だねぇ」

扉を開けたと同時に眼前に広がる積み上がった書翰に感嘆の声が上がる。

その声に吏部侍郎・李絳攸は眉を寄せる。

大量の書翰の所為で姿こそ目視できないが、悪鬼巣窟の異名をとる吏部を治める副官の自分に、こんなことを言う人間を絳攸は一人しか知らない。

「何の用だ、藍楸瑛」

「君も、相変わらず冷たいね。親友に会いに来るのに何の理由がいるんだい?」

その悲しそうな口調とは裏腹に男は、にやにやと笑っていることだろう。

絳攸には顔を見ずとも判る。

「誰が親友だ!お前とは腐れ縁だと何回言わせる気だ!!」

絳攸の声に周りの山が少し揺れた。

楸瑛はそれをさらりと聞き流して、室の中へ入って来た。

「どうせまた、休憩も取らずに根を詰めていたんだろ?」

人の話を全く聞かない男に、絳攸は彼を追い出すことを諦めた。一つ息を吐く。

「…どんなにやっても足りない位だ」

「うん、まぁそうだね」

苦々しく吐き捨てた絳攸に、楸瑛は苦笑いで応えた。

 

吏部尚書が仕事を全くしないことは朝廷では有名な話で、そのつけが侍郎に回るのも頷ける。

だが、絳攸の言葉にはもう一つ意味がある。

その若さで吏部侍郎までなったのだ。彼が周りから求められるものは大きい。倍などと生易しいものではない。他の官吏の何倍もの仕事をして当たり前。そうでなくては侍郎の地位は守れない。

絳攸にとって「吏部侍郎」は高官という以上に特別な意味を持つ。「吏部尚書」である養い親の役に立つことが全てである彼にとって、「吏部侍郎」は何としても守りたい地位だろう。

 

「でも、体を壊したら元も子もないよ?君の上司殿にだって呆れられてしまうんじゃないかな?」

絳攸の肩が小さく揺れる。

養い親のことを持ち出せば、彼が強く出られないことが判っていて態と言う。

実のところそのことが面白くも無いのだけれど、そんなのはおくびにも出さない。

「と、いうことで」

楸瑛はすぐ傍まで近付くと、絳攸の腕をぐいっと持ち上げて椅子から立ち上がらせた。

「一休みしようね」

満面の笑みで微笑む。

「は?おい、放せ!」

絳攸は慌ててその腕を振り払おうとしたが、そこは腕力の差か、徒労に終わる。

「まだ仕事が残っている!」

「いいから、いいから」

楸瑛は暴れる絳攸を侍郎室から引っ張り出した。

 

 

 

絳攸が連れて行かれたのは、庭院だった。

それもかなり奥の。地理に疎い(と本人は思っている)自分には確かな位置は特定できないが、後宮の方なのではないだろうか。

絳攸は自分をこんなところまで引っ張ってきた男に文句を言おうと、視線を前に向ける。ふと、仄かな光が目の端に映る。青白く頼り無げにゆらゆらと光るそれは―――。

「蛍…か」

暗くてよくは見えないが、小川の流れも聴き取れる。

「風流だろ?」

楸瑛は口の端を上げた。

日々の仕事に追われ蛍狩りなど楽しむ時間と心の余裕も無かった絳攸は、楸瑛の言葉に思わず頷きそうになった。しかし、それがどうにも癪で低く唸る。

「お前、よくこんな処知ってたな」

「うん?」

「どうせ、女官と逢引している時にでも見付けたんだろ」

じとりと睨みつける。が、楸瑛は動じない。

「おや、妬いてくれるの?」

「誰がだっ!お前いい加減自重しろ!後宮がお前の物だとでも思ってるのか?!」

昔から楸瑛の女遊びが派手なことは知っているが、それが妓楼と後宮では訳が違う。実質現在の後宮が一人の后妃も居なかろうが、楸瑛が藍家だろうが将軍職を拝命してようが、後宮が王ただ一人のものであることには変わりはない。いつそれが問題にされても可笑しくないと絳攸は思っている。それなのにこの男は毎日毎日、ふらふらふらふら…。

絳攸はこの際その常春頭に説教を叩き込んでやろうと、口を開いた。

「大体!お前はいつも…」

「絳攸。そんなに怒鳴ると蛍が驚いて逃げてしまうよ?」

楸瑛が更に言い募ろうとする絳攸にそっと忠告をすると、絳攸ははっとして黙り込んだ。楸瑛はそんな絳攸の様子に思わず笑みを零すが、その表情に気付いた絳攸に無言で睨まれ内心だけで笑う。

 

静かになった様子に安心したのか、一匹の蛍が此方に飛んで来た。

絳攸は潰さない様に加減をしながら蛍を両手で包み込む。柔らかな光が絳攸を包む。そして、その手をから小さな光をそっと開放する。

 

その光景が余りに、美しく幻想的で…。

余りに、儚かった。

 

まるで彼そのものに見えた。

目の下の隈もまた痩せた体も、彼は厭わない。それでも「まだ足りない」と言うだろう。

文官だった頃ならまだしも、武官となった自分が絳攸の仕事を手伝えるわけも無い。いや、文官でも彼はそれを許さないだろう。一人でやらなければ意味が無いのだ。国試の成績など何の意味も無い。実績を積んで初めて認められる。

脇目も振らず頑張り過ぎる彼の為に自分ができることなど、無いのだ。

 

それでも。

彼の為に何かしたいと、体が自然に動く。

こうして生真面目な親友の息抜きくらいは付き合えるだろう。

 

楸瑛はふと苦く笑う。

そう思っているだけで、結局は自分が会いたかっただけなのかもしれない。

 

 

 

蛍に目を奪われる絳攸に、楸瑛は後ろからそっと抱きついた。

「っな!」

絳攸が抗議の声を上げる。

「…すまないね。少し立ち眩みが」

「はぁ?左羽林軍の将軍が何言ってる!お前最近弛んでるんじゃないか?大将軍にしごかれるぞ」

口では悪態を吐いても、無理矢理振り解こうとしないのは彼の優しさか。

「酷いな」

彼の銀糸の髪に鼻を押し付けると、ひんやりと冷たかった。

 

 

 

こんな風にふざけて…はぐらかして。

一体いつまで誤魔化せるのだろう。

もう限界はすぐそこまできているのに。

 

溢れた想いに溺れてしまいそうだ。












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溺れてしまえ。と、いうことでまだ主上付になる以前の2人でした。
基本に帰って将軍の片思い。

Material-BのKEIKO様&MAKOTO様に捧げます。

07/7/24

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