そのままの君で










これは、とある奇跡の物語である。

 

 

人は誰しも他人に言えない秘密や、知られたくない劣等感を持っているものである。それは、当時史上最年少状元及第を果たし、吏部侍郎を務め、王の側近に任命され、出世街道を驀進し、末は最年少宰相かと期待され、「鉄壁の理性」と謳われる、李絳攸とて例外ではない。

それどころか、彼には唯一にして最大の欠点があった。

その欠点の所為でどれ程の時を無為に過ごしただろうか。腐れ縁の友人にからかわれ続け、仕事場である宮中で道案内をされるという屈辱にも耐えてきた。

もし、その欠点さえなかったら、彼の人生は大きく変わっていたことだろう。

 

そう、もしその欠点さえなかったら。

 

その日、彼―――李絳攸に奇跡が舞い降りた。

 

 

李絳攸はその日、珍しく自邸の寝台の上で目を覚ました。

珍しく…というのは彼が務める吏部は「公休日?何ソレ、食べ物?」といった部署であり、残業徹夜は当たり前。自邸に戻れることも稀であった。

現に絳攸がこの日、自邸に戻れたのは実に十日ぶりのことであった。

絳攸はいまだ眠りから覚醒しきっていない頭でここが見慣れすぎた吏部の侍郎室ではなく、府庫の仮眠室でもなく、自邸だということを理解した。

絳攸は寝台から体を起こし、床に足を付けて立ち上がった。その時、サァーと何かが頭の上から足の先まで駆け抜けるような感覚がした。

初めは貧血かと身構えたが、眩暈がするわけでも、体がだるいというわけでもない。

「……ん?」

絳攸は首を傾げた。

なんだろう、むしろ体が軽い気がする。

絳攸は自分の両手をじっと見つめた。次いで手を開いたり閉じたりしてみる。どこも可笑しくない。

絳攸は再び首を傾げた。

 

 

 

「失礼します」

楸瑛が頼まれた書簡を持って執務室に入ると、そこには王しか居なかった。

「絳攸は?」

もう一人の側近の名を出せば、書翰と奮闘中の王が顔を上げた。

「ああ、先程戸部へ書翰を届けに出て行ったぞ」

「そうですか。では、暫くは戻って来ませんね」

本人が聞いたら間違いなく怒り狂っただろうことを、楸瑛はさらりと言う。

しかしそれを聞いた劉輝も同感だったのあえて何も言わない。

代わりに劉輝はずっと疑問だったことを口にした。

「…絳攸の方向感覚は一体どうなっているのだろうな」

こちらも本人が聞いたら怒り狂っただろうが、生憎その本人は居ない。もちろん居ないからこその言葉であったのだが。

劉輝の集中力はすっかり切れてしまったようだ。筆をくるくる回しながら、頬杖をついている。

いつ戻ってくるかは定かではないが、このまま王が仕事をサボっていては、彼の怒りを買うことは間違いない。只でさえ、迷子になった後で気が立っているのだ。

「さぁ?余りに帰りが遅いようなら私が迎えに行ってきますから御心配なく。それよりも、こちらの書翰に…」

王に仕事を再開させようと新たな書翰を渡した楸瑛は言葉を途中で切り、執務室の扉へと目を走らせた。

コンコンと扉を叩く音がし、入室してきた人物に楸瑛は幽霊にでも会ったかのような顔を向けた。

「ただいま戻りました」

「こ、絳攸!?」

劉輝も口をあんぐり開けている。

「…何だ」

絳攸は眉間に皺を刻んだ。

「ここは戸部じゃないよ?」

目的地に辿り着かない内に帰ってきてしまったと思った楸瑛は、親切に教えてあげた。

「馬鹿にしてるのか!!」

しかし親切に教えられたはずの絳攸は感謝するどころか怒りを露にした。

「だって…まさかもう行って来たのかい?迷わずに?」

「だとしたら悪いか!?」

絳攸は今にも噛み付きそうな勢いで答えた。

「悪いって…君の具合が悪いんじゃないの?熱は?」

額に手を伸ばしたら、届く前に払われた。

「どこも悪くないわ!俺が迷わなかったらそんなに可笑しいか!?」

「可笑しいよ。君だって、自分でも驚いているんだろ?」

「ぐっ…う、煩い!!!!」

図星をつかれた絳攸はやけくそ気味に叫んだ。

 

