初恋の人
秀麗を茶州の境まで送り届けた楸瑛を出迎えたのは、絳攸だった。官舎まで来た絳攸に楸瑛は驚き、続いて苦笑いした。
絳攸の顔を見て、先程別れたばかりの部下・韓升の言葉が蘇る。目の前の彼もまた、少女と同じ官吏だ。きっと彼も気付いていた。自分は部下に言われるまで気付かなかったことを。武官こそが、自分こそが彼らを、国を守るのだと思っていた。その為の力があることに子供じみた優越感を持っていた。
立ち尽くしたままの絳攸に歩み寄り、楸瑛はしみじみと呟いた。
「官吏というのは武官をも守ってしまうものなんだね…」
「……ああ、誇りに思うさ」
穏やかに答えた絳攸の瞳はこちらを捕らえてはいなかった。どこか遠く…茶州を眺めていた。口元には滅多に見せない微笑を浮かべて。
―誇りに思う―
文官という職業について…?いや、
いつの間にか彼女は彼の心に大きく関わってきていた。初めは、尊敬する人の娘というだけだったのかもしれない。だが、今は―――。女性嫌いの絳攸が秀麗には心を開いている。もちろん楸瑛自身も秀麗には、弟の件も含めて好意を抱いている。しかし、楸瑛が抱く気持ちと絳攸が抱く気持ちはどこか違う気がする。それが恋と呼べるものかどうかは現時点では判断できないが。
「それは同じ官吏として?それとも師匠として?」
「両方だ」
楸瑛の言葉に揶揄の色を感じたのか、絳攸は怒ったように言ったが、その表情はどこか嬉しそうだった。楸瑛は眩しそうに目を細めた。
―――少し羨ましかった。自分が過去に捨てたものが眩しかった。あの時は選ばざるをえなかったとはいえ、自分の選択は間違ってはいなかったと今でも思う。武官になったことに後悔もしていない。ただ…少し―――彼らが羨ましかった。
自分にも何かを羨む気持ちがあったのかと、驚き、可笑しくなった。
思わず笑いたくなったが、こんな時に笑い出したら目の前の彼に気が触れたかと思われてしまう。なんとか笑いを堪えると、ふと絳攸に聞きたかったことが頭に思い浮かんだ。藍家の情報網を考えれば本人に聞くまでのことではないのかもしれないが、絳攸本人の口から聞きたかった。まぁ、そこは藍楸瑛らしく、本題に入る前にちょっと反応を楽しませてもらおうと、悪戯心が頭を擡げる。
「けれど、縁談相手としては心配が尽きないよね?」
にやり、と笑って告げれば、相手は一瞬何を言われたか理解できなかったようだ。
「な…!!」
二の句が告げない絳攸の代わりに楸瑛が後を引き取る。
「なんで知ってるかって?それは藍家の情報網と先日の君の酔い方、そして今の反応を見れば間違いないだろう?」
不覚にも絳攸は呆気にとられてしまった。
「でも、秀麗殿の様子はいつもと変わらなかったし、彼女はまだ知らないのかな?」
平常心を取り戻した絳攸は溜息を一つ吐いた。そこまでわかっているなら、なにも隠す必要がない。絳攸は呆れ顔で答えた。
「玖琅様が寄越した話だ。秀麗はまだ知らない。お前の弟だって候補者だろうっ!」
ぎろっと睨み付けたが、楸瑛は笑顔で交わす。
「らしいね。私としてはあんな変人に秀麗殿はもったいないと思うのだけど。むしろ義理の妹より私の妻になって欲しいくらいだね」
「この常春男めっ!!」
「聞いていいかな?」
「何をだっ!?」
「君はこの縁談どうするの?」
声の質はいつもと変わらなかった。「君は今日の夕食会どうするの?」とでも聞かれたかのような感じだった。からかうつもりなら、怒鳴って終いだ。しかし、楸瑛の瞳は真剣だった。はぐらかすことは許さないとでもいうように…。
「…受けない。今はまだ」
絳攸はどこか苦しげに呟いた。『今は』それが彼の答えなのだろう。絳攸は紅家の為に生きているわけではない。ただ一人、養い親の為だけに。
「無事に帰って来ればそれでいい…」
俯いたまま告げたのは真実だった。願うのは、武器一つ持たず民の為に駆けていった少女の無事。
絳攸の様子をじっと見つめていた楸瑛はあえて明るく言った。
「大丈夫だよ、秀麗殿は」
能天気な発言に絳攸は眉を顰めた。
「なんだい、私が嘘を言ったことがあるかい?」
「どの口が言うか!?貴様はいつも嘘ばかりだろう!!!」
「酷いな。君には本当のことを言っているのに…」
「はっ!どうだか」
いつもの調子で吐き捨てる絳攸に微笑んで、ふと彼の心にそっと石を投げたい衝動が沸き起こった。
「でも、仮に君と秀麗殿が結婚したら初恋の人を盗られたみたいで寂しいな」
気付くまでいかなくても何か感じて欲しいという、淡い期待を抱いて。
「馬鹿か、貴様は!何が初恋の人だ!秀麗はお前のものじゃないぞ!
「………………………」
石は何の波紋も創ることなく、池の底の沈んでしまったようだ。
『私の妻になって欲しいくらいだ』発言の所為なのだろうか。それとも日頃の行いの所為か…。
「そんなこと主上と静蘭の前で言ってみろ、殺されるぞ!」
「ああ、確かにそれは恐いな」
主上はともかく、元公子様は恐い。あともう一人こわーい叔父がいるのだが…それは考えない。というか考えたくない。
「馬鹿なこと言ってないで、室に戻るぞ!仕事が滞って仕方ない」
絳攸は意気揚揚と歩き出した。執務室とは反対方向へ。
「絳攸、執務室はこっちだよ」
楸瑛は絳攸の進行方向とは別の方角を指差す。
「―っ、わかってる!!」
「君、よくここまで辿り着けたよね。そんなに私に会いたかったのかい?」
「誰がだっ!!!この万年常春頭!!」
「おや、そんな可愛くないことを言うと置いて行ってしまうよ?」
「ちょ…待っ!」
思わず伸ばした絳攸の手を掬い取って楸瑛は歩き出す。
「さ、私達も今自分達ができる仕事をしにいかないとね」
「お前!!何掴んでやがる!離せっっ!!!!」
絳攸の文句を綺麗に聞き流して。
―盗られたみたいで―
ねぇ、絳攸。君はその意味を勘違いしているよ。
『秀麗殿を君に』じゃなくて『秀麗殿に君を』なんだよ?
*************
8巻での2人の会話に繋げてみました。
双花小説第二弾…と言いつつ、楸瑛→絳攸→秀麗って感じ。私、原作読み始めは
これ書いてて楸瑛の「ねぇ、絳攸」ってしゃべり方が好きなことに気付きましたよ!
こんな調子で書いていきますので、よろしかったらお付き合い下さい。
06/12/14