花いちもんめ











良く晴れた日だった。

雲ひとつ無い、澄み切った青空がどこまでも続いていた。

 

「李絳攸、汝を尚書省吏部侍郎に命じる」

「―――謹んで、拝命致します」

 

その日、彩雲国史上最年少侍郎が誕生した。

彼の存在は文官の出世等に興味の無い武官の間でも大きな話題となった。

しかし武官である藍楸瑛が彼の侍郎就任を知ったのは、単にその人物が有名人になったからではなかった。

 

 

コンコンと戸を叩く音に李絳攸は顔を上げた。

「はい?」

返事をすれば侍郎室の戸がぎぎっと重い音を立てて開いた。

「やぁ、絳攸」

そこから顔を覗かせた青年に絳攸は目を瞠った。

「楸瑛?何だお前、どうした?」

「ん?別に用じゃないんだけどさ。侍郎室ってどんなかな、と思って」

「お、お前!用も無いのに来るなっ!機密だってあるんだぞ!?」

噛み付かんばかりの勢いの絳攸に対して、楸瑛はひらひらと片手を振った。

「ああ、気にしないで。私はそんなものに興味がないからね」

「そういう問題じゃないっ!」

言い募ろうとする絳攸に構うことなく、楸瑛はずかずかと侍郎室に足を踏み入れてぐるりと室内を興味深そうに見渡した。

「随分と殺風景だね。絵でも贈ろうか?」

全く人の話を聞かない腐れ縁の男への説得を諦めて、絳攸は大きく息を吐き出した。

「いらん。大体、そんなものを眺めている暇が無いからな」

「まぁ…確かに、ね」

楸瑛はちらりと山と積まれた書翰に目を走らす。

 

「…ねぇ、絳攸」

楸瑛が再び口を開いた時、絳攸は仕事を再開し始めていた。

「んー?」

視線を眼下の書翰に走らせたままの返事が上がる。

「君の事だから…忘れてるかもしれないんだけどさ、ほら?忙しいみたいだし」

楸瑛は言いよどんだ。

「何だ、はっきり言え」

「だからさ、」

その時。

「失礼します。李侍郎、急ぎの書翰を、」

現れた吏部官の男は楸瑛の存在に気付き、言葉を途切れさせた。

「これは大変失礼致しました。来客中とは知らず、」

「構わない。こいつは客じゃない」

頭を下げる部下に、侍郎はしれっと言い切った。

「…随分な言い方だね」

「事実だ、事実」

絳攸は楸瑛に冷たく言い放つと、戸口に立ったままの部下へと問い掛けた。

「急ぎか?」

「ええ、それで…」

男はちらりと室にいる武官へと視線を投げた。

その視線が何を言わんとしているかを察して、楸瑛は肩を竦めた。

「それじゃあ、絳攸。私はこれで失礼するよ」

「ああ、さっさと行け」

しっしとまるで追い払うように手を振られる。

あまりな扱いにも楸瑛は気を悪くした風でもなく、そっと絳攸に耳打ちした。

「また昼に顔を出すから」

「来なくていい」

「だって君、私が誘わないと昼食でさえ摂り忘れてしまうじゃないか」

「…うるさい、子供扱いするな」

「じゃあ、また後でね」

にっこりと微笑んで楸瑛は侍郎室を後にした。

 

「…何か?」

寄越される視線に絳攸は居心地悪く、問う。

「いえ。別に」

「部外者を侍郎室に入れるなとか思ってるんですか」

「思ってませんよ。ここはもう貴方の室ですから。それに、」

男はにっこりと微笑んだ。

「私はもう貴方の部下ですよ」

絳攸は言い返すことも出来ず、眉間に皺を刻んだまま持ち込まれた書翰を確認し始めた。

 

