はじまりの夜
「絳攸、ちょっと飲み過ぎじゃないかい?」
そこは王都、貴陽藍家別邸。時は深更に差し掛かろうとしていた。宮城にも引けをとらない程に手入れの行き届いた庭に面した室で、この邸の主とその友人は酒を飲んでいた。尤も一人は酒に飲まれているといった感じではあるが。
邸の主・藍楸瑛は親友(相手に言わせると腐れ縁らしいが)・李絳攸の飲み方を窘め絳攸の杯を取り上げようとするが、「煩い!」と振り払われてしまう。
「だって君、相当酔ってるだろ?明日の公務に響いても知らないよ?」
「酔ってなどない!!」
「………酔ってるじゃないか」
格別酒に弱いわけでも、酒癖が悪いわけでもないはずだが、今夜は相当虫の居所が悪いらしい。いくら酒に弱くないといっても、左羽林軍で鍛えている楸瑛とは比べものにならない。
目が据わり、頬を染め、もはや意地のように酒を飲み続ける腐れ縁の友人に楸瑛は溜息を吐いた。
共に花を受け、主上付になって一月程経った。昏君演技をしていた王も今では(文句を言いつつも)仕事をこなすようになり、大きな事件もなく穏やかに日々を送っていた。
絳攸を酒に誘うことは珍しいことではなかったが、その誘いに絳攸が素直に乗ってくることはどちらかと言えば珍しかった。大抵は溜まりに溜まった仕事のお陰で断られるのだが。
―――やはり、何かあったな。
楸瑛は昼に感じた自分の予想が当たっていると確信した。彼を悩ますことができる人物など一人しか思い付かない。矜持の高い彼のことだ。自分に理由を話すとは思えない。しかし、この様子ならまだ症状としては軽い。表情に出せる内は邵可の力を借りなくても大丈夫だ。理由を聞くことはできないが、気晴らしにでもなればと、酒に誘ったのだ。彼はこと養い親に関して考えすぎるところがある。しかも悪い方に。ごく身近な人間からすれば、あの養い親はしっかりと絳攸に愛情を注いでいるのが手に取るようにわかるのだが、本人には全く伝わっていない。まぁ、養い親に伝えようとする意思がないからだろうが。兄や姪には迷惑なほどの愛情を包み隠さず伝えようとするのに、なぜ養い子にはあんな捻くれた愛情表現しかできないのだろうか。照れているのか、とも思ったが彼の人物の為人
―――嗚呼、そういえば…。
楸瑛は昼間に主上から聞いたことをふと思い出した。なんでも主上が元貴妃に贈り物をしようとすると不思議なことが起こるとか。例えば贈ろうとした物が先に買い占められたり、贈り物を乗せた軒が壊れたり…。
…この件に関しても犯人は一人しか思い当たらない。絳攸の悩みの一端が垣間見えた。
―――紅尚書も人の恋路の邪魔をしていないで、仕事すればいいものを…。
多分自分よりも果てしなくそう思っているだろう絳攸を見やると相変わらず酒を飲み続けている。楸瑛は再び溜息を吐くと、空になった絳攸の杯に酒を注いでやった。
―――仕方ない。今夜は付き合ってあげるしかないか。
用意した酒も底を尽きた頃、楸瑛は酔っ払いの友人に声を掛けた。
「絳攸、気は済んだかい?家人に室を用意させたから、今夜は泊まっていくといい」
「……………………」
返事がない。
「絳攸?」
顔を覗き込むと
「…ん?…ああ」
辛うじて返事が返ってきた。
「これじゃあ、自分で歩いて行くのは難しいか…。男は専門外なんだけどな」
そう独り言を言うと、楸瑛は絳攸を軽々抱き上げた。
普段なら透かさず絳攸の怒鳴り声が響くであろうが、本人はすっかり夢心地で大人しくしていた。
―――こんなに大人しいと却って恐いな。
この後、更に却って恐いことが起こることを藍楸瑛は知らない。
「ほら絳攸、着いたよ」
寝台の縁に座らせて、自分も隣に腰を下ろした。
「…………う」
「絳攸?気持ち悪いのかい?」
「……………………」
「…え?」
流石の楸瑛もこれには困惑した。いくら不意を衝かれたとはいえ、武官の自分が文官の絳攸に押し倒されるなんて。最近鍛錬を怠っていたからか…。
「………絳攸、君の気持ちは嬉しいのだけどね、私はどちらかと言えば押し倒されるより押し倒す人間で…」
楸瑛のいつもの軽口は絳攸のある行為によって途中で消えた。
耳を舐められた。
「ちょ、こ、絳攸!?」
自分でも笑ってしまう位動揺していた。大体こんな行為は自分にとっては日常茶飯事のことで動揺する方が可笑しい。深窓の姫でもあるまいし。
絳攸の両の肩を掴むと、ぐいっと引き起こした。
絳攸の瞳とぶつかる。何色にも染まらない硝子玉のような瞳。初めて会った時、綺麗だと思った瞳だ。今は酒のせいで些か潤んで目元が赤くなってはいるが、彼の本質を一番に表した対の瞳がこちらをただ、じっと見詰めてくる。
とくんっ。
何かが音を立てた。
―――私の…心臓の音……?