 

絳攸が迷わず執務室から戸部へ行って帰ってくるという記念すべき日を祝おうと劉輝は主張したが、にべもなく却下され、王は再び大量の仕事に追われることとなった。

しかし人間やれる量には限度がある。新米国王ともなれば尚更だ。

「こ~ゆぅ~、余は疲れたのだ~」

国王の弱音に、側近は一つ溜息を吐いて筆を置いた。

「…仕方ないですね。休憩にしましょう」

普段ならどんなに劉輝が嘆願しようが情け容赦なく斬って捨てる絳攸にしては珍しい言葉であった。

しかも。

「茶を淹れてくる」

「え?」

劉輝は自分の耳を疑った。

ついに余は働かされすぎで幻聴まで聞こえるようになったのだろうか。

しかし、現に絳攸はお茶を淹れる為に執務室から出ていった。

本当に絳攸がお茶を淹れてくれるのか?

珍しい。

というか、彼のご機嫌は最高潮のようだ。

いつもこうなら恐くないのに…。

人間は長年抱えてきた劣等感から開放さえると、こうも人に優しくなれるのか。

素晴らしい。よかったな、絳攸。本当によかった…!

 

劉輝は感動の涙を心の中で流した。

 

恐い絳攸よ、さようなら。

優しい絳攸よ、こんにちは、なのだ。

 

「なぁしゅ………う!」

にへらとした顔で話し掛けた劉輝は、右斜め前方を見て思わず固まった。

ほのぼのとした空気は右斜め前方から漂う不穏な空気に見事に掻き消されてしまった。

これは…もしかして。

「あの…楸瑛?」

劉輝は恐る恐るもう一人の側近へ声を掛けた。

「なんですか?主上」

彼は笑顔を見せた。その笑顔は普段通りといえばそうなのだが…。何か、何か黒いものを感じる!そうあの兄のように!!

伊達に劉輝は暗黒腹黒公子の弟ではない。

「そなた、もしかして怒っているのか…?」

「何がですか?」

一欠けらも笑みを崩さぬ楸瑛に劉輝は怯えた。

怒っている!怒っているのだ!!

