君の生まれた日











「…貴方、それは何?」

「見てわからんか?」
百合の目は夫が小脇に抱えている物体に釘付けになっていた。
その物体はばたばたと暴れている。
しかも「離せ」とか「降ろせ」とか「人攫い」とか言っている。
「……わたくしの目には人間の子供に見えるわ」
「だったら人間の子供なのだろう」
「………その人間の子供はどうしたの?」
「道に落ちていたので拾った」
「……………………」
百合は夫との会話を諦めた。
最近の町では子供が道に落ちているのなんて、知らなかったわ。
しかし、子供が道に落ちていようがいまいが、それはこの際いいとしましょう。
問題は、何故夫が落ちていた子供を拾う必要があるのか。
大体この男は目の前で人が行き倒れていようと、平気でその上を踏んで歩くような男なのだ。
人助けとは無縁の男だ。
それがどうして子供など拾う必要があるのか。
…わたくしに対する、嫌がらせかしら。
昨日、夫が姪にあげようとした蜜柑をわたくしが勝手に食べたからかしら。
それとも昨晩作った料理に傷んだ豆腐を使ったのがバレたのかしら。
それとも自分だけ夫が大好きな兄上のところにお呼ばれしたのを、根に持っているのかしら。
それとも鳳珠様に頼んで、夫の背中に「私は変質者です」という紙料を一日中貼らせていたことを怒っているのかしら。

百合が夫に嫌がらせをされる理由について考察していると、夫の脇からその子供が落下した。
黎深が手を離した所為で、ビタンと音がして子供が潰れた。
まぁ、何て酷い。流石は紅黎深だ、と百合は変な感心をした。
潰れた子供をよくよく見ると全身びしょ濡れだった。
今日は朝から雨が降っていたのでその所為かもしれない。今でも外は雨が降り続いている。
しかも子供はあちこち汚れていた。
体力が無いのか、抵抗に疲れたのかなかなか起き上がらない。
何とか体を起こした子供の顔を見ようにも、無造作に伸びた髪の所為でよく判らない。
何歳位だろう。痩せ過ぎていて、それも定かではない。
というか、性別もよく判らない。
百合は一つ溜息を吐く。
「…とりあえず。湯を用意させます」
子供が僅かに体を揺らした。
「こっちよ、いらっしゃい」
子供は動かなかった。
その細い手首を取って手を引くと、弾かれたようにその顔が上がる。
初めて子供と目が合った。
身形は汚いのに、その瞳は透き通った硝子玉みたいだった。



「ああ、綺麗になったじゃない」
湯殿から上がった子供を百合はまじまじと見詰た。
先程は汚れていて判らなかったが、なかなか綺麗な顔立ちをしている。
色素の薄い髪は、見る角度によって色が変わる。その髪からは雫が垂れていた。
「ちゃんと拭かないと」
子供の肩に掛かった布に、極自然に手が伸びた。
子供は大人しく、百合に髪を拭かれていた。
粗方乾いたところで、子供のお腹から音が聴こえた。
「お腹、すいてるの?」
訊けば、子供は躊躇った後こくりと首を縦に振った。

子供に出した饅頭は我ながらとても革新的な形だと思う。
どうして邸の料理人と同じ材料、同じ行程で料理してこうも見た目が違うのか。
不思議でしょうがない。
夫からは「ちんけな饅頭」呼ばわりされたその饅頭を子供はもぐもぐと頬張った。
しかも子供は「お、おいしいです」と言って、ぎこちなくだが笑ってみせた。
夫が何か言いたそうにしているのを百合は目で制した。

「あなた、名前は?」
茶を渡してやりながら訊けば、子供は言い辛らそうに口を数度動かした。
「李絳攸、だ」
「え?」
その子供ではなく、夫が口を開いたことに百合は驚いて夫を仰ぎ見た。しかし夫は自分ではなく、子供を見て再度その名を告げた。
「李絳攸。今日からそれがお前の名前だ」
「り…こう、ゆう?」
黎深は目を瞬く子供の手を取ると、その平に指で字を書いた。
「李、絳、攸、だ。自分の名前くらい書けるようになれ」
百合は夫が告げた名前に、いやその姓に何か言おうとした。
しかし掌を見詰て「李、絳攸」と呟く子供の顔を見て、口を開くのを止めた。
子供は自分の名が書かれた掌をぐっと握ると、意を決したように顔を上げ黎深に尋ねた。
「あ、あの!どうして拾って下さったのですか?」
何かに縋るように訊く子供に黎深はふふんと鼻を鳴らした。
「敬愛する兄上が先頃一人の少年を拾ったそうでな。私もそのご苦労を疑似体験すべく適当に誰か拾って育ててみることにした」
子供は得意そうに語る黎深に、目をぱちぱちさせていた。
黎深の言った意味が解らなかったなら、それはそのほうが幸せだろう。
「あんなのは放っておいて」
百合は子供と目線を合わせた。

「絳攸、お代わりを食べる?」

子供が照れながら返事をするまで数拍。


その日、李絳攸が生まれた。











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「革命前夜〜李絳攸編〜」とリンクするお話。
何でもクレームをつける親のことをモンスターぺアレントっていうらしいんですけど、
ただ傍に居て何ものからも守ってあげるのが親じゃないんじゃないかなって思います。
黎深と百合姫と絳攸は誰ひとりとして血の繋がりはないけれど、
親馬鹿な夫婦と鎹(かすがい)な養い子のこの家族が大好きです。
07/12/18 収納

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