パパと息子の7日間I
「普通!気付くだろっっっどうあっても!!!」
不本意にも養い親・紅黎深の姿になってしまった李絳攸は、筆を盛大に硯の中へと押し付けた。びちゃっと墨が飛んだが、そんなものは彼の目に入っていなかった。
「何が『あの、何か?』だ!ふざけんなっ!」
昨日の事を思い出し、絳攸は怒りのままに叫んだ。
握る手に力が入りすぎて筆がびしっと音を立てるが、それも彼の耳に入ってこなかった。
「百合様も邵可様も直ぐに気付いただろうがっ!何故あの阿呆は気付かない!俺と黎深様なんてどこもかしこも違うだろ!?」
そこまで怒鳴って絳攸はぜーぜーと肩で息をした。
そして、ふと絳攸はここが吏部尚書室で、今目の前にある書翰が最重要級に大事なものであることを思い出す。
どんなに大声を出して怒鳴ったところで室には絳攸一人だったが、絳攸は声を潜めた。
「もう四日だぞ、四日…」
自分の体が黎深と入れ替わって、今日でもう四日目だ。
その四日を振り返って絳攸は本気で落ち込んだ。
百合様には泣かれるし、黎深様は他人事だし、仕事は山積みだし、あの馬鹿は全く気付いていないしっ!!
しかも今もって、全く元の姿に戻る気配もない。
どうしようか、もし本当にこのまま元の姿に戻れなかったら…。自分は残りの人生を紅黎深として生きていくしかない…。
絳攸は自分の想像に心底ぞっとした。
嫌だ!それだけは嫌だっ!!!そんな度胸、自分にはない!
黎深のことを敬愛はしていても、それとこれとは話が全く違う。
絳攸は頭を抱えた。
そして、数拍後。
「…とりあえず、この書簡は、と」
絳攸は放り出した筆を取って、仕事を再開した。
どこまでも真面目な男である。
そんな彼の様子を扉の影からそっと見詰ている者が居た。
「どうだ?」
廊下に居る一人が問えば、室内を覗いていた者が顔を引っ込め、首を振る。
「駄目だ、仕事をしているぞ」
その答えに廊下に居た残りの者達は項垂れた。
「一体どうなっているんだ、うちの上司は…」
尚書室の前に集まった吏部官達は天を仰いだ。
彼らの目の前の室中では、彼らの上司が猛然と仕事をしている。
しかも昨日も一昨日もである。一日だけなら奇跡と割り切ることが出来る。
しかし三日続けてとなれば尚書が可笑しくなったとしか思えない。
時々ふらっと室を出たまましばらく戻って来ないことはあったが、それでも室にいる間は書翰を処理し続けている。
彼らは軽く目配せをし、意を決したように尚書室の扉を開いた。
「あ、あの尚書、大丈夫ですか…?」
その声に彼らの上司は顔を上げた。
「ああ、大丈夫だ。今のうちに終わらせられるものはやっておくぞ」
その耳を疑うような爽やかすぎる台詞に、吏部官達は大いに慄いた。
「い、いや!やはりどこか身体の具合が悪いのですよ」
「そうですよ!」
「後は我々がやっておきますから、どうぞ体を休めて下さい」
吏部官達は今だかつて無い様子の上司に詰め寄った。
「何を言う。お前達はもう何日も邸へ帰れてないだろう」
「や、そんなのいつものことですから」
「そうですよ」
「尚書が気にすることじゃありません」
尚書が仕事をしない所為で連日による徹夜なのに、可笑しなことを言っているとはその場の誰も思わなかった。不思議にも。
しかしその部下達の言葉に、彼らの上司は痛ましそうに顔を歪めた。
「…すまない。私が不甲斐無いばかりに」
「「「えええ!?!?!?」」」
尚書が謝った!