原因は…一つしか考えられない。

というか、そもそもこの男の機嫌がいいのも悪いのも、常にたった一人の人間が関係していることを劉輝は知っていた。

…まぁ、落ち込んでいるときには家族(兄弟)が絡んでいることが多いということも日頃の付き合いから学んでいた。

が、しかし。

劉輝は楸瑛の不機嫌の原因は察することができた。けれど理由が分からない。

「楸瑛は、絳攸の方向音痴が治って嬉しくないのか?」

「嬉しくない…というより、面白くありませんね」

劉輝は首を傾げた。

何も絳攸は楸瑛の暇つぶしの為に宮中を何刻も彷徨っているわけではないのだろうが。

「しかし、あそこまで絶望的な方向音痴では可哀想ではないか」

「その絶望的方向音痴こそが絳攸なんです」

きっぱりはっきりこの男は言い切った。

内心「確かに…」と思いつつ、劉輝は反撃に出た。

「しかし、しかしなのだ!限度というものがあるぞ!余はこの間絳攸が府庫へ行くのに庭院を彷徨っているのを見たぞ!しかも一度や二度ではないぞ!!」

「それくらいなんですか!私なんて工部へ行くのに毎度一刻かかっているのを知ってますよ!後をつけて時間を調べたんですから間違いないですよ」

「な、そなたは普段からそんなことしているのか!」

「あなたこそ何観察してるんですか!」

「む、部下の行動を把握しておくのも王の立派な務めなのだ」

「迷った絳攸を導くのは私の役目なんです。それはもう初めて会った時から」

「だったらさっさと気付いたときに助けてあげればいいではないかっ!楸瑛はケチなのだ!」

この国では王家に次ぐ名門の藍家の四男に生まれながら「ケチ」呼ばわりされた男は、己の口元の前で人差し指を揺らした。

「ちっちっ、分かっていませんねぇ主上」

「む?」

「だからいつまで経っても秀麗殿の心を手に入れられないんですよ」

「な!そんなこと絳攸にフラれてばっかの楸瑛に言われたくないのだ!!」

痛いところつかれて劉輝はちょっと涙目である。

「何てこと言うんですかっ私のどこがフラれているんですか!」

「だってそうではないか、いつもいつも『煩い!近付くな!!』とか言われておるではないか!余は秀麗にそんなこと言われたこと一度もないぞ!」

「絳攸はちょっと照れ屋なだけなんです!」

 

「――貴様ら、何の話をしている」

 

室に響いた地を這うような怒声にすっかり白熱していた二人はぴたっと口論を止めて、恐る恐る室の入り口を見た。そこには茶器を手にした絳攸が怒りに震えながら立って居た。

 

 

「そんなに口を動かす元気がおありなら、休憩なんて必要ありませんね」と劉輝は休憩を取り上げられた上にお茶も飲ませてもらえなかった。

 

恐い絳攸よ、再びこんにちは。

短い別れだったのだ。

 

 

「全くあいつは少し目を離すとこうだ」と、大量の書翰を置き去りにして、絳攸はドカドカと足音を響かせ回廊を渡っていた。

その後ろを楸瑛は心配そうに歩いていた。右へ左へと覗き込んできて相当ウザイ。

「ねぇ絳攸、本当に体は大丈夫なの?」

「うるさい奴だな!大丈夫に決まってるだろうが!!」

「きっと自分ではわからないんだよ。医師に診せた方がいいよ」

「ねぇねぇ」と後ろをついて回られ、いい加減絳攸の堪忍袋の限界が近付いてくる。

「いい加減にしろ!!というかなんでついて来るんだ!!」

これでは誰の近衛だかわからない。

「だって、病気の君を放っておけないじゃないか」

「誰が病気だ!誰が!!」

「だって君さ、今礼部に向かってるんだろ?」

「それが何だ!?」

楸瑛は邵可の茶を飲んだ後のような顔をしていた。

「合ってるんだよ…。それも最短でいける道だよ」

「当然だ!」

絳攸は胸を張った。

「…そうか、この道が最短だったのか」なんて心の声は微塵も面には出さない。

「ねぇ絳攸…やっぱりちゃんと医師に診てもらおう」

「ええい!放せ!!」

そのまま絳攸の腕をとって医師のところまで連れて行きそうな勢いの楸瑛を絳攸は怒鳴って振り払った。

「俺はどこも悪くない!むしろ正常に戻っただけだ!!」

その言葉に楸瑛は端正な眉を寄せた。

「正常だって?」

「そうだ!俺が今まで目的の場所に辿り着かないのは誰かの呪のせいだったのだ!」

現実主義者の彼がそんなことを真剣に考えていたとは…。よほど思いつめていたのだろう。

「今の状態のほうがよほど悪い呪にかかっているように思うけど」

「黙れ、常春!嗚呼、これで吏部へ帰るのに後宮を経由することも、仙洞省へ行くのに城下を通ることもない!」

「………………」

なんだか少し哀れに思えてきた。

そんな楸瑛の内心を知らない絳攸は何やら不気味な笑みを浮かべる。

「貴様にいちいち恩着せがましく道案内される人生ともおさらばだ!!ふふふふ」

それは聞き捨てならない。

「方向音痴じゃない君なんて、君らしくないというか…まるで生姜が入っていない生姜湯のようじゃないか」

「意味のわからんことを言うなっ!!!」

 

 

