―――その人は言った。

『これは、悲しいことなんかじゃない』と。






花は根に鳥は故巣に











深更と呼ぶには早過ぎ、宵の口と言うには遅い時分の外朝。この国を治める王とそれを支える者達の集うその外れに、二つの人影が月光に浮かび上がっていた。

足音と共に、声が聴こえる。一つは楽しそうに、からかうように。もう一つは怒って、癇癪を起こしたように。いつもと同じそれ。ただ、今夜は違うことが一つ。

 

「本当に困ってしまったねぇ、ここはどこなんだろう」

「な、な、な、なんだとぉぉぉ」

 

彼らは迷っていた。

まぁ、一方にとってそれはいつものことだ。…本人にとっては物凄く不本意だが、いつものことだ。

ただ、いつもと違うのは迷っているのが彼一人ではないということ。

常なら李絳攸をからかいながら道案内する筈の藍楸瑛も同じく、迷っていた。

何故こんなことになったのかと言うと…楸瑛が面白がって絳攸の後を付いていくことにしたからだ。「君があんまりにも不規則な歩き方をするから」と言ったところで絳攸は当然納得しない。

 

 

「お、お前まで迷ってどうするんだっ!?」

「そう言われてもねぇ」

口では「困った」なんて言っているが、全く困った様子はなく楸瑛は告げた。その様子に絳攸は眉を吊り上げた。

「何を暢気に!」

「まぁいいじゃないか。偶にはこんな日もあるよ」

「よくないだろ!偶にだってこんなことあって堪るかっ!」

道に迷うということが死活問題である絳攸は「王の双花菖蒲、外朝で遭難死!」なんてことだけは何としても避けたいと必死だ。

「…私にだって迷う日もあるってことさ。ほら、月が綺麗な晩なんだからさ。月夜の散歩も悪くないだろ?」

そう言って空に掛かる月を見上げた、色男と名高い楸瑛のその顔に少しの影が過る。

「…やはり、貴様変だな。そんなに女に振られたことが衝撃か?まぁ、お前を振るとはなかなか見所のある女だがな」

「だから振られた訳じゃないって」

楸瑛は本日二度目の訂正をいれる。言い訳がましく聴こえるのは気のせいだろうか。

「どうだか」

「君ね…」

絳攸のにべもない返答に、更に言い返そうとして気付く。

「嗚呼、そうか。彼女は君に似ているかもしれない」

言葉にすればその発見はすとんと心に降りてきた。

「はぁ?」

「うん。よくよく考えれば似ているよ」

楸瑛は一人納得するように頷いた。

「君が女性だったら真っ先に口説くのに」

「俺が女だったら貴様など真っ平御免だっ!!」

付き合ってられんとばかりに絳攸は怒って、足音も高く王の執務室目指し、再び歩き出した。

 

 

その後姿を見ながら、楸瑛は目元を和ませた。

我ながら、現金なものだと思う。いつもの調子を取り戻せていることに安堵する。

絳攸は優しい。時に無防備な程に。色恋には疎い癖にいやに鋭い時があるから、わざわざ探しに来てくれたのでは、と錯覚しそうになる。

絳攸と話して、からかって、怒らせて。そんな「いつも」に己はどれほど、救われているのだろうか。

今朝は…そう、目覚めから調子が悪かったのだ。

言いようの無い喪失感で目を覚ました。けれど、それが何故なのかは全く思い出せない。大事なことを忘れてしまったようなもどかしい気持ちで一杯だった。

狂おしい程の思いの原因が解らず、頬を濡らした物の意味が解らず。

一人になりたくて。

でも、一人で居られなくて。

後宮へ行けば誰かの温もりに縋れる気がした。

けれど。

あの女性がくれたのは、温かな温もりなどではなく。

冷たい眼差しと、優しい言葉。

 

『そんな上の空で言われる言葉など、嬉しくも何ともありません。尤も上の空でなくても嬉しくありませんけれど』

『お帰り下さい。そんな状態の貴方と他の女官を会わせるなんて危なかしくてとても出来ません』

『あら、お気付きでなかったのですか?…随分と酷い顔をしていますわ。お一人で夜風に当たって頭を冷やしたら如何ですか。こんな…月の綺麗な晩は、少しくらいは感傷的になって大人しくして御覧なさい』

 

本心を見抜く薄い紫の瞳と、飾らずに真っ直ぐに投げつける言葉。

自分はそれに弱いんだろう。つい甘えたくなってしまう。

そして。

誰も来ない場所で独り、物思いに耽ろうとしたら…絳攸が来た。

 

 

「どこも同じ造りにしやがって、独創性とか遊び心というものは無いのか!」

絳攸の怒りはついに大工にまで及んでいる。八つ当たりもここまでくると清々しいというか、面白いというか。

そんな風にがむしゃらに歩くから迷うのに、と楸瑛は思う。

でもそれが絳攸らしくてその背を目だけで追う。

絳攸の背が遠ざかる。

一人で、どんどん遠くなる。

その背が―――消える。

 

『これは、悲しいことなんかじゃない』

 

突然、声が蘇る。あまりに鮮明に。

それを言ったのは誰だったのか?

何故、目覚めが悪かったのか?

何故、泣きながら目を覚ましたのか?

…それは夢を見たから。

それはどんな夢だった?