その衝撃な事実にある者は床に、ある者は柱に、ある者は机に自らの頭を打ち付けた。
「お、おいどうした?大丈夫か…?」
絳攸が部下のあまりの奇行に声を掛けるも、絳攸を本物の黎深だと思っている吏部官達には届いていなかった。
がばっと起き上がった彼らは爛々と血走った目をして叫んだ。
「ぐをぉぉぉ!痛い!!」
「痛いということは、今のは幻聴ではない!」
「これは我らの妄想でもないぞ!!」
「きっと呪いが解けたのだ!」
「尚書は生まれ変わったのだ!」
「万歳!!!」
仕事をしない鬼畜鬼上司よ、さらば永遠に。
吏部官達は涙を流しながら尚書に押し寄せその手をとり、こう誓った。
「「「尚書に一生付いてゆきます!!」」」
この言葉を彼らは後に、死ぬほど後悔することになるのだが、それはまた別の話である。
パパと息子の7日間J
その頃、自分の知らないところで部下の一生を握ってしまった吏部尚書は回廊を渡っていた。
「君も少しは絳攸殿を見習って仕事してきたらどうなんだい」と邵可に府庫を追い出されたのだ。
そこで黎深は帰ろうか、秀麗の様子を見に行こうか悩んだ。彼の選択肢の中に『仕事』の文字は存在しない。いや、可愛い姪を見守り、悪い虫から守ることこそが自分の仕事と考えた彼は、秀麗の様子を窺うべく御史台へと向かった。
…人はそれをストーカーという。
他の吏部官達が仕事をする尚書という奇跡に浮かれている間、珀明は尊敬してやまない侍郎を探していた。
出仕はしているらしいのに、どうも最近姿を見掛けないのだ。
処理済の書翰を届けに行く用事が出来たので、これ幸いと珀明は永遠に終わりのやってこない仕事に囲まれた吏部を抜け出し、絳攸を探す。
府庫の仮眠室も覗いてみたが、そこにも彼の姿はなかった。
府庫を出て、珀明がきょろきょろと辺りを見回すと、回廊の端で一瞬、探し人らしき人影を捉えた。
「あ!」
あの衣の端は間違いない!
あの衣には端からも着る者の高貴さが漂っている…ように珀明には思えた。
伊達に芸能一族・碧家に育っていない。目だけは自信がある。
珀明は急いで人影があった辺りへと駆けた。
「絳攸様っ!」
声を掛けられた人物がゆっくりと振り返る。
ここへきて珀明は声を掛けたはいいが、仕事をサボって探していたことがバレては不味いことに気付き、慌てた。
「あ、あのっ私は今、先輩に頼まれた書翰を届け終わったところでして、あのっ絳攸様はどちらまで行かれるのですか?もしお手伝いすることがあれば…」
回廊で会えば、よく行き先を聞かれ、手伝いを頼まれたり、用事を言われることが多いのでついそんな言葉で誤魔化す。
「…手伝い」
絳攸が呟いた。
「あ、はい!何でもお申しつけ下さい」
ふむ、というように少しの間が空く。その間を珀明は息を詰めて待った。
「では、私はこれから秀麗に会いに行くので、その供をしろ」
「…はい?」
珀明は自分の耳を疑った。
秀麗?秀麗ってあの紅秀麗だよな?なんで??
