扇の行方











楸瑛に、自分が見たがっていた書物が手に入ったからと藍邸へ誘われた。書物を見るついでに、久しぶりに酒でも飲まないかと。

藍家縁の著者のその書物が読みたいというのもあったが、楸瑛が余りに熱心に誘うのが何だか可笑しかった。口では「まぁ、いいだろう」なんて告げながら、口の端が緩むのを感じ己を戒めた。

 

楸瑛は自分を自室へと通した後、酒を持ちに出て行った。家人に任せるでもなくいそいそと動く楸瑛をマメな奴だなと思った。

楸瑛の自室は、相変わらず高級な調度品が嫌味なく揃えられていた。自分の室は書物ばかりでとても殺風景だが、趣の違ったこの室が自分は嫌いではない。

今まで幾度か訪れたことがある見慣れた室は、けれど今までとは何か変わった様な気がした。室の主と同じ香りのするこの室が、今日は何だかくすぐったい。

何かが変化した感覚は自分達の関係の様にも思えた。

楸瑛が藍州から帰って来てからというもの、自分達は何かが変わった。

薄い幕が取り払われた様な、今まで決して掴めなかったものに手が届いた様な感覚。

楸瑛自身にも変化がある。

それまで妓楼はおろか後宮でも浮名を流しまくっていたが、帰って来てからはそれがピタリと止んだ。後宮では「藍将軍に本命が出来たに違いない」と専らの噂で、女官達が嘆いている…らしい。

別にそのことに、自分が絡んでいるとは…思わないが…。

 

『君の傍に居るよ。喩え君が嫌だと言ってもね』

 

ふと楸瑛の言葉を思い出し、ついでにその時の状況も思い出し、絳攸は赤面した。

べ、別にあの言葉に深い意味がある訳ではないんだ!屹度!!せ、せ、せ、接吻だって、何だ、その、気の迷いというか、魔が差したというか!

 

絳攸は一人取り乱して室内をぐるぐる歩き回っている内に机案に体がぶつかり、机案に一本の扇があることに気付いた。

その扇は新品では無く、むしろ古い物の様だ。しかしとても保存状態がよかったらしく傷んだ様子も無い。

少し小振りな扇を何気なく手にとって開いてみる。華やかな柄のそれはどう見ても女物だった。

妓楼や後宮の女の物ではない、気がした。何となく。

女遊びが派手な楸瑛だが、自邸に女を招くということは無い。

大切な物なのだろうか…?

 

手にとってしまったそれを持て余していると、背後で扉が開く音がした。

「絳攸?座っていてくれて…」

振り返ると、不用意に言葉を切る楸瑛の姿があった。

自分が何を持っているのか気付いたその顔が僅かに焦る。

「お前のか?」

分かりきっていることを問う己に、内心驚く。

「…いや」

僅かな沈黙が降りる。先に口を開いたのは楸瑛だった。

「絳攸、それはね」

「別に聞いていない」

扇を閉じると、パチリと以外に大きな音がした。

その扇が楸瑛にとって大切な物だと思った。

楸瑛に自分が知らない大切なものがあって当然だ。自分達は個々の人間なのだ。

どんなに近くにいても全てを共有するなんて不可能だし、したいとも思わない。

楸瑛の全てを自分に話して欲しいとは思わない。

そう思って言った言葉なのに、何故か楸瑛に傷ついた顔をされた。

「うん、でも私は聞いて欲しい」

 

その扇は、あの女…珠翠という女官の物だと言う。何でも初めて会った時に彼女がその扇を持って舞っていたそうだ。想い人を想って。その時手にしたそれを先日本人に返そうとしたら断られたらしく、現在に至る…らしい。というか、そんな何年も前に失くした物を今更返されても困るだろうと、思ったが口には出さなかった。

とにかく楸瑛が言うには「珠翠殿とは、何でもないから」ということらしい。「確かに人間的に好意を抱いているけれど、それとこれとは」ということらしい。

その彼らしくない物言いに、いつも余裕綽綽な顔に浮かぶ必死さに、笑ってしまいそうなのを堪える。

自分と養い親の関係を変に意識する楸瑛に「黎深様のことは確かに尊敬しているしお役に立ちたいが、お前が変に勘繰っている意味が判らん」と言ったことがある。ふと、そんなことを思い出した。

 

