邂逅










むせ返るような血の匂いと、焼け付くような熱さがそこにあった。

 

もし、ソレが少しでも逃げようとしたり、動いたなら、躊躇い無く斬りかかっていただろう。

そうしなかったのは、何もソレが小さな子供だったからではない。

ソレが、何一つ動かなかったからだ。

「…おい、餓鬼」

男は瞬きもせずに自分を見上げてくる小さな一対の瞳を見下ろした。

男の手には大振りな剣が握られていた。下ろされた剣先からは血が滴り落ち、男の足元に紅の水溜りを作り出していた。

「…逃げないのか?」

子供はそれでも動かない。

耳が聞こえないのか、口が利けないのか。

それとも。

言葉を知らないのか。

そこまで考え、男が些か飽きた頃。

「…にげたほうが、」

子供が口を開いた。

「い、いの?」

男は僅かに顔を歪めた。

「さぁ?それは俺が決めることじゃないからな」

子供が初めて瞬きをした。

「…だったら」

子供の顔に初めて感情のようなものが過る。

「…このままで、いい」

子供は7,8歳といったところだった。

男は初めてその子供に若干の、それは小指の爪程にすぎないが、興味を持った。

状況が理解できないのだろうか。

この位の年齢といえば、自分のところの餓鬼共しか知らないが、あいつらが同じ状況になったとして理解できないとは思えない。

いくら阿呆で餓鬼でもわかるだろう。

例え『死』が理解できなくても。

目の前のこの状況が異常であること。目の前の見知らぬ男がその異常を生み出していることを。

 

興味をもって見れば、子供の銀に近いその髪の色に気付く。

「その髪の色。…確か縹家の女に産ませた子がいたはずだ。それは、お前か?」

「……」

子供は答えない。

これだから餓鬼は嫌いだ。言葉が通じない。

男は内心のイラつきを抑えつつ、質問を変えた。

「餓鬼、名前は?」

「…コウ」

「それは家の名だろう、お前の名は?」

「…コウ」

子供はもう一度繰り返した。

名前など、必要なかった。呼ばれることがそもそも少なかったし、「おい」や「お前」「あれ」で充分だったから。

 

近くの柱が焼け崩れて、火の粉が舞った。

 

「死にたいか?」

 

『生きるためにここへきたのか?それとも死ぬために?』

もう何年も前。

そう問う女と問われた子供がいた。

『…えーと、たぶん、どっちでもいいデス…?』

問われた子供は呆れた答えを返した。

 

だが、目の前の子供はもっと呆れる答えを返した。

 

「…はは、うえが、」

子供は一旦言葉を切った。

「…母親が何だ?」

「よろこんで…、くださるなら」

男は子供を蹴飛ばした。

「馬鹿かっ!誰かの為に生きることなど何の意味も無いっ!ましてや誰かの為に死ぬことほど愚かなことも無ぇ!自分の為でしかねぇんだよっクソガキ!!!」

 

あの女は言った。

誰より、何より、その手を汚しながら。どこまでも墜ちていきながら。

それでも、何の穢れも無い顔で。

『私は子供が泣かなくてすむような国が見たいんだ』

鮮やかに笑う女が見えた。

 

その血に塗れた手を汚いと思ったことは一度もない。

それが誰の為か知っていたから。

あの女は何も言わなかったけれど。

だったら、今度は俺のこの手を血に染めればいい。

上手くやれる方法なんかは幾らもあった。

それでも、壊して、殺して、無に帰す。

 

「バッカだなぁ」とあの女は言うだろう。あの、顔で。晴れた七夕の夜空のような瞳で。

ある日突然、泡のように消えた女。

生きているかもしれないという淡い期待はすぐに失せた。自分がどんなに馬鹿なことをしても、あの女は何も言ってや来なかった。

いつものように「バッカだなぁ」と言いに現れることはなかった。

 

 

「おい、餓鬼。生きるもここで死ぬもお前次第だ。勝手にしろ。だがな、一つ教えてやる」

 

「死んだら終わりだ」

 

倒れた女の姿が目の端に映った。

縹家に生まれながらにして、何の力も持たぬ愚かな女。

紫門四家の梗家に取り入り、得ようとしたのは力か。自分の捨てた一族への復讐か。

その女の想いを利用したのは、紫家本家転覆を企んだ梗家だった。

 

殺すつもりで来た。

何もかも殺して、壊しつくす為に。

この子供は自分が手を出さなくても死ぬだろう。

それでも。

…もし、この子供が。

いつか「生きたい」と望む時がきたら。

その時は、自分はあの女の望みを叶えたのだろう。

子供が泣かなくていい国を作れた証なんだろう。

 

「死んだら負けだ」

 

舞い散る火の粉と飛び散る血の海で、滅びの王は笑った。

 

 

「…しんだら、ま、け」

男がいなくなった後、子供は忘れないようにその言葉を繰り返した。そして、一歩を踏み出した。

熱さも恐怖も感じなかった。

子供はただ歩き続けた。母親も家族とは名ばかりの者達も、大貴族の邸も、いいことなんか一つもなかった思い出も、全てその場に置き去りにして。

―――生きる為に。いや、死なない為に。

 

全てを忘れて、何もかも失っても。男のその言葉だけが、子供を生かした。

 

 

子供が紅の光と出会い、名前と家族を得るよりも前の話。

炎と血の海で子供は滅びの覇王と出逢った。

 

その邂逅を知る者は、今はもういない。












*************

絳攸と戩華の話。
うわーぁぁぁ、お久しぶりです。コレ書き上げるのに何ヶ月かかってるんだってってね(苦笑)元々「天に架かる二つの虹」を書いてるときに思い浮かんだ話だったんです。それで、泡沫シリーズとも繋がってるっていう話です。原作で絳攸の過去は書かれましたし、『コウ』の名前も『光』なんですが、この話では苗字を指してます。原作『黄梁の夢』を読んで鬼姫の話を追加しました。
09/8/25

戻る