しかし絳攸には珀明の困惑は全く伝わらなかったようで、珀明がその言葉の意味を理解する前に歩き出してしまった。
「こっ絳攸様!待って下さい!!」
珀明は慌てて絳攸の後を追った。
それまで足早の絳攸の後を必死に追っていた珀明だったが、辿り着いた場所に思わず足を止めた。
「………絳攸様」
珀明は前を行く絳攸を不安気に呼んだ。
紅秀麗が御史台にいることは知っていたが、だが吏部にとって御史台は鬼門のようなものだ。
「別に帰ってもいいぞ」
振り返りもしない絳攸のその言葉に珀明は心を決めた。
「いえ、帰りません」
自分はこの人にどこまでもついて行くと決めたのだ。
その時、前からこちらに向かって歩いてくる人物がいた。それはこの外朝でただ一人の女性・紅秀麗だった。
「絳攸様!」
珍しい人物を見つけた秀麗は声をあげ、その横にいる人物に目を丸くする。
「珀明まで!どうしたの?」
「あ、いや…俺は絳攸様のお供で…」
珀明はなんと言ったらよいか分からず、口ごもる。
「お供?」
秀麗が首を傾げた時、珀明の耳は己の前方にいる人物の上ずった声を聞いた。
「しゅしゅ、秀麗ぃぃ!!」
「ど、どうしたんですか、絳攸様!?」
秀麗は目を瞠る。赤い顔をして、だらだら汗を流している絳攸なんて見たことがない。
「本日はお日柄もよく…」
秀麗は庭院を眺めた。今日は曇りだ。
「秀麗におかれましては、きょ、今日も大変かっか、可愛らしく…」
「絳攸様、あの、本当にどうされたんですか?」
どうしよう、ついに仕事のしすぎで絳攸様が可笑しくなってしまわれたんだわ、と秀麗は心配になった。
「じっ実は、今日は、ですねっ」
しゃべり方も可笑しい。
「秀麗にお聞きしたことがあ、ありまして!」
「私にですか?」
絳攸は言いにくそうに、もじもじしていた。
「しゅ、秀麗は…わっ私のことを、その、どう思うかね?」
「え」
秀麗は数回瞬きを繰り返した。
「すすすすす、好き、か、ね?」
「えええええええええぇぇぇぇぇ!!!」
その絶叫が秀麗の声ではなく、すっかりその存在を忘れていた珀明のものだった為、絳攸(中身は黎深)は殺気をにじませた目で左後方を睨んだ。
それに気付いた珀明は慌てて口を押さえた。
「しゅ、秀麗?」
絳攸は持っていた扇を弄りながら上目遣いで訊いてきた。
「それは…もちろん、す、好きですよ?尊敬してますもの」
困った秀麗は、それでも本心を告げた。
好きか嫌いかを問われればもちろん好きだ。そう言った意味での答えだったわけだが、その瞬間の絳攸の顔を秀麗はきっと一生忘れない…いや、違う。今すぐ忘れなくてはいけない判断した。
「あ、あのそれじゃ、私はこれで失礼しますっ」
秀麗は礼をとって慌てて行ってしまった。本能的にこれ以上は危険だと察したのだ。
その後姿を見詰め、見えなくなるまで手を振り続けた絳攸は、その後鼻歌を口ずさみながらどこかへ行ってしまった。
一人残された珀明は呆然とその場に立ち尽くした。
何だったんだ…今僕が見たものは。
…いや!僕は何も見ていないっ!!幻覚だ!幻覚!!きっと疲れているんだ!
たった今見た絳攸の姿は忘れようと思った。自分の為にも絳攸の為にも。
珀明はそう心に誓った。
パパと息子の7日間K
黎深(外見は絳攸)は足元を弾ませながら鼻歌を歌いながら廊下を歩いていた。
碧珀明を置き去りにしてきたことはおろか、「仕事」という言葉はもうすっかり忘却の彼方だ。
秀麗の元気な様子も見たし、笑顔ももらったし、「好き」の言葉までもらった。もう今日は外朝にいる意味はない。
「私はもう帰る」
「へ?」
尚書室を訪れ、告げると養い子は筆を握ったまま素っ頓狂な声をあげた。
「なっ!?帰るって…」
「兄上にもお会いしたし、秀麗にも会った。今日の用事は終わった」
「いや、あんた職場をなんだと思ってるんですか。仕事してくださいよ」と思ったがやはり言えない、絳攸。
それよりも、聞き捨てならないのは…
「秀麗に会ったんですか!?その姿で!?」
「ああ」
「な、なにかおかしなこと言ったり、怪しい行動はとっていませんよね!?」
今後の師弟関係にヒビがはいるような事態になっては困る。
そう心配した絳攸を前に黎深の顔(顔は絳攸のものなのだが)が崩れる。
でれっと。
うわぁ…
絳攸は生まれて初めて自分の顔にドン引きした。