いくつかの書翰を処理し終えたところで、ふいに男は口を開いた。

「それにしても、随分と仲がいいんですね」

「は?誰が?」

意味を図りかねた絳攸は首を傾げる。

「彼ですよ」

それが先ほどの来訪者のことだと気付いた絳攸は更に首を傾げる。

「楸瑛か?どこがだ?あいつとはただの腐れ縁だぞ」

「腐れ縁、ですか…」

男は注意深くその言葉を反芻した。

男のその様子に構うことなく、「それより」と絳攸は目の前の書翰を指した。

「これは…尚書印が欲しいんじゃないのか?」

「ええ、そうです」

「だったら」と絳攸が口を開く前に、男は続けた。

「けれど、その肝心の尚書がいらっしゃらないので、仕方なくこちらにお持ちいたしました」

その言葉に絳攸はガタンと音を立てて椅子から立ち上がった。

「いない!?一体どこに、」

「さぁ?一体どこにとんずらしたんでしょうねぇ」

他人事のように言う部下に、絳攸は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「…時々吏部侍郎は黎深様のお守りが仕事なんじゃないかと思うときがあるのだが」

「おや、今頃気付いたんですか」

男の笑顔を見て、自分は体よく面倒ごとを押し付けられたのではないかと絳攸は思った。

「さて、名ばかり尚書の分までしゃきしゃき働いて、貴方は名実共に筆頭侍郎になって下さいね」

「…解っている」

不貞腐れたように言う年下の上司に、男は気付かれないように笑った。

 

「では、私はこれにて失礼致します」

男が退室することを告げると、絳攸は睨んでいた書翰から顔を上げた。

「ああ、ご苦労」

その言葉に軽く頭を下げ、男は扉に手を掛けた。

「腐れ縁…ねぇ」

ぎぎっと重い音を立てて戸が閉まった後、男はふむと呟いた。

 

 