「でも、もう処分しなくてはね」

「…何故?大切な物なのだろう?」

話を聞いて、浮かんだ考えに我ながら驚く。とんだ気まぐれだと思った。

もし「妬いてるの?」とからかわれていたら、絶対にそんなことしなかっただろう。あんな、不安そうな情けない顔するから。

脳裏に養い親の顔が浮かんだ。

 

「いいんだ。私には君がいれば」

常春発言に溜息を一つ吐いて、口を開く。

 

「齧った程度だからな。余り期待はするな…」

 

すうっと息を吸い、扇をゆるりと開く。

 

 

 




 

 

 

見たがっていた書物が手に入ったからと理由をつけて、そのついでに酒でも飲まないかと絳攸を誘えば、「まぁ、いいだろう」なんて彼にしたら乗りの良い返事が返ってきた。

 

絳攸を先に自室に通して、自分は酒と肴を運んで戻ってみると、彼は一本の扇を手にとって眺めていた。

「お前のか?」

「…いや」

冷たく聴こえる絳攸の声に、何とか返事をする。

どう見ても女物のそれは、珠翠の物だった。

自分にしては何とも間抜けな。絳攸を誘えて浮かれていたのか、邪な期待をしていた為か。

本来の持ち主に返そうとしたが「いりません」と冷たく言い放たれたのは先日のこと。

まぁ本当に今更なので、強く出れずそのまま持ち帰った。捨てるのも忍びなく、そのまま机案に置いておいたのが不味かったのか。

 

「絳攸、それはね」

「別に聞いてない」

言い訳をしようとする自分を一刀両断し、絳攸はパチリと扇を鳴らす。その姿が彼の養い親を彷彿とさせる。

「うん、でも私は聞いて欲しい」
我ながら浮気現場を見られた夫の様だと辟易しながらも、食い下がった。

 

珠翠が好きな人(自分ではない)を思って舞っていたこと。返そうとしたが断られたことを強調しながら話す。ちなみに彼女の舞を見てみっともなく(珠翠談)涙を流したことには触れずに説明する。

本当は上手く誤魔化すことも出来たと思う。けれど、嘘は吐きたくなかった。

 

話を聞き終えた絳攸は「ふーん」と呟く。

「でも、もう処分しなくてはね」

これがいい機会かもしれない。

「…何故?大切な物なのだろう?」

問う絳攸に、苦笑いを浮かべて答える。

「いいんだ。私には君がいれば」

こういったこと言われるのが嫌いな絳攸は怒るかと思ったが、溜息を一つ吐いただけだった。

 

「齧った程度だからな。…余り期待はするな」

 

少し照れた様に告げる言葉に「え?」とは声に出ず、彼の動きを目で追う。

絳攸はすうっと息を吸い込んだそのまま、扇をゆるりと開く。

 

視線の一つ一つに魅せられる。

鳥肌が立つ。

 

『想遥恋』

永遠に叶うことの無い片恋の舞。

たった一人を想って舞うというその舞を絳攸が舞っていた。

 

目の肥えた自分から見たらそれは、荒削りなところももちろんあるし、超一流とはいえなかったけど。

自分にはそれ以上の価値のあるものだった。

たった一人を想って舞うというこの舞を、彼は誰を想って舞っているのか。

この舞は誰の為のものだ。

 

舞い終えた絳攸は扇を閉じて、自分に差し出した。

「捨てなくていい。大切な思い出なんだろ?」

そうして、その扇にまた思い出を残していくんだ。もう捨てれる訳など無い。

その扇を受け取りながら、目頭が熱くなるのを感じたがなんとか堪える。

 

『誰か一人を想ってみっとも無く涙を流していたその姿の方がよほど貴方らしい』

 

珠翠の言葉が蘇り、「嗚呼、確かに」と思った。

全く、これ以上人の心を掴んでどうしようと言うのだ。

「…今夜は帰したくないな」

「は?何か言ったか?」

本音が思わず零れたが、絳攸には届かなかった様だ。

「いいや」と、笑って絳攸に席と酒を勧める。

 

 

さて、ここらへんで縮まった距離から更に一歩前へ踏み出そうか。












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この後はご想像にお任せで(笑)
「青嵐の後に〜」で入れたかった扇のエピソードですが、入りきらずにこんな形になりました。楸瑛×珠翠の要素があるものは全て双花に書き換えたいとこですね。これ書く為にすこーしだけ原作読み返しましたが…泣けてきました。再封印です。
07/8/6

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