「…なぜ楸瑛だけ戻ってくるのだ。というか、楸瑛は余の近衛でないのか?」

劉輝は不貞腐れ気味に呟いた。

「主上は強いから大丈夫ですよ」

…こやつ。

とんでもないことをあっさり言ってのける部下に王は言葉を失った。

「…もーよいのだ。それで絳攸は?」

「絳攸は方向感覚が宿ったのがよほど嬉しかったみたいで、いろいろと宮中を歩き回りたいみたいです」

「迷っても迷わなくて歩き回るのだな」

文官とはいえ実は絳攸は体力がある。

「それより主上、終わりましたか?」

楸瑛はニッコリ笑って訊いてきた。

この机の上に鎮座する山を見て、どうして終わったと思うのだ。

「…絳攸までいなくてどーするのだぁぁぁ!こんなに集めてしまってはゼッタイ終わらないのだぁ!終わらないのだぁ!!」

国王は机上に積まれた書翰の山を放り投げたい気持ちだった。もっともそんなことしないし、できないが。

「ほらほら主上、千里の道もまず一歩からですよ?頑張って下さいね」

中断してしまった仕事の再開を促す側近を、軽く睨みながら劉輝は「冷たい」と拗ねた。

「絳攸の方向音痴が治ったのは余の所為ではないのに、八つ当たりなのだ」

楸瑛はちょっと情けない顔をして「すみません」と謝った。

 

「楸瑛は方向音痴ではない絳攸は好きではないのか?」

劉輝の真っ直ぐな言葉に楸瑛は苦笑いを零した。

「方向音痴でなくても絳攸は絳攸です。それはわかっているのですが…」

「が?」

「…例えば、秀麗殿がある日突然、貧乏でなくなったらどうしますか?」

「え?秀麗が貧乏でなくなるのか?全く?全然??」

「はい」

「うーむ」と劉輝は考え出した。

貧乏でない秀麗。

まぁ、紅家の長姫という事実から考えれば貧乏な方がどう考えても可笑しいのだが、悲しいかなそれが現実だ。

貧乏でないということは、毎日米を食べて、綺麗な衣を纏って、使用人を雇って、賃仕事なんてしなくて、余があげた簪でも「あら?これ安物じゃないオホホホ…」とか言うのだろうか。

貧乏はツライと秀麗は言っていた。でもだからといってお金持ちならいいのかといえば少し違うのかもしれない。

「余は貧乏だから秀麗が好きなのではない。…けれど、頑張って賃仕事をして、米のありがたみを知っていて、物を大事に大事に使う秀麗が好きなのだ」

それを聞いた楸瑛は小さく笑った。

「私も別に絳攸が道に迷うから好きなのではないですよ。きっとその所為で散々苦労もしているでしょうしね。ただ、私は絳攸のそういう、他人からすれば欠点でしかないようなところを…酷く可愛く思っていたんです。それも彼の一部だと」

「…そういう顔を絳攸にも見せればいいのにな」

「え?」

「なんでもないのだ」と劉輝は首を振った。

いつもの「胡散臭い」顔でない楸瑛の顔は酷く優しげで、劉輝はなんだか胸の奥がぎゅっとなった。

「変わらないで、そのままでいて欲しい…か?」

「いえ…。人は変わる生き物です。いい意味でも悪い意味でも、変わる」

それは仕方がないこと。でないと成長もできない。「ずっとそのままでいて欲しい」なんて酷く傲慢な願いだ。

「ただ…変わるなら私の手で変えたい。私の目が届かないところで、なんて嫌なんです」

楸瑛は小さく息を吐いた。

「充分傲慢ですね」

「いや?」

劉輝はさも当たり前みたいに言った。

「それが人を好きになるということなのだと思うぞ」

余裕なんてない。その人のことで頭がいっぱいで。その人の頭の中に自分も入り込みたくて。それ以外のものなんてなくなってしまえばいいとさえ願ってしまう…そんな我が儘で傲慢な感情。

劉輝自身秀麗に出会って初めて知ったことだった。

「やっかいですね…」

「そうなのだ、やっかいなのだ。…でもちょっとしたことでも、幸せな気持ちにもしてくれるのだぞ」

「主上」

「だから余は頑張れるのだ」

年相応に笑った王の頭を楸瑛は優しく撫ぜた。

 

