青空賛歌











さぁ、僕達の出逢えたこの空へ歌おう。

 

 

 

その日、冬の色がまだ残る彩雲国王都・貴陽は独特の熱気に包まれていた。

宿舎から試験会場である宮城を繋ぐ道には人が溢れ、場は騒然としていた。

そのざわめきの中を藍楸瑛は歩いていた。そこに渦巻く様々な感情や思惑とは無縁そうに、優雅としか言い表し様のない様子で彼は歩を進めていた。

彼が通ろうとすれば群がる人だかりの山は自然に開け、彼の一挙一動を周囲の人間が息を詰めて見ていた。

しかし場の空気に呑まれ、周囲をきょろきょろと見回していた一人の男が彼にぶつかりそうなった。

「うわっ!危ないだろうがっ…あ!いえ、すみませんっ」

彼の姿を目にした男は一瞬呆けたように見惚れた後、慌てて彼に道を譲った。

藍州の州試を主席及第した者の名と身に纏う衣の色を見れば、彼が何処に属するものか言わずと知れるだろう。

楸瑛が通った直後は静まったざわめきが彼が通り過ぎると同時に復活する。いや、更なる威力を増して。

「あれが藍家の」

「まだ若いではないか」

「藍本家の四男なら確か、十八だった筈だ」

「あの年で州試主席及第だと?」

「ついに藍家筋の文官が宮廷に戻ってきたというわけか」

「藍家の当主は三つ子の」

「揃い子など不吉なものを」

「藍家は一体何を考えて」

「藍家は」

「藍家が」

「藍家」

「藍家」

「藍家」

衆人の囁きはどこまでも追いかけてくる。

くだらないと、楸瑛は内心で吐き捨てた。予想はしていたが、こうも不躾な視線には流石に辟易する。

 

国試など受けなければ良かった。今更言っても始まらないが、楸瑛は今日一日で何度目かの感想を抱いた。

自分が受験者という立場になってこそ多少の関心も持つが、それまでは国試というものに興味は無かった。藍州にも有能な者は多く居るし、国一番の試験と言われても響くものは無かった。

三人の兄が受けた当時は、国試史上初の状元・榜眼・探花が全くの同点だったということは聞き及んでいたが。それは色んな意味で兄達がすごいのであって、国試自体がすごいものだとは思えなかった。兄達なら当然だとさえ、思った。

そんな自分がこの度、めでたくもその国試を受験することとなった。

国中の名だたる才子でも落第していくという、何度も受けて三十代や四十代にしてようやっと受かるという国試を、十八の自分が。

はっきり言って、兄達の気まぐれ以外の何でもない気がする。

兄達が宮仕えしていた頃は、自分もいつか文官になって働くだろうとか。あの清苑公子に仕えたいとも思ったものだが。何故、清苑公子も居ない、藍姓の官吏も引き上げさせている、今この時期なのか。

尤も、考えたところで自分には兄達の考えを推し量ることなんて到底出来ない。

兄達から三位以内に入らなければ話にならないと言われているが、言われるまでもなく主席を取る自信はある。

しかし、順位などは所詮、他者との相対的なものである。順位になど興味はない。巷では誰が国試を主席及第できるか、賭ける者までいるらしい。自分が受験するわけでもないだろうに、暇なことだ。

順位に興味がないのに、主席を取ることに拘るのは誰かに負けたくないという思いではない。一種の義務みたいなものだ。藍家の人間としての。

個人的には勝ち負け自体にも興味はない。子供の頃はそれなりに勝ちに拘ったり、負けたくないという気持ちもあったが、年齢とともに薄れていった。勝てない相手というのが身近にあった為だ。

いつしかこの相手には勝てる、勝てないというのが判るようになった。

学問であれ、武芸であれ、恋愛と一緒だ。この女性は甘い言葉を囁けば簡単に落とせる。この女性は…一生、自分のものにはならない。

 

楸瑛は重い息を吐き出した。

軽く頭を振って、歩を進めるが、ざわめきも不躾な視線も止むことはない。

怒り、羨望、憎しみ、妬み、憧憬、畏怖、好意も悪意も様々なものが自分に向けられている。

騒がしい世界だ。

静かな世界に帰りたい。

あの静かな完璧で美しい世界に。

そう思った時に、浮かんだのは義姉・玉華の顔だった。

帰れるはずも無い。

…自分は逃げ出したのだから。

 

 

「藍家の若君」

呼ばれて楸瑛は振り返った。

楸瑛に声を掛けたのは三十代半ばくらいの男だった。

「お初にお目に掛かります、藍楸瑛殿。私は茶家の出で…」

楸瑛は笑って、優雅に口の端を上げた。

「ええ、存じておりますよ。うちの兄達も貴殿の父上にはお世話になったと言っておりました」

その言葉に気を良くした男は、べらべらとしゃべり始めた。

「おお!なんと藍家の御当主方が?父もよく申しておりました。あの方達は実に素晴らしい才徳の持ち主であったと」

楸瑛はそれに軽く相槌をうっていた。

顔には笑みを湛えたまま、楸瑛はしかしその男を値踏みしていた。

一番格下とはいえ、茶家も彩七家。特に茶家は他家に比べて権力への執着が強い。

楸瑛がさて、どうしたものかと考えを巡らせていると。

ざわっと大きく空気が揺れた。

自分以外に起こったざわめきの正体を知ろうと楸瑛は首を巡らせる

どんな珍獣でも現れたかと思ったが、ざわめきの中心にいたのは一人の子供だった。

「…あれは?」

こちらに向かって歩いてくる、明らかに幼い姿に楸瑛は思わず呟いた。

それを聞き留めた茶家の男は「ああ」と言い、呆れ果てた調子で言葉を続けた。

「何故あのような子供がこのようなところにいるのか全くわかりませんな。ただのまぐれとはいえ。あのような子供の受験を許していること事態、この国の先が危ぶまれるというもの」

