パパと息子の7日間F




入れ替わり3日目―――この日も絳攸は心労と寝不足で疲れ果てていた。
夜を徹した必死の説得により、百合に谷に落とされることだけは何とか免れたが、現状は全く変化がない。
よよと泣き崩れて床に伏した百合のことは気がかりだったが、自分が近くに居ても百合の為にならないのではないかと、絳攸は後ろ髪を引かれる思いで出仕した。
気がかりなことはもう一つあったからだ。

「吏部は私が何とかしますから、黎深様は主上の執務室に行って下さい」
自分の姿をした養い親が王やあの男と接触することは出来れば避けたかったが、そうも言っていられない。
そう何日も執務室に行かないのでは、いらぬ噂を立てられかねない。噂はいつどこでどんな尾ひれが付くか解らない。
しかし、素直に言うことを聞いてくれる養い親ではもちろんなかった。
「何故私があの洟垂れの面倒などみなければならんのだ」
おそらく府庫に向かうつもりだったのだろう。
ふんふんと鼻歌交じりで歩いて行く己の姿に、絳攸は最後の切り札を使うことにした。
「…秀麗に名乗りますよ?」
案の定、彼はぴたっと足を止めた。
「今…何と言った?」
「しゅ・う・れ・い・に名乗りますよ?」
「誰が?」
「私が」
「………………………」
「いいんですか?貴方がもう何年も、ずーと言えずにいたことを私がさらっと言ってしまって」
黎深はその頭を全力で回転させた。
私の代わりに秀麗に名乗る?陰からそっと見守り、秀麗が官吏になってからは偶然を装い優しく親切な素敵なおじさんとしてそっと近づいてきた私の代わりに?
そんなことが許されるものか!
いや、待てよ。もしもしもし「叔父様なんてきら―い!」的な展開になった場合はそれを言われるのは自分ではないほうが心の傷は浅いのではないだろうか?
その思考を読み取った史上最年少国試主席及第という経歴を持つ彼は、にっこりと笑った。
「でもですね。そうなった場合、仮に元の姿に戻れても秀麗に近付くことは出来なくなってしまいますね」
「それに」と絳攸は続けた。
「もしかしたら、感動の対面となるかもしれないのに。その瞬間に立ち会わないなんて、」
その言葉を最後まで聞かずに執務室に向かって去って行く養い親に、絳攸は深い深い溜息を吐いた。
今日は迷わず尚書室に辿り着けるといいな、と思った。

執務室に入ってきた人物を楸瑛は微笑んで迎えた。
「絳攸。今日は迷わなかったんだね」
しかし、いつもなら「煩いっ」と顔を赤らめながら反論する筈の彼は何も言わずに、どかっと椅子に座った。
そしておもむろに懐から扇子を取り出して、パタパタとやる気無さ気に扇いだ。
「えーと、絳攸?」
返事は無い。
「本当にどうしたのだ、絳攸は?」
劉輝も首を傾げる。
「何か変な物でも食べたのか?そういう時はだな、余にいい考えがあるぞ」
「…この洟垂れがっ」
得意満面で語ろうとした劉輝に、地獄から這い出たような声が聴こえた。
「黙って手を動かせ」
「ひぃっ!ごめんなさいなのだっ」
本当に人一人位なら視線で殺せそうな目で睨まれて、劉輝は飛び上がった。
劉輝はバクバクと煩い心臓を何とか抑えながら、目の前の書翰に向き合った。
しかし重く重く立ち込めた室の空気に書翰の内容がさっぱりと頭に入らない。
劉輝はちらっと絳攸の姿を盗み見た。
黙って手を動かせと言った割には、自らは仕事をする気は無いようで、明後日の方を向いて、やはりやる気無く扇子を扇いでいた。
絳攸がっ!あの絳攸がグレたのだ!!
劉輝は視線だけを素早く室に居るもう一人の人物へと投げかけた。
「(楸瑛!助けてくれっ!このままでは余はこの空気の重さで圧死するっ!!!)」
劉輝は必死に目で訴えた。
楸瑛は王の血走った目を受け止めてにこりと微笑んだ。
「主上、私はこれらの書物を府庫に返して参りますね」
机案にある数冊の書を指して言う臣下に王は驚愕した。
「んなっ楸瑛の薄情者ぉ!裏切り者!一人で逃げる気かっ!!余を絳攸と二人にしないでくれっ!本なら余が、」
「私が行こう」
「「え、」」
涙を滲ませて訴える劉輝とそれを宥めすかそうとした楸瑛の間を縫って、絳攸はその書物達を抱えて出て行ってしまった。
室に沈黙がおりる。
「「……………………」」
最初に口をきったのは王だった。
「しゅーえー!!どどどうしたのだ、絳攸は!?」
王はもう一人の側近に泣きついた。
「知りませんよ!」
楸瑛は少々自棄になって声を荒げた。
「恐いのだ、恐いのだ!!余は絳攸に殺されるかと思ったのだっ」
「確かに今日の絳攸からは殺気を感じます」
楸瑛は腕を組んだ。
絳攸はいつも怒って怒鳴っているが、その裏には隠しようのない愛情が感じとれた。しかし今日の絳攸は本気で殺る気だった。
あの殺気は只者ではない。羽林軍の者だってそうそうあんな殺気を飛ばす者は居ない。
「大体あの扇子は何なのだ!?まるで誰かさんのようではないか!」
「うーん、つっこんだ方が良かったんじゃないですか?」
「いやっ今日の絳攸はつっこみをいれた時点で殺されそうだ。余はまだ死にたくない」
劉輝が「秀麗と再婚するまでは」と言おうとすると、嫌に真剣な顔で楸瑛は頷いた。
「同感です、主上。私もまだ死にたくありません」
「な、楸瑛は余の護衛が仕事だろうっ!?」
「ええ。ですが、私の理想の死にかたは絳攸の上で腹上死ですから」
「うううううなんて臣下だ」
色んな意味で信じられないことをきっぱりと言い切った近衛将軍に王は涙を流した。