 

「だが、一体何が原因なのだろう?あの絶望的方向音痴が簡単に治るようには思えないのだ」

劉輝は首を傾げ、楸瑛は腕を組んだ。

「ですよね…何か原因があるはずなんです」

「それを突き止めることだな」

「ええ」

「…ところで黎深は出仕しているのか?」

官吏にこんな疑問をもつのも可笑しいのだが、相手はただの官吏ではないので致し方ない。

「どう考えても黎深が絳攸の変化に気付いていないわけはない気がするのだが…」

「…確かにあの人の行動が気になりますね」

できれば関わりたくない相手とはいえ、絳攸の変化に黎深が関わっている可能性は非常に高い。

 

 

二人がそんな話をしていた時、扉に近づく気配に王は慌てて仕事を再開した。

「李絳攸、戻りました」

清々しい顔で執務室に入ってきた絳攸の顔を楸瑛は注意深く見詰めた。努めて平静を装っているが、口の端が少しあがっている。どうやら本当に迷わず帰ってこれたようだ。

すすすっと楸瑛は絳攸に近づいた。

「ねぇ、絳攸。黎深殿は?何か言っておられるのかい?」

「は?何の話だ?」

絳攸が怪訝そうに一歩離れる。

「だから、黎深殿は君のその、道に迷わないことについて何か言ってなかったのかい?」

「変なことを訊く奴だな。黎深様は何も言っていない」

「…今日は出仕しておられる?」

絳攸は答えず、気まずそうに目を逸らした。

「君、昨日は紅邸に戻れたんだろ?朝一緒に出仕しなかったの?」

「いや…今朝は百合様も一緒に朝餉を食べられたが…」

絳攸は今朝の様子を思い出してみる。

「確か、出掛けになって百合様が話があるとおっしゃって黎深様を呼び止めていたな。だから俺だけ先に邸を出て来たんだが」

今日はまだ姿を見ていないという。

楸瑛は黎深の行動を不審に思いながらも、絳攸からはこれ以上黎深の情報は聞き出せないと判断した。

というか、聞いたところであの人が何を考えているかなんか分からない。

楸瑛は質問を変えた。

「絳攸、昨日何か変わったことはあった?」

「昨日…?」

絳攸は首を傾げた。特に何もないはずだ。一日中仕事をしていたのもいつものことだし。

「…あ」

何かを思い出したような声に楸瑛が更に一歩詰め寄る。

劉輝も手は止めずに耳だけをそばだてた。

「何かあったの?」

「いや、大したことではないが…」

「うん」

「珍しく自室で眠った所為か…変な夢を見た」

「どんな?」

「…黎深様が」

「黎深殿が?」

「夢枕に立たれた」

「なに!?夢枕?」

その言葉に反応したのは楸瑛ではなく、すっかりその存在を忘れられた劉輝だった。片手を挙げながら、机から身を乗り出した。

「絳攸!余も先日、秀麗が夢枕に立ったぞ!」

「はいはいはい。主上、その話はまた今度にして下さいね」

楸瑛には軽くあしらわれ、絳攸には「黙って仕事をしろ」とばかりに睨まれた王は、しゅんとなった。

「ひどいのだ…余は王なのに」

「ええ、主上は王なので、ちゃっちゃと仕事していて下さいね。で、その夢で黎深殿は何と言っておられたの?」

前半は劉輝に、後半は絳攸にと言う。

「それが…よくわからないが、貨幣を紐で結んでぶらぶら揺らしながらぶつぶつ何事かをおっしゃっていた」

「は?」

 

 

「それって夢枕って言わないんじゃ…というよりむしろそれ夢じゃないんじゃないかな」なんて楸瑛が思うより、時は少し遡る。

 

 