昼食時を向かえ、楸瑛は再び侍郎室の戸を開いた。

しかし、そこはもぬけの殻だった。

楸瑛が内心首を傾げていると、その背に声が掛けられた。

「これはこれは藍将軍」

声を掛けられ、振り向いた先に居たのは探し人ではなかった。

「李侍郎をお探しでしょうか?」

「…ええ、そうですが」

人が良さそうな笑みを浮かべる男を楸瑛は注意深く観察した。

「ああ、これは失礼致しました。私は吏部下官の()棣倖(ていこう)と申します」

楸瑛の視線の意味を感じ取った男は名乗り、頭を下げた。

「藍左羽林軍将軍の噂は文官の間でも有名ですので存じておりますよ。李侍郎とは国試受験時からのお知り合いだそうですね」

「ええ、まぁ」

楸瑛は曖昧に返事を返しながら、彼が絳攸に書翰を運んできた吏部官であることに思い至った。

「侍郎に何か、ご用事でしょうか?」

「え?」

「何かご伝言があれば、私の方からお伝えしますが?」

楸瑛は終始笑顔の男をゆっくりと見詰た。

「いえ、私は、」

「どうぞ、遠慮なさらずに」

楸瑛は内心で溜息を吐いた。

「解りました。では」

「はい」

「明日の約束を」

「明日?」

「はい。明日、絳攸と約束をしているのですが、仕事が終わったら迎えに行くと、伝えてもらっても宜しいでしょうか」

その伝言に、男は首を傾げた。

「…おかしいですね」

「…何がでしょうか」

「明日は吏部で酒宴があり、侍郎もそれはご承知の筈ですが」

「え…」

「まぁ、侍郎に就任したばかりで近頃は目も回る忙しさですからね」

男は今までとは違い、微苦笑を浮かべていた。

「あの子は、仕事以外では本当に不器用なところがありますから」

「…あの子?」

楸瑛は聞き逃さなかった。

「上司に対しての呼び方ではないですね」

「ああ、すみません。つい昔の癖でして」

「へぇ…」

「彼が吏部に配属された時からよく知っているもので、つい気安く呼んでしまっては怒られます」

悪びれも無く発せられる言葉に、楸瑛は面白くなかった。

「そう、ですか。私も彼とは古い付き合いだけれど。貴方とは初めてお目にかかりましたね」

何年も彼と「腐れ縁」を続けていれば、吏部官の顔くらい覚える。しかしこの男とは今日が初対面の筈だ。

「そうでしょうね…私とは、ね」

綺麗に口の端を上げた男に、楸瑛は違和感を覚えた。

「…それはどういう、」

「何やってるんだ?」

楸瑛が振り返った先には、長い旅路から戻った絳攸が立っていた。

 

 

楸瑛は青椒肉絲を箸で突きながら呟いた。

「見ない顔だから最近入った新人かと思った」

絳攸は片眉を上げた。

「誰がだ?」

「彼だよ。蘇棣倖って名乗っていた」

「蘇棣倖?」

絳攸が聞き慣れない名に首を傾げかけた時。

「ああ、そうか」と、気付く。それが今の、彼の名だ。

「新人じゃないさ、よく知ってる奴だ」

絳攸は瞳を伏せた。

「………そう」

絳攸のその顔が常に無く穏やかで、楸瑛の胸に何かがざわりと宿る。

―――何だ、これは?

 

「お前、腹でも痛いのか?」

気付けば絳攸が己の顔を覗いていた。

「え?」

「箸が止まってる。いらないなら貰うぞ」

「あ、ああ。いいよ。どうぞ」

楸瑛の分まで箸を伸ばし、絳攸はむしゃむしゃと平らげる。

「絳攸…」

「ん?」

絳攸は茶に手を伸ばしながら言った。

「その、明日なんだけど」

「明日?」

絳攸は実に不思議そうに首を傾げた。

「…いや、何でもないよ」

「ふーん、変な奴」

結局、楸瑛は絳攸に明日の約束について訊くことが出来なかった。

 

 

その頃、吏部の資料室にふっと現れた人影があった。

「…何をやってるんだ、お前は」

紅黎深が問えば、人事録を広げていた男はにこりと笑った。

「ちょっと嫌がらせを」

その答えに黎深は心底呆れた。

「どこの暇人だ」

「貴方に言われたくないですね。どこで見てんですか」

「勝手にお前のしまりの無い顔が視界に入ってきただけだ」

「しまりがないって…いやー、あまりに面白くて。若いっていいですねぇ」

「じじいか貴様は」

男はくすくすと笑って「貴方より若いんですがねぇ」と言う。

黎深が呆れたまま室を出て行こうとするところで、男は黎深の背中へと言葉を投げた。

「藍家嫌いの貴方が、大事な養い子の周りをうろちょろしている彼を放置しているのは、彼を評価してのことですか」

「家名の効果と腕っ節だけな」

黎深は男に背を向けたまま言った。

「紅の姓を持たない彼を守るのに藍の名を持つ者が近くに居ればこれ以上ない牽制にはなるし、あの年で将軍職になった彼の腕は確かでしょうしね。貴方自身が表立って守ってやれなから…ですか。お父さんも大変ですねぇ」

男の言葉に黎深は振り返りはせず、室を出て行ってしまった。

 

 

翌日。

「今日の分の追加です」

持ち込まれた書翰に、絳攸はうんざりと溜息を吐いた。

「今日は残業出来ませんからね、さっさと仕上げて下さいね」

「解ってる」

ふと、絳攸は顔を上げた。

「あいつ、何か言ってなかったか?」

「あいつ?」

「藍楸瑛だ、武官の。昨日何か話していただろう?」

「ええ、まぁ。彼がどうかしたんですか?」

「どうも様子が可笑しくて」

「さぁ、それは…」

男は適当に言葉を濁した。

「それより」と、男は侍郎室を退室際に振り返った。

「ん?」

「いい加減、厠へ行って戻ってくるのに何刻もかけないで下さいね」

絳攸が絶句している間に男は室を出て行ってしまった。

 

