きっと、世界は君のもの











通い慣れた紅家の離れの邸を藍楸瑛は訪れた。

「申し訳ありません。主人は今、」

「ああ、気にしなくていい。眠っているんだろ?」

年配の女の家人が頭を下げるのを、楸瑛は片手を軽く振って遮った。

「勝手に上がらせてもらうよ。案内もいらない」

普通の客人にしたらとんでもない態度だが、自分の主と彼の関係を知る家人は黙って下がろうとした。

それを楸瑛は呼び止めた。

「これ、剥いて出してくれないかい」

彼が持参した包みを受け取って家人は微笑んだ。

「はい、畏まりました」

 

 

楸瑛は通い慣れた友人の室の前に立つ。通い慣れたというより、それはもう日課だった。

返事を期待せず、声を掛ける。

「絳攸、入るよ?」

やはり返事はない。

扉を押し開けば、室の主と同じ香りが鼻を擽る。

どちらかというと殺風景な室だと思う。

積まれた書だけが唯一の生活感を感じさせたが、それも読まれなくなって日が経つのだろう。どこかひっそりとした感が漂う。

必要最低限に揃えられた家具達。その中の一つである寝台は窓の傍にある。

周りを布で囲ったその寝台に近付けば、掛け布の上に投げ出された手が目に映った。白すぎるその手は血管が透けて見えてしまうのではないかと、思う。

次いで、手の持ち主の顔が視界に滑り込む。

手同様に白い顔はまるで作り物のように見え、息をしていないかのようで不安になる。

腰を折り、耳を寄せると、すうすうという寝息が聴こえた。家人が言ったように彼が眠っていることを確認し、安心する。

椅子を動かすのも面倒で、そのまま寝台の淵に腰を掛ける。

しばらくその顔を眺めていたが、ふいにその瞼が数度引きつった。

「…ん」

視線に気付いて居心地が悪くなったのか、はたまた来訪者の空気を感じ取ったのか。うっすらとその菫の瞳が露になった。

「しゅ、うえ…?」

「うん。目が覚めた?絳攸」

起こして悪かったね、と謝ったりはしない。以前起こさず帰ったら「何故起こさない」と怒られたから。

絳攸が上体を起こそうとするのを手伝って、上掛けを肩に掛けてやる。

「はい、これは主上からで。こっちは吏部の子から」

「ああ、すまない」

絳攸が大事そうにその文を受け取る。

その文を絳攸がそっと開くのを楸瑛は目を細めて見守った。

そのうちに先ほどの家人が林檎の皮を剥いて運んできた。

「で、君が気にしていたあの案件だけど。今はまだ事を急ぐべきではないということで先送りになりそうだよ」

「ああ、それがいいだろうな」

文を読み終えた絳攸に今日の出来事を報告する。

それが、楸瑛の日課だった。

絳攸が倒れたあの日からの、日課だった。

 

 

「それじゃあ、絳攸」

「ああ」

室を出て行く寸前で楸瑛は振り返った。

「絳攸、早く元気になって。君が居ないと…」

絳攸は寝台から起き上がることなく、こちらをじっと見詰ていた。

「主上が、寂しがるよ」

本当に言いたい言葉を楸瑛は飲み込み、いつものように笑ってみせた。

それに絳攸は「ああ」と言って小さく笑った。

 

絳攸の邸を辞した楸瑛は、自分の眉間が皺を刻んでいることに気付いた。

何かが胸に痞えたような。言いようのない不安に駆られていた。

その不安は日に日に大きくなっていった。

最初は、疲れが溜まっただけだろうと思った。「君は働きすぎだから」と、「偶にはゆっくり休めばいいよ」と、そう言っていたのに。

最近は昨日よりも今日、きっと今日よりも明日。不安は大きくなるばかりだ。

…絳攸の病は、確実に進行していた。訪ねても眠っていることが多くなった。食も細くなった。今日持参した林檎だって一切れを食べただけだ。

そして。

何より、彼はもう怒らない。

ただ、笑うだけ。

その笑顔が儚げで、今にも消えてしまいそうに思えた。

絳攸がずっと自分の隣に居てくれると信じて疑わなかった日々が終わろうとしているのではないかという予感を、楸瑛は無理矢理心の奥底に仕舞いこんだ。

 

 

予感は確実に現実へと近付いてゆく。

自分の気持ちも、切なる願いも、裏切って。

 