パパと息子の7日間G



「お前は何をここでサボっている」
執務室にあった書物を手に黎深(見た目は絳攸)は府庫にて言い放つ。
それに(見た目は黎深)はひくっと喉を引きつらせた。
「な、貴方こそ何やってるんですか!あれほど主上のところに行って下さいと、」
「だから行ってきたんだろう。お前じゃあるまいし迷ったわけではない。安心しろ」
「安心できるわけないでしょっ!」という養い子の叫びなど黎深には全く聴こえない。
「しかもこの私が使い走りのような真似までしているのだ。感謝したまえ」
「…………どうも有難う御座います」
使い走りするのはその場所が府庫だからに違いないのだが、言い返すほど絳攸は馬鹿ではなかった。
「お前こそ仕事はどうした。尚書室まで辿り着けなかったか」
「そ、それは」
言いよどむ絳攸に仏のような声が割り込んだ。
「絳攸殿は私がお呼びしたんだよ」
奥から現れた邵可はそう言うと、絳攸へ向かって微笑んだ。
「有難う御座います、邵可様!!」と、実際は尚書室へ向かおうとして迷っていたところを邵可に保護された絳攸は心の中で頭を下げた。
「ほら、黎深。君も座りなさい」
邵可の言葉に黎深の…いや、絳攸の顔がぱぁーと明るくなる。
「はいっ兄上っ!」
何度見てもそのデレデレとした己の顔は…見慣れない。はっきり言って気味が悪い、と絳攸は思った。
「絳攸殿にも言ったんだけれどね。君達が『入れ替わった』ってことは間違いないし、やはりそれには何かしらの原因があるわけだね」
邵可の真剣な表情に、黎深は頷く。
「君達の入れ替わった時の状況を詳しく教えてくれないかい?」


「…そうですか。やはり階から落ちた衝撃が何か関係しているのかもしれませんね」
「というと…やはりまた落ちなくては元に戻れないんでしょうか?」
問う絳攸に、邵可は言いにくそうに答える。
「可能性としては高いかもしれません」
絳攸の頭には昨晩危うく百合に落とされそうになった谷が思い浮ぶが、慌ててそれを振り払う。
あれでは元に戻る前に死んでしまう。
「けれど、打ち所が悪かったら一大事ですからね。慎重に考えましょう」
絳攸は優しく微笑んでくれる邵可に感動した。
「邵可様…」
「昨日探した限りではそれらしい文献が見付からず、お役に立てなくてすみません」
「いえっそんな」
慌てて絳攸は顔の手を振ったが、その隣でガタンと黎深が立ち上がった。
「兄上が謝る必要など微塵もありません!私は兄上が気に掛けて下さるならこのままの姿でも一向に構いません!!」
「え!?れ、黎深様!!何てことをおっしゃるんですか!?」
そんな理由で一生元の姿に戻れなかったら死んでも死にきれない絳攸は、その言葉に驚愕した。
「そうだよ、黎深。君が困らなくても絳攸殿は困るんだよ」
邵可が窘めれば「兄上に心配されおってっ」と絳攸は自分の瞳に睨まれた。


「せめてお茶でも飲んで心を安らげて下さい」
邵可はお茶の準備をする為に再び奥へと姿を消した。
「いえ、そのお茶は少しも安らげません!」とはもちろん言える筈もなく、絳攸はぐったりとしていた。この三日で随分と年を取った気がする。
なんとなく黎深の方に視線を向けた絳攸は、黎深が手に持つ物に気付いた。
「あの、黎深様」
「何だ」
「その扇子はずっとお持ちなんですか?」
「ああ。それが?」
「…………………いえ。あの、それで、主上と…しゅ、藍将軍の様子は、」
黎深の行動について深く考えまいと思うものの、どうしてもそれだけは気になった。
「全く気付いた様子はないな」
「え、」
きっぱりはっきり言い切られて絳攸は軽く固まった。
「所詮、あいつらにはお前の変化などわからないのだろう」
「こら、黎深。なんてこと言うんだい」
いつの間にか戻ってきた邵可はべっしと弟の頭を叩く。
しかし、その頭の持ち主が本来は誰か気付いた邵可は謝った。
「すみません、絳攸殿」
「い、いえ」
ややこしいこと限りない。
「どうぞ」
「あ、有難う…御座います」
絳攸は差し出されたその茶を見詰た。そして慎重に一口啜る。
「……………………………」
絳攸はふっと軽く微笑んだ。
本当は、もしかしたら、この人は味覚に問題があるのではと疑っていたことを謝ろう。
自分が飲んだ時と変わらぬ苦さだ。
心身共に疲れきった自分にはなんとも辛い。
「兄上っ!すごく美味しいです!!」
隣では黎深がもう既に一杯目を飲干してお代わりをせがんでいた。
…この人の兄への愛は本物だ。絳攸は心の中で涙を流した。