 

『あの子は、仕事以外では本当に不器用なところがありますから』

『彼が吏部に配属された時からよく知っているもので、つい気安く呼んでしまっては怒られます』

『新人じゃないさ、よく知ってる奴だ』

楸瑛はぼんやりと昨日の会話を思い出していた。

きっと他愛もないことなのだと、思う。

国試を受けてから、これまで何かと縁があった二つ年下の友人。自分にとって放っておけない存在だ。

けれど。自分と彼がどんなに縁の深い存在だろうと、彼には彼の世界がある。もちろん自分にもだ。

それを急に淋しく思うのは、彼が侍郎になったからだろうか。

もし、そうなら…自分が武官で、彼が文官である以上、それは繰り返される。自分達の世界は交わらない。これから先、ずっと。

それとも。彼をよく知る、彼の部下。それが気に入らないのだろうか。自分が彼の一番の理解者でいたいから?…しかし、それを言うなら、紅尚書がいる…いや、でも彼は『親』だし。

だったら、この感情は…?

 

重い風切り音が耳に届いたと同時に、楸瑛は後ろに跳び退った。

「っ!」

それまで楸瑛が居た場所に、槍が深々と突き刺さった。

「楸瑛っ!てめぇ、ぶったるんでんじゃねーぞ!将軍職取り上げっぞ!!」

白大将軍のその怒声で、楸瑛はここが稽古場であることを思い出した。

向こうでは黒大将軍が無表情に己を見やっていた。

「…申し訳ありません」

頭を下げる楸瑛に、雷炎はにやりと笑った。

「折角の左右合同稽古だ。まだ将軍でいてぇなら、かかってきやがれ」

「…お手合わせ、お願い致します」

楸瑛はもやもやした己の気持ちを振り切るように、一歩を踏み出した。

 

「まだまだあめぇが、まぁこんなもんだろ」

「…は。あ、りがとう、ございました」

楸瑛は片膝を着き、肩でぜーぜーと息をしながら礼をとった。

「お、そうだ。言い忘れるところだったぜ」

「はい?」

「お前、今夜は空けておけよ。お前の将軍職就任と今年入った奴らの歓迎会で呑みに行くからよ」

急な誘いに楸瑛は驚いた。

「え?こ、今夜ですか?」

「ああ、とんずらしやがったら承知しねぇからな」

「いや、しかし今夜は…」

「ああ?」

昨日の絳攸の様子からして忘れている可能性は高いし、それにあの吏部官の言葉もある。十中八九、絳攸は来ないだろう。

「……解りました」

楸瑛は涙を飲んで、魔の宴への参加を決めた。

「で、場所は官舎ですか?」

「いや、偶には酒楼に行こうぜ」

「では、店の名前は?」

もう自棄だ、とばかりに訊けば、その店の名に楸瑛は頭を抱えたくなった。そして、ついてないときはとことんついていないんだということを実感した。

 

 

「おっ、わった、ぞ」

吏部では絳攸が処理済の書翰の前で伸びをしていた。

「ご苦労様です」

「…今日の酒宴だが、」

「はい?」

「前から言ってると思うが、俺は一刻で帰るぞ。あいつらは俺を口実に呑みたいだけなんだから、俺が居なくてもいいだろう」

「聞いてますよ。まぁ、彼らにも息抜きが必要でしょう。一年に一回くらい」

「なら、いい」と絳攸が立ち上がったところで男は口を開いた。

「一つ訊いていいですか」

絳攸が振り返った先で、男は一つ瞬きをした。

「貴方の、友人関係に口出しする気は毛頭ないんですが」

「何だ?」

「あの男…いえ、藍家が何か企んでいるとは思わないのですか?」

絳攸は男が何を言い出したのか理解出来ずに、目を瞬いた。

「何を、言ってるんだ?」

「何か裏があって貴方に近付いているんではないですか、と言ってるんですよ」

男が言う『藍家』の人間の心当たりは『彼』しか居なかった。

だから、絳攸は素直に思ったことを答えた。

 