日課で訪れた室で、その日楸瑛が最初に感じたのは違和感だった。

いつもよりぼんやりしているとは思った。

それでも、自分が話せばこちらを向いたし、文を渡せば開いて読んだ。

けれど。何かが、決定的に違う。

湧き上がるのは大きな不安。

「絳攸…」

「何だ?」

楸瑛は絳攸の前でゆっくりと片手を振った。

絳攸は瞬きさえしなかった。

まさか、と思った。

否定して欲しくて、言葉にする。

「君…目が、」

対して絳攸は驚いた風でもなく息を吐いた。

「目ざとい奴だな」

「…絳攸」

自分でも可笑しいくらい声が震えた。

何かが近付いてくる、そう思った。

その何かはきっと、闇だ。

「楸瑛、これは悲しいことなんかじゃない」

「絳攸!でもっ」

「悲しいことなんかじゃないんだ。だから」

何一つ濁っていない菫の瞳がこちらを捉えた。

「お前がそんな顔をする必要はないんだ」

それでも何か言おうとする自分に、絳攸は握っていた文を差し出した。

「これを」

「え、」

「読んで聴かせてくれ。俺にはもう読めないから」

 

綺麗な、そう、何より愛して止まない菫の瞳が自分に向けられている。

それでも、その瞳にはもはや何も映ってはいないのだ。

 

耐えられない、そう思った。

 

 

紅尚書から呼び出しを受けたのは、絳攸の元を訪れなくなって幾日か過ぎた頃だった。

「私はもう、彼に会えません」

我ながら情けない顔をしていると思う。

それでも黎深の顔は変わらない。淡々と冷たい視線だけがそこにあった。

「お前は自分が一番苦しいとでも思ったか」

その顔からは息子を案じる表情が欠片も読み取れなかった。

楸瑛は苦痛に歪んだ顔で、吐き捨てた。

「貴方には負けていないっ!貴方は耐えられるんですか!?絳攸のあんな、あんな姿を見てっ」

瞬間、彼の持つ扇子が音を立てた。

「そんなものは関係ないっ!一番苦しいのはあの子だっ」

扇子だった物がバラバラになって床に散らばる。

「楸瑛殿、忘れないで頂きたい。わたくし達はあの子の親です」

それまで黎深の横で黙っていた女性が、楸瑛へと声を掛けた。

「親には親の務めがあるのです」

その女性の少しも揺るがないその瞳が、絳攸に似ていると思った。

「何があってもあの子を受け入れ、見守る。それが…親として愛する我が子にしてあげられる唯一のこと」

頬を拭うこともせず、その女性は続ける。

頬が濡れていることに百合姫自身気付いていないのかもしれない。

「貴方は、わたくし達とは違うのです。会うも、会わぬも貴方次第です。わたくし達がそれを強要することは出来ません。あの子も何も言いません。…けれど」

闇はもう、すぐそこにあった。

「目を逸らしている時間は…もう、残されていないのです」

 

 

久方ぶりに訪れた室で、彼はぼんやりと窓の外を眺めていた。いや、正確には顔を向けていただけにすぎない。

「絳攸」

声を掛ければこちらを向く。それはもはや習慣なんだろう。

「楸瑛か?」

「うん、そうだよ」

「久しぶり」とは言わなかった。絳攸も「久しぶりだな」とは言わなかった。

「実はさ、手ぶらで来てしまったんだよ。何か欲しいものはある?」

苦笑いで言えば彼は軽く首を傾げた。

「別に何も、」

言いかけて彼は口を噤んだ。

「何?言って」

彼はゆっくりと口を開いた。

「う、た」

「歌?」

問えば、夢をみているような顔で言う。

「ああ。歌を、歌ってくれ」

「意外にお前は歌が上手いからな」と彼は付け加えた。

「…お安い御用だよ。何の歌がいい?」

数拍の沈黙の後、彼は曲名を告げた。

「蒼遙姫、東湘記、鴦鴦伝、彩宮秋、琵琶記」

「いい選曲だ」

声が震えないように、と願って息を吸い込んだ。

 

 