「失礼なことを言うな」
「…はぁ」
あんな顔を見てしまった以上何を聞いても説得力などない。
何があったのか聞かなくてはならないような気がしたが、聞く勇気を持てない。絳攸は問い詰めることを諦めてしまった。これ以上は精神的によくない。
「…それはもういいんですが」
絳攸は自分を落ち着ける為に一旦言葉を切った。
「本当に帰るんですか?」
「まだこんなにも日が高いうちに」と言外ににおわせても、まぁ無駄なことなど百も承知だ。
もちろん黎深には「帰る」という選択肢しかない。
「明日の準備もあるしな」
黎深のその言葉に絳攸は首をかしげた。
「明日?何かあるんですか?」
その問いに対して黎深は一拍の間の後、にたりと笑った。
「…いや?」
絳攸にとって自分の顔のはずなのに、それは確かに不吉な笑みだった。
「何!?絳攸は出仕しているのか!?」
劉輝はバンと机案を叩いた。書簡の山が少し揺れる。
「らしいですね」
揺れる山を見上げながら、楸瑛は返事をした。
「らしい…ということはまだ会ってはおらぬのか?」
劉輝は不思議そうに首を傾げた。
「あの楸瑛が?」と言わんばかりの顔だ。
「ええ」
楸瑛は苦笑いで本当に不思議そうにしている王へ返事を返した。
確かに自分でも意外だ。
出仕しているということは腹を下していないのか、それとも渡した薬が効果あったのか、それとも病気をおしての出仕なのか…どれにしても朝一番に絳攸の様子を伺いに行くべきだ。
いや、普段の自分ならそうしただろう。
でも…なぜだろう。
自分の足は吏部へと向かわなかった。
己の気持ちの変化?絳攸のことが嫌いになった?
いや、そんなことではない。
変わったとしたらそれは…私ではなく。
昨日の絳攸の目。
だってあれじゃあ、まるで…
楸瑛は頭に浮かんだ言葉を無理矢理かき消した。
そんな馬鹿なことがあってたまるか。
それとも、子供と言うのはある日突然親に似てくるものなのだろうか。
楸瑛は頭が痛くなってきた。
その後、楸瑛は己を無理やり奮い立たせて吏部へと向かった。こんなことで気持ちが揺らぐような片思い歴ではない。
しかし、侍郎室に辿り着く前に遭遇した人物に楸瑛の気持ちは揺らぎそうになった。
「こ、これは紅尚書」
しっかりと目が合ってしまった手前、見て見ぬ振りも、素通りもできるはずもなく楸瑛は黎深へと頭を下げた。
「…ああ」
また嫌味の一つや二つや三つでも浴びせられるかと構える楸瑛とは対照的に、黎深からはまるで覇気が感じられなかった。
だからだろうか、普段だったらそんなこと訊く気になどならなかったのに楸瑛から思わず言葉が漏れた。
「どうか、されたのですか?」
黎深が少し驚いたように目を向ける。
「…いや」
「…絳攸は侍郎室ですか?」
恐る恐る訊いてみた。
「…帰った」
「え、帰った?」
あの仕事の鬼の絳攸が早退?
やはりお腹の調子が…と楸瑛が思っていると、やはり覇気も殺気も全く感じられない黎深の言葉が続く。
「なんでも明日の準備があるとかなんとか言っていた」
「明日の準備…」
小さく呟いて、ふと気づく。
明日って私と会う約束だよね?え、だから?まさかその為に早退しておめかしを?
一瞬そんなことを考えて楸瑛だったが、即刻首を横に振った。
いや!断じてありえない!!
悲しいかな、楸瑛は伊達に何年も絳攸を見てきていない。
ぐるぐる思考をめぐらせていた楸瑛をよそに黎深は小さく息を吐き出した。
「…もう用は済んだだろう、さっさと行け」
それは願ってもないことなので、そうそうに退散しようと楸瑛は考えこんでいた顔を上げた。
その時に映った顔が、なぜだろう。
その表情が。彼だと、思ってしまった。
道に迷って途方にくれたような、そんな…
「絳攸…」
ごく小さな呟きは黎深には届かなかった。
「何か言ったか?」
「…いえ、なんでもありません」
楸瑛はほんの僅かに浮上した疑惑を、頭を下げて退室の意を取ることで打ち消した。
そう、そんな馬鹿なことがあるわけない。
*************
こんな年単位で放置しているサイトに足を運んでくださり、読んでくださり、ありがとうございます。
待っていてくださった方がいらっしゃったら…本当に私は幸せ者です。
彩雲国、双花大好きです。
さて、明日の楸瑛の運命は?笑
12/5/3 収納