「楸瑛はそんな奴じゃない」

 

少なくても、自分が知る『藍楸瑛』はそんな損得で動くような男ではない。損得で動くような男なら、やれ「昼を一緒にしよう」や「いい書が手に入ったから君にあげるよ」やら「今度呑みに行こう」やら、俺に構ってくる筈がない。

俺に構ってあいつに得するものなど何もないのだから。

だが。

だったら、あいつはどうして俺に構うのだろう?

ふと、生まれた問いに対する答えに絳攸が至る前に男は続けた。

「それは、彼個人に対する意見ですね」

「藍家が俺なんかに関心をもつ筈がないだろう。俺が紅姓なら兎も角。朝廷に及ぼす影響力も無いこんな若造をどうするってんだ」

絳攸のその言葉に、男は顔から一切の感情を消した。

「自分を過小評価するのは止めなさい」

絳攸は驚いて、男の顔を見返した。

「それは美徳ではない。それは過大評価するのと同じくらい愚かなことです。しかも、君は自分を過小評価することで君の上司や上の人間をも過小評価しているのですよ」

「私は、別にそんなつもりは、」

「君を六部筆頭侍郎に推薦した私をもね」

淡々としたその声は、絳攸がよく知るものだった。

「すみません、楊修様」

『蘇棣倖』ではなく『楊修』と呼ばれた男は、ふっと顔を綻ばせた。

「なに部下に謝ってるんですか。戻ってますよ、言葉遣い」

かつての教育係は、教え子の頭を軽く小突いた。

 

 

「今日は大人しく尚書室に居るかと思えば、」

男の声に、黎深は嫌そうに顔を上げた。

「…何しに来た」

「今日の酒宴、貴方も来るんでしょ。絳攸の侍郎就任の祝いなんですから」

「休みが欲しくて酒を呑みたい奴らの口実だろうが。許可したのはお前か」

男はそれに笑みを一つ浮かべただけで、話を逸らした。

「今日も仕事、してないんですね」

男は未処理のままうず高く積まれた書翰を見た。

「…本当に貴方、馬鹿ですね」

「誰がだ」

「貴方ですよ、貴方。あの子も大概ですがね。ああ、でも顔付きはマシになってきましたよ、あの子」

「あの子言うな」

黎深が低く唸った。

「しょうがないでしょ、癖なんですから。あの子は私が育てたようなものですから」

「育てたのは私だ」

「何言ってんですか。貴方は勝手に拾っただけで育ててないでしょうが。官吏として一人前に育てたのは私ですよ、私。大体貴方が押し付けたんでしょ、教育係」

「お前は断っただろうが」

「そーでしたっけ」

すっとぼける男に黎深は本気でイラッときた。

 

男は、未処理の書翰の一つを撫ぜた。

「…いつか気付くんでしょうかね」

侍郎の仕事が『尚書のお守り』ではいけないのだ。

「私は賭けたんですがねぇ、あの子に。けれど、それはうっすい望みかもしれませんね。貴方があの子に『父上』と呼ばれる日がくる確率くらいに」

「なに!?貴様、何故それを!?」

腰を浮かせた黎深に男は呆れた眼差しを向けた。

「駄々漏れですよ、貴方」

「私のこと言えるのかっ」

「いいんですよ、私は」

男はくるりと踵を返した。

「さて、時がくるまでせっせと覆面業務に精を出しますか」

名を変え、姿を変え、その時が来るまで自分は待つだけだ。

 

 