それから幾日も過ぎない内に、絳攸は寝台から上体を起こすことも出来なくなった。

彼の為に自分が出来ることなんて何も…無かった。

馬鹿みたいに、何も知らない振りをして。歌うことくらいしか。

彩七家筆頭の血が何だ、近衛将軍の地位が何だ。そんなものに何の意味も無い。

目の前のたった一つの命さえ、抱き留めることが出来ない。

自分はあまりに無力だった。

「私の命を半分あげたい」

そう言った自分に彼は笑った。

「だからお前は馬鹿なんだ」

まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるように。

「これは、悲しいことなんかじゃない」

繰り返し。何度でも。言い聞かせるように。君は言うんだ。

君は頭がいいのに、まるで私を解っていないね。

君の命があと一日延びるというのなら、私は迷わず人を殺すだろう。

君の命が助かるのなら、自分の命さえ惜しくない。

自分は、彼が言うように馬鹿なんだ。

だってそれは彼の為なんかじゃない。

全て、置いていかれたくない自分の為だ。

きっと今この瞬間も、この国の何処かで誰かの命が尽きている。人の死なんて、そこらじゅうに転がっていて。誰かが今も泣いている。

それでも、今自分にとって意味のある命は君のものだけなんだ。

私はこれ以上の絶望を知らない。これ以上の闇を知らない。君の居ない世界を…本当は知っていたのかもしれないけれど、もうとっくに忘れてしまった。

当たり前なことが、どうしてもっと貴いものだと気付かなかったのだろう。

ありふれた日常を、もっと愛したかった。

それでも、彼は言う。

「これは、悲しいことなんかじゃない」と。

「本当だったら、とっくに終わっていた命だからな。そっから先は、おまけみたいなもんだ。そのおまけが、余りに―――だっただけだ」

彼の声は小さくて溜息みたいで、聞き取りにくかったけれど。

「幸せ」と、聴こえたような気がした。

「お前と過ごしたそのおまけの時が、俺は嫌いじゃなかった」

そう言って、彼は笑った。

 

 

うわ言のように彼が言う。

「おれは、ずっとおまえにうそを…ついて、いたんだ」

「うん」

「きらいだ、なんてうそだ」

「うん」

「しんでこい、なんておもって、ない」

「うん」

「すきじゃない、なんて…ぜんぶ、うそだ」

「うん、知ってるよ。君は嘘吐きだよね」

何か言いたげな顔にふと笑う。

「お前に言われたくないって顔だね。そうだね、私も君に嘘を吐いてきたから…お相子だね」

その白すぎる手を取った。

冷たい手だった。彼の手はいつも温かいのに。

「私は君が好きだと、言ったね。君が何処の誰だろうと、何をしようと、ずっと好きだと」

彼の手は冷たくて、私の体温さえ拒む。

「嘘だよ」

彼がゆっくりと瞬きをした。

「君なんて嫌いだ」

君に、あげる。

「今、私の前から消えようとする君なんて嫌いだ。大嫌いだ。…だから」

その冷たい掌にそっと口付けた。

ありったけの想いを込めて、そっと。

「何処にも、いかないで」

出逢えた喜びを歌声に、別れの悲しみを花束に、溢れた愛しさを口付けにして、君にあげる。

「置いていかないで」

「…ごめん、な」と、彼が呟いた。

 

 

『これは、悲しいことなんかじゃないんだ』

『人は…いや、人に限らず。あらゆるものは、いつか帰るんだ』

『俺も、帰るんだ。ただ、それだけ』

『帰るのは…空がいいな。空に帰れたら、いい。青い空に』

『だから。これは悲しいことなんかじゃないんだ、楸瑛』

 

 

聴こえるのは、葬送の二胡。

葬送の二胡に混ざって、鳥の羽ばたきが聴こえた。

君が離れていく。空へと君が帰っていく。

それが何だか悔しくて。腕に残る君の体温を、抱き締めた。

冷たい手を忘れない。

銀糸に空の青さを一滴垂らした髪の色も、よく動く口も、紅の耳飾が光る形のよい耳も、眉間の皺も、胼胝のある指も、すぐ彷徨う足も、私の一言で一瞬に朱に染まる頬も、耳に心地いい怒鳴り声も、愛して止まない菫の瞳を。

忘れない。

見上げた空は、青。

抜けるような、青。

君と出逢ったあの時のような、空だ。

あれ、可笑しいな。こんなに青い空なのに、雨が降ってきたみたいだ。

だって、ほら。地面も、手も、頬も、濡れている。

次から次へと染みができてゆく。

君が降らせた雨なら、それさえ抱き締めよう。

 

絳攸、君に歌をあげる。

君だけに。

最後の歌を。

想遥恋―――叶うことの無い、片恋の歌を。

 

会いたくて、会いたくて、会いたくて。

顔を見たくて、声を聞きたくて、名前を呼んで欲しくて。

君を探す。

目が、耳が、頭が、足が、手が、心が。

君を探す。

 

春も夏も秋も冬も、君がいた。

茜に染まった執務室も、二人で暇を持て余した府庫も、君の大事な吏部も、君が立ち尽くしていたあの廊下も、酒を酌み交わした藍邸の月見台も。

桜も、蛍も、紅葉も、星空も。

晴れの日も、雨の日も、雪の降る日も、虹が架る日も。

君との記憶で溢れている。

空の青さに、風の薫りに、月の輝きに、墨の匂いに、李の花に。

君を想う。

僕の世界は君で溢れている。

 

僕の世界は、君のものだ。

 

 



君の居ない世界で、僕は今日も君を探している。














*************

バッドエンド…なんですが、お気付きでしょうか?
UP済の『花は根に、鳥は故巣に』で楸瑛が見た夢がこれです。
「失って初めて知る大切さ」っていうやつを失わずに気付いて欲しいんですよね。だって双花が好きだから、どちらかが欠けるなんて嫌だ。双花は2人で1つ。
08/6/25

戻る