「名は?」

「…確か、李絳攸とか」

楸瑛は「へぇ」と口の中で呟いた。

今回の国試では己が最年少かと思ったが、意外な伏兵がいたものだ。

ここから見る限りでは十五、六といったところだろうか。

突き刺さる視線をいともせず、まっすぐにやってきた少年に楸瑛の瞳は弓形に細まった。

楸瑛は至極にこやかに笑いかけた。


「初めまして、李絳攸君」


その言葉に少年は顔を楸瑛に向けた。

「…………………」

少年の青紫の瞳が自分を捉えたと思った。しかしその次の瞬間にはそれはふっと逸らされる。

「おや?」

楸瑛は逸らされた少年の顔を覗こうとしたが、少年は楸瑛に構うことなく行ってしまった。

 

「嫌われてしまったかな」

「なんと無礼なっ」

楸瑛が残念そうな声を発せれば、隣にいた茶家の男が強い口調で息を吐いた。

「どんな手を使ったか知らないが!ここはあんな庶民の子供がくるような場所ではない!神聖な国試ぞっ」

何故か怒っている男を思考の外に追い出し、楸瑛はふむ、と顎に手をやった。

李なんて姓は聞いたことがないが、あの歳で州試に受かったのならかなりの才だ。例え今回は無理だったとしてもいずれ名を馳せる時がくる可能性は高い。顔を知っておく必要もあるかと思ったが。

馬鹿なことだ。

この国で「藍」が何を示すか分からぬわけではないだろうに。自分に対するあの態度も子供特有の強がりだろうか。

子供の為すことに怒りなどは湧かなかったが。

ただ…つまらない、と思った。

少しは楽しめるかと思ったが、所詮はただの子供。

一瞬だけ自分を捉えた青紫色の瞳が綺麗だと、思ったが…無表情なつまらぬ子供だ。それ以外の表情を見たいとも思わなかった。

国試最終筆記試験である会試は七日間。早くそれが過ぎることを願うしかなさそうだ。

その後は、どうしようか。

兄達は「国試を受験しろ」とは言ったが「文官になれ」とは言っていない。兄達は自分に選ばせようとしているのだ。このまま文官になるもよし、藍州に帰るもよし、他の州へ行くもよし。

それは『藍家当主』でも『藍龍蓮』でもない自分に与えられた選択肢。

 

楸瑛は一度目を閉じた後、何かを振り払うようにゆっくりと一歩を踏み出した。

 

 

 

「紅家の軒が止まっていたというではないか」

「噂では紅家当主の養い子が受験するとか」

「だとしたら、それは彼だろう」

「ああ間違いない」

「紅州主席及第で、しかも今回紅の姓を持つ受験者は彼だけだ」

そう噂する者達の瞳は、薄い紅の衣を纏った男に注がれていた。

視線の先に居るのは二十代半ばの釣りあがった瞳が特徴的な男だった。

しかしその男の目は、一人の少年だけを捉えていた。

 

「君が李絳攸か」

腕を組んで、背後から声を掛ければ少年の歩が止まった。

「…まさか、本当に受験しているとはな」

軽く首を傾げて言えば、少年がゆっくりと振り返った。

紅家当主の養い子を間近でみれば尚更、男には呆れがこみ上げる。これはあまりに幼い。

「全く、何をお考えなのやら。ご当主は」

溜息を吐きつつ言っても、子供からの反応はない。

「なんだ、君は口がきけないのか?」

「………いえ」

そう言ったきり少年は再び口を閉ざした。

自分の一族の長が手塩に掛けて育てた子供というから、どんなものだろうと気にしていたがこれでは話にならん。

「まぁいいさ。せいぜい一問くらいは正解して当主殿の顔に泥を塗らないようにするんだな」

そう言った男は態とらしく、思い出した様子で「ああ」と漏らした。

「そうはいっても君は紅姓を賜っていないから、君と当主殿の関係なんて誰も気付かないか」

そこまで言っても全く変わらない少年の表情に、男はもう一度溜息を吐いた。

そして、男は少年の横を通り抜け際に更に言葉を投げた。

「我らのご当主のお遊びにも困ったものだ」

 

男が完全に遠ざかった後、少年はゆっくりと俯きそうになる顔をもち上げた。青紫色の瞳には悲しみも、怒りも宿ってはいなかった。

大丈夫だ、と少年は一度ぐっと拳を握った。

『行ってらっしゃい』と送り出してくれたあの人。

『精々頑張りなさい』と常にない言葉をくれたあの人。

それを思えば、なんてことない。

 

絳攸はまっすぐと前を見据え、歩き出した。














*************

双花過去シリーズA国試編です。やっと日の目を見ました。
うちの双花は一目惚れではありません。
18歳・楸瑛は「嫌な奴」です。やな感じぃーと思って下さい。
16歳・絳攸は「まっすぐな子」です。いい意味なんだけど、悪い意味もあるのかも。
双花の二人は予備宿舎には入らないかもと思って、会試本番からスタートです。
08/7/25

戻る/続く