楸瑛は何本目か判らない酒樽を床に転がした。

その酒樽と同様に周囲には、今年入軍したばかりの新人達がごろごろと転がっていた。店には迷惑料という名の前払いがされていた。

すぐ傍で繰り広げられている、両大将軍の飲み比べに巻き込まれないように楸瑛はちびちびと酒を啜っていた。

酔っている所為だろうか、無性に泣きたい気分だ。

本来だったらこの店で自分の隣に居たのは、こんな屍と化した部下でも、人間離れした上司でもなかった筈だ。

あまり格式ばったところは彼が好まない。だから大衆向けの店を選んだのに。それが仇となったのだろうか。しかし女嫌いの彼が一緒なのに、妓楼というわけにもいかないし。

その時、屍を縫って一人の男が楸瑛に近付いてきた。

「藍様、お約束の品をお持ち致しました」

楸瑛と顔馴染みの酒楼の主人はにっこりと笑って、最高級の酒を差し出した。

絳攸と呑もうと思い、わざわざ白州から取り寄せた銘酒である。

楸瑛はここで開けるわけにもいかず、どうしたものかと持て余していたが、雷炎は見逃さなかった。

「いいもん持ってるじゃねぇか」

雷炎の手がその酒瓶に掛かろうとした時。

「白大将軍」

「あ?」

「もう充分でしょう。そろそろお開きにしませんか?」

楸瑛はなけなしの笑顔を浮かべた。

「なんでぇもう根をあげたのか?」

「ええ。もうお気持ちは十二分に頂きましたから。それでお仕舞いにしていただきたい。でないと」

「ああ?」

「本気で抜きます」

楸瑛は己の剣の柄に手を置いた。

「はっ、お前が抜いて勝てると思うか」

「いいえ、思いません」

「当然だな」

楸瑛の顔は笑顔を保ったままだったが、その瞳は据わりきっていた。

「ですが、いいのですか?ここで私が暴れたらそれはあなた方の監督不行き届きですよ。国の近衛ともあろう者が市井の方々に迷惑をかけるようなことになりますよ」

「おめぇ脅す気か」

「…もういいだろう、雷炎」

ここで初めて燿世が口を開いた。

「はぁ?燿世、お前何言ってんだ」

「…余所で呑み直すぞ」

燿世は喚く雷炎の首根っこを掴んだ。

「っおい、馬鹿野郎っ!ああ!?ふざけんなっ」

そのまま雷炎を引きずるようにして酒楼を出て行く上司に、楸瑛は立ち上がって深々と頭を下げた。

 

「おいっ燿世、てめぇいい加減放しやがれ!一人で歩ける」

店の外まで出ると燿世は掴んでいた手をぽいっと放した。

「くそっ楸瑛の野郎、いい度胸してるじゃねぇか。明日からの稽古で覚えておきやがれってんだ」

ぶちぶちと文句を言いながらも、雷炎の顔はどこか嬉しそうだった。

「藍家のお坊ちゃんがって思ったがよ。なかなか面白い男が入ったじゃねぇか」

「……ああ」

燿世は誰も気付かない程度に、ほんの少しだけ口の端を上げた。

 

 

大将軍達が居なくなったので、屍と化した部下達も店の迷惑にならないように外へ放り…いや、運び出した。彼らも夜風に当たった方がいいだろう。

楸瑛は一人になって、白大将軍から死守した酒瓶を眺めた。

一瞬、開けてしまおうかとも思ったが、これは彼と呑んでこそ意味のあるものだと思い直し、別の酒を注文した。

自棄になって強い酒を一気に煽る。喉が焼けるように痛んだ。

酔いが一気に回る。

だからだろう。その存在に、声を掛けられるまで気付かなかったのは。

「…おい、何一人で始めてる」

彼の発した言葉の意味さえ朧気だ。

「…何でいるの?」

ようようそれだけ言うと、相手は不快に顔を歪めた。

「何でだと?貴様が来いって言ったんだろうがっ」

「そうだけど…吏部は?」

「何で知ってる?」

「聞いたんだ、偶然」

「ああ、抜けてきた」

「え?」

 