夢と現実が混ざる。

 

 

―――置いていかないで。

 

 

「―――っ絳攸!!!」

 

行き成り大声で呼び止められて、絳攸は振り返った。

そこで自分を呼んだ男を見る。

立ち尽くした、男。

「楸瑛?」

返事は無い。絳攸は慌てて、走り寄った。

楸瑛にいつもの余裕綽綽な様子など微塵もなく、顔は強張り、額には脂汗が滲んでいた。

「おいっ、どうしたんだ?お前、本当に変だぞ」

楸瑛は一度目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。

「……………け、さ」

「今朝?」

「…夢を、見たんだ」

「うん?」

目を丸くする彼に、ようやく口元を上げることが出来た。それは屹度、とても情けない顔だろうけど。

「そう、夢だ」

 

 

 

それは、

君がずっと私の隣に居てくれると

信じて疑わなかった日々の終わりだった。

 

君に置いていかれる、夢。

 

置いて…逝かれる、夢。

 

 

君の最期の言葉を覚えている。

 

『これは、悲しいことなんかじゃない』

 

『本当だったら、とっくに終わっていた命だからな。そっから先は、おまけみたいなもんだ。そのおまけが、余りに―――だっただけだ』

 

『お前と過ごしたそのおまけの時が、俺は嫌いじゃなかった』

 

私の命を半分あげたいと言った私に、君は

『だからお前は馬鹿なんだ』

そう言って、笑うんだ。

 

君の為に、私が出来ることなんて何も無くて。

藍の名も、将軍職という地位も何も意味など無くて。

自分の無力を呪った。

なのに、君は言うんだ。繰り返し。何度でも。

『これは、悲しいことなんかじゃない』

でもね。

私はこれ以上の絶望を知らない。

これ以上の闇を知らない。

人の死なんて、そこらじゅうに転がっていて。

今この瞬間も、誰かの命が尽きている。

それでも、今自分にとって意味のある命は君のものだけなんだ。

私が何を言っても、君は怒らない。ただ、笑うだけ。

君が気にかけるのは、あの人のことばかりで。

私は、ただ、君を送ることしか出来なかった。

 

 

 

そこで、私は目を覚ました。狂おしい程の思いの原因が解らず、頬を濡らした物の意味が解らず。

けれど、思い出したんだ。絳攸の遠くなる背を見て、自分が置いていかれる夢を見たことを思い出した。

だから、泣いていたんだ。

だから、寂しくて、淋しくて、悲しくて、哀しくて。

だから、後宮へ行った。誰でも良かった訳じゃない。

でも、現れたのは君だった。

それが何を意味するのか、きっと君は知らない。

いつだって、私の心を突き落とすのも掬い上げるのは君だ。ふと、現れる君だ。

 

 

 

「で、どんな夢なんだ?」

菫色の瞳が気遣うように、自分の顔を覗きこむ。

「…君に、置いていかれる夢を見たんだ」

「は?」

「いつも迷ってばかりいる君に置いていかれるなんて、考えてもみなかったよ」

「……それは、俺に喧嘩を売っているのか?」

その言いがかりが彼らしくて。

楸瑛はくつくつと笑い出した。

「楸瑛っっ!!くそっ心配して損したっ!」

「おや、心配してくれたんだ?」

「くっ!もう貴様など知らんっ!そこで一生一人で笑っていろっっ!!!」

楸瑛は、怒りのままに踵を返して去ろうとする絳攸の手を掴んだ。

「…ねぇ、絳攸。覚えてる?」

菫色が驚いたように見開く。

「君が迷った時に連れ戻すのは私の役目だって言ったこと」

忘れる訳ない。忘れただなんて言わせない。

あの時も自分は、この手を握っていた。

「大丈夫だよ。こんなところで一緒に迷っているようじゃお役御免になってしまうからね」

「…お役御免になりたいんじゃないのか」

絳攸はそっと下を向いた。

自分だったらこんなお守りなんて御免だと、絳攸は思っているだろう。

そんな訳ないのに。むしろいつお役御免にされるのかと怯える自分がいるのに。

「まさか。降りるつもりはないよ。…それに。今夜は朝まで傍に居て、慰めてくれるんだろ?」

「だ、誰がだ!?」

顔に朱を走らせる絳攸の手を握り直した。

「ほら、行こう。あっちだよ」

「…おい、いつまで人の手を掴んでる気だ」

「いつまでも」

「は?」

「君が離したいなら、離していいよ。…でも。私からは離したくない」

「………………………」

沈黙が降りる。

けれどその手が離れていくことはなかった。

数拍の後。「…く、暗いから、だ」と小さな呟きが聴こえた。

それに、「うん。そうだね」と返した。

 

 

 

理由なんて何でもいいんだ。理由が欲しいなら幾らだってあげる。彩雲国中から探してあげるよ。

 

絳攸。君は気付いているだろうか。

これは恋なんかじゃないんだ。そんな優しいものじゃない。

ましてや、愛なんて崇高なものじゃない。

恋よりも愛よりも、もっと、もっと、強く。言葉になんか出来ない程。

この想いに名前などいらない。

自分のことをどう思っているかなんて全く気にならない…とは言えないけれど。どう思われているかより、自分の想いの方が余りに大き過ぎて。手一杯で。

 

この先何があっても。

自分のこの気持ちに彼が気付かなくても。

体を重ねることなどなくても。

彼の一番が養い親であったとしても。

喩え、彼が妻を娶り、子を為しても。

喩え、自分が妻を娶り、子を為しても。

互いの立場や、立つべき場所が違っても。

約束や誓いなんて無くても。

永遠なんてものが無くても。

運命なんてものが存在し無くても。

自分達を繋ぐ腐れ縁という名の絆が切れてしまっても。

何があっても。

 

変わらない。

君だけは変わらない。

君が君で居る限り、私の帰る処は君なんだ。

だから、私一人を置いていかないで。

 

 

 

花は根に鳥は故巣に

 

そして

 

僕は君に












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死ネタはアスミアで十分だった筈なのに、豆Aの全サ・ドラマCDを聴いていたら書きたくなってしまいました。でも結局夢だし、シリアスになりきらない。
私の中での双花の最終形態がこのSSに込められているような、いないような。
08/1/12

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