絳攸が出掛けたのを見計らって百合は夫に詰め寄った。

「ちょっと黎深様!どういうことですの!わたくしの可愛い絳攸に一体何をしたのですか!?」

養い子の変化に気付かぬ百合ではない。

「わあわあと耳元で騒ぐな!お前は私の鼓膜を破る気かっ」

「…事と次第によっては鼓膜だけでは済みませんよ」

百合は決して養い子には見せられないような顔をしていた。

「…方向音痴を治しただけだ」

「どうやって治したのですか?」

あの方向感覚はちょっとやそっとで治るものではないことは百合も承知だ。

「催眠術だ」

夫から告げられた単語に百合は眉をひそめた。

「催眠術?」

「ああ、試しにやってみただけだがまさかあんなに簡単に効くとはな」

当の黎深もびっくりだったようだ。

素直で単純な者ほどかかり易いと聞いたことがある百合は「やっぱりうちの子は素直で可愛い!」と親馬鹿なことを思った。

「…なんでまたそんなことを?」

黎深は怒られた子供のようにぼそぼそとその前日にあった出来事を話し始めた。

黎深の話はこうだ。

なんでも偶然立ち寄った甘味屋に迷い猫がいたらしく、それを見つけた街の子供が「かわいそうだから拾って、飼い主が現れないようならうちの子にしてしまおう」と言っていたのを耳にしたというのだ。

その話を聞いた百合は心底呆れた。

どうしてうちの可愛い絳攸が迷い猫にならなくてはいけないのだ。…まぁ、ちょっと似てるけど。

百合には黎深が何を考えてこんなことをしたのか手に取るようにわかった。伊達にこの男の妻なんて酔狂なことをやっていない。

「馬鹿な黎深様」

天つ才を持つ、現紅家当主に向かって百合は呆れ果てたとばかりに吐き捨てた。

「人はなくしてからその大切さに気付くのです」

「大切さだと?あの絶望的方向感覚のどこが大切だと言うつもりか」

「何をおっしゃるのです!『迷子』それは絳攸の魅力の一つですのよ!!」

「それに」と百合は怒涛の勢いで続ける。

「黎深様はいいわよ!散々日頃から絳攸をからかって遊んでいるんですもの!でもわたくしは邸で迷子の絳攸を観察するくらいしか楽しみがないんですのよ!それなのに、わたくしの唯一の楽しみを奪うようなことを!」

百合は大変立派な養母であったが、最後につい本音が出てしまっていた。

 

こんな夫婦喧嘩がなされていたということは、もちろん養い子は知らない。

 

そして、その犬も食わない喧嘩の翌日。

 

 

回廊で絳攸は固まっていた。

まさか、まさか…!そんな馬鹿な!!

ダラダラとこめかみを冷や汗が伝う。

「…もしかして、迷ったの?」

いきなり背後から掛けられた声に絳攸は飛び上がりそうになった。振り返るとお決まりの顔があった。

「――っ違うわ!!ただ、」

「この柱の装飾が気になって足を止めていただけだ」と言いたかったがそれは言葉にならず、絳攸は虚しく口をぱくぱく動かす。陸に上がった魚みたいだ。

それを見た楸瑛は常春の名に相応しい満面の笑みを浮かべた。

「やっぱり絳攸はこうじゃなくちゃね」

「貴様、どういう意味だ!?」

「治ってよかったね」

「よかないわっ!!!」

「おかえり、絳攸。どんな君も好きだけど、私が愛してやまないのはやはり、そのままの君なんだよ」

さらっととんでもないことを言った男を、絳攸は最大級の不審の眼差しで見た。その視線に構うことなく楸瑛はすっと片手を差し出してみせた。

「道案内いたしますので、お手をどうぞ」

「~~っ馬鹿にするなぁー!!!!!!!!!!」

絳攸の怒声が回廊へ響き渡る。

 

奇跡が起きた翌日は、そんなごくありふれた日常が繰り返されるのであった。














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2010年発行の合同誌『わかつことなく』で書かせていただいた話を今回、少しですけど加筆修正しました。こちらの合同誌は、声を掛けていただき参加させていただきました。本当に嬉しかったです。※合同誌の頒布は終了しております。
初心に戻った感のある話ですね。双花+王様が好き。ただ改めて読むとこの話での劉輝の扱いがヒドイ…。

12/6/13

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