「お前との先約があったからな。一月も前から煩かっただろうが」

 

どうしよう、と楸瑛は思った。

それだけで酔いなんて吹っ飛んでしまう。

「迷わず来れたんだ?」

「だ、誰が迷うかっ」

そう言った瞳が彷徨うのを楸瑛は見逃さなかった。

…迷ったのか。

けれど。迷っても来てくれた。

思わず嬉しくて零れた笑みだったが、絳攸は馬鹿にされたと思ったのか、怒ったようにドカッと椅子に腰を落とした。

「で?」

「でって?」

「何かあるんだろう、話が」

「話?」

首を傾げる楸瑛に絳攸は苛々を募らせていた。

「惚けるな。昨日の貴様の挙動不審ぶりはなんだ」

「え」

それって。

「どうせ貴様のことだから女がらみだろうがな」

そうくるかっ。

「いやぁ…」

楸瑛は何を言えばいいのかと、考えを巡らす。

「…気に入らないんだ」

「は?」

「だからね。気に入らない男が現れたんだ。まるで…そう、恋敵みたいな」

「恋敵?」

「なかなか強力な相手でね。私の…お気に入りの子と随分親しいみたいでさ」

その言葉に絳攸は目を丸くした。

目を丸くされたことに、今度は楸瑛が驚く。

「え、何?」

「お前でもそんなことがあるんだな」

「だから、何が?」

「つまり嫉妬だろ?」

「嫉妬?」

楸瑛は鸚鵡返しに訊いた。

 

「だから、お前はその男に嫉妬したんだろ?」

 

楸瑛は数度瞳を瞬いた。

「そういった話なら俺には管轄外だ。余所を当たれ」

 

あの吏部官に抱いた感情の名前を、知った。

それは嫉妬だった。

自分が嫉妬するなんて、思ってもみなかった。

彼の一番の理解者でいたい。特別でいたい。

養い親は、仕方ないとしても。それとは別なところで特別な一番でいたいのだ。

それを誰かになんて譲らない。

 

気付いてしまえば、それはすんなりと心に落ちてきた。

それがなんだか可笑しくて、楸瑛はけらけらと笑った。

「なんだ、お前。笑い上戸だったか?」

楸瑛は怪訝な顔を浮かべる絳攸に抱きついた。

「おいっ飲みすぎだっ」

絳攸は暴れたが、そこは酔っても武官と文官の差。振りほどくことは出来なかった。

「絳攸」

酒臭い自分と違って、絳攸からはほのかに墨の匂いがした。

「何だよ」

「遅くなって、ごめん」

絳攸が「何がだ」と発する前に、楸瑛はずっと言いたかった言葉を囁いた。

 

「吏部侍郎就任、おめでとう」

 

言葉に詰まる絳攸に楸瑛は小さく笑った。

「李侍郎かぁ。いい響きだね」

数拍後、絳攸は打っ切ら棒に呟いた。

「…藍左羽林軍将軍も、まあまあだ」

 

もしかしたら、道は交わるのかもしれない。

このまま文官と武官という道をそれぞれ歩んでも。

お互いがお互いの地位と立場で成すべきことをしていれば。

いつかの未来で、自分達は並び立てる。

そんな気がした。

銘酒『鴻漸之翼』を呑みながら、そんなことを語り合うのも悪くないかもしれない、と楸瑛は思った。

 

「ありがとう、絳攸」












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55555HITのキリリクとして銀の猫様にリクエスト頂きました。
『天然にぶにぶ絳攸の周りに恋敵が現れ嫉妬する将軍様のお話』でした。
恋敵と聞いて彼しか思い浮かばなかったんですが、果たして彼相手に将軍は勝てるのかという不安が(汗)
銀の猫様、大変遅くなってしまって、申し訳ありませんでした。そして、有難う御座いました。
08/9/22

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