その頃、執務室では王から内命を受けた楸瑛が戻って来ていた。
「大変です、主上!」
室の中を行ったり来たりしていた劉輝は、楸瑛にがばっと飛びついた。
「どうだったのだ!?」
「吏部へ行ってみたのですが、なんと黎深殿が仕事をしたらしいのですよ!」
「なに!?あの黎深がか!?」
「ええ。やはり可笑しいですよね…」
楸瑛は腕を組んだ。
劉輝もふーむ、と唸る。
「先ほどの絳攸といい、仕事をする黎深といい…可笑しいな」
「しかもですね。これは、とある筋から入った情報なんですが」
「何だ?」
「黎深殿の奥方の百合姫も実は寝込んでいるらしいのです」
とある筋ってどこだ、というツッコミ存在しない。
「奥方がか?…それは」
「ええ、これは、」
劉輝と楸瑛は顔を見合わせた。
「「紅家で食中毒」」
声が揃った。
「き、きっと絳攸はものすっごくお腹が痛かったのだっ」
「そ、そうですよ!きっと」
自分達に言い聞かせるように二人は強く頷いた。
「陶老師を呼ぶのだっ!薬を調合してもらおう!」
「御意」
「薬を渡したら、今日はもう帰った方がよいな。うむ、余は一人でも頑張れるぞ。なんて臣下思いの王だろう」
王は一人でうんうんと頷いた。
「楸瑛。今日はもう早退するように絳攸に伝えてくれ」
「え、」
劉輝はがしりと近衛将軍の肩を掴んだ。
「伝えてくれ」
「………御意」
今日はなんだか絳攸に会いたくないな、と初めて思った楸瑛だった。







パパと息子の7日間H



府庫に行ったきり戻って来ない絳攸を楸瑛は探していた。
「ここにも居ないか…」
府庫へと向かう道すがら、絳攸が迷い込みそうなところを覗いていく。しかし、そのどこにも絳攸の姿はなかった。
楸瑛は軽く頭を掻いた。
どうせいつもの通り迷っているのだろうが、先程の様子がいつもと違うこともあって、どうにも調子が狂う。
絳攸の本来の目的地である府庫が間近に迫った頃、楸瑛は話し声が耳に入って足を止めた。
回廊の向こう側に探し人は居た。
そして、もう一人。
その姿を認めた楸瑛は回れ右しかけた足をどうにか留まらせることに成功した。
藍楸瑛にとって出来れば会いたくない人物というのは少なくとも五人は存在する。例えば、体がなまっている宋太傳に喧嘩中の両大将軍に笑顔の静蘭。そして、紅黎深。
武官と文官であれば毎日顔を合わせる心配こそないが、それでも長年彼の大事な養い子の周りをうろちょろしていれば嫌でも会うことになる。
今のところ命に別状はないが、好かれていないことだけは確かだ。もっともそれは自分の所為だけでなく、兄達の所為でもあると思う。いや、確実に兄達の所為だ。兄達が藍州から邵可様に贈り物や文を送った翌日にうっかり鉢合わせた日には…殺気の宿った視線と呪いのような言葉がもれなくついてくる。どう考えても理不尽だ。
楸瑛が遠い藍州にいる兄達に恨み言を言いたい気分でいると、どうやら話を終えたらしいその人物がこちらに歩いてきた。
よくよく眺めていると、その足取りが心なしかよろよろとしている。「やはり食中毒が」と楸瑛が思っていると、その人物がふとこちらに視線を寄越した。何故か、酷く驚いた顔をされたことに内心首を傾げる。
目の前まで来た彼に道を譲る為、楸瑛は脇に避け頭を垂れた。
楸瑛は視線を落としてコツコツという沓の音を聴いていたが、ふいにその音が途切れる。楸瑛の真横を通るその時、彼の足が止まった。
「何か嫌味でも言われるのだろうか」と楸瑛はふと、顔を上げる。
「…………あの、…何か?」
しかし黎深は楸瑛と目を合わせるわけでもなく、何も言葉を発せずにそのまま歩いて行ってしまった。


楸瑛が黎深の様子に首を傾げている頃、絳攸の姿をした黎深はその様子を回廊の向こう側から眺めていた。
黎深は右に曲がれと言ったにも関わらず、よろよろとまっすぐ