何故?心臓が音を立てる?今までどんな美女と床を共にしてもそんなことはなかった。なのに…。よりにもよって絳攸?そりゃ、整った顔立ちはしているが紛れも無く自分と同じ男だ。18歳で国試に受かった時から…文官を辞めて一時は離れることになったけれど、同時に花を受けて……共に居た。親友だと自分は本気で思った。今でも思っている。
鍛錬を怠っていたからでもなく、気を抜いていたのは相手が絳攸だからだ。そこまで自分は李絳攸という人物に気を許していたのだ。藍家の直系として生きてきた今までそんな経験はなかった。某国王ではないが、毒を盛られそうになったことだって一度や二度ではない。大概自分に近寄って来る者は自分を害そうとするか、家の威光を笠に着ようとする者だった。そんな思惑とは無縁に傍に居れたのは三兄と弟の龍蓮だけだった。
李絳攸は自分を上回る程の頭脳を持っているくせに、歩いて30歩のところで迷う天才的方向音痴。自分では「鉄壁の理性」を自負していても本当はすぐキレることも知ってる。学問には努力を惜しまないことも、それ以外に関しては不器用なことも。女性が嫌いなところも。…養い親を何よりも大事に思っていることも。知ってる。全部。
よりにもよって、じゃない。「絳攸だから」だ。
頑固で、真面目で、厳しくて、暴力的で、照れ屋で、つれなくて、純粋で、真直ぐで、ひたむきで……優しくて。
そんなところが…誰より―――――
いつの間にか手に入れていた力が抜けて、重力に従って絳攸がゆっくりと落ちてくる。吸い込まれそうな硝子玉がその速度に合わせる様に閉じられる。
無意識に楸瑛は瞳を閉じた。絳攸の顔がそっと近づいてくるのが気配で判る。
絳攸の唇が楸瑛のそれと重なる…………寸前で
くぅー。
聞こえたのは寝息。口元には絳攸の髪が当たって擽ったい。
絳攸の唇は直前で方向転換をしたようだ。こんなところでも方向音…いいや、なんでもない。
「……………絳攸、それはないんじゃないかい?」
思わず漏れた、拗ねた様な口調にも答える人は無し。
自分の耳の横で寝息を立て始めた友人をそっと降ろす。絳攸の髪を覆っている巾を外してやると、楸瑛は少し癖のある、自分より色素の薄い髪をそっと撫ぜた。
―――全く、人をその気にさせておいて。
ごく自然に湧いた言葉に楸瑛自身が驚いた。
―――本当に恐い。
知らず知らず浮かんだのは、苦笑い。
気付きたくない自分の気持ちに気付かされた。……いや、違う。本当は気付いていたんだ。ただ恐かった。自分が一人の人間に本気になるなんて。
目の前ではこちらの事情など露とも知らず、無防備にも眠り続ける親友の姿。
その髪に指を絡ませる。
はらっと髪の一房が落ちる。
再び髪の一房を掬い取って絡ませる。
その行為を何度か繰り返していると、楸瑛はある悪戯を思い付いて、意地悪く微笑んだ。
「…うわゎゎゎぁぁぁぁ!!!」
楸瑛は絳攸の朝一番の叫び声と共に目を覚ました。
「ぐっ!」
自分の声が二日酔いの頭に響いたのだろう。頭を押さえる。
「朝から元気だね、絳攸」
「し、楸瑛…な、なんでお前がここに」
「なんでって、ここは私の邸だから」
「そ、そうではなくて…なぜ俺の隣で寝ている?しかも…」
絳攸はどこか危機迫る顔で、ほとんど裸同然で夜着一枚しか身につけていない自分と隣にいる腐れ縁の人物を交互に見た。
楸瑛は妖艶な笑みを浮かべて起き上がった。夜着が肌蹴てものすごい色気を醸し出している。世の大抵の女性は彼の虜になってしまうだろう。しかし、如何せん相手は男。李絳攸である。
「君から誘ってきたのに酷い言種だね、絳攸」
「――っ!!」
あまりの衝撃的発言に言葉も出ないらしい。口を魚のようにパクパクさせている。楸瑛は内心で爆笑寸前なのを隠して、切なげな表情を浮かべる。
「あんなに激しい夜だったのに、憶えていないなんて私は哀しいよ」
「う、うううう嘘を吐くな!!!そそんな訳は…ぐっ!」
興奮したせいでまた頭に痛みが走ったのだろう。
「飲み過ぎるからだよ。今、水と薬を持ってくるよ」
寝台から降りて部屋を出て行こうとしたが、ふと思い出して絳攸の元へ戻る。
「そういえば、朝の挨拶がまだだったね」
「は?」
「おはよう、愛しい人」
絳攸の前髪をそっと掬い上げて、その下に口付けを落とす。
一瞬何が起こったか理解できなかった絳攸は、慌てて左手で額を押さえもう片方の手で楸瑛に殴りかかろうとするが、するりとかわされる。
「楸瑛!!貴様ぁ!!!!!…っ!」
楸瑛はそんな絳攸の様子にくすくす笑いながら室を後にした。当分はこのネタで彼をからかうことができそうだ。
―――君が悪いんだよ。折角気付かない振りをしてきたのに…。
彼の養い親も相当歪んだ愛情表現しかできないようだが、私も人のことを言えないな。
顔を染って怒ってくる絳攸の先ほどの表情を思い浮かべて、楸瑛はこっそり微笑んだ。
―――嗚呼、なんて可愛いんだろう。
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始まりましたね。楸瑛の片想いが…(笑)そして私の双花漬けの日々が…(汗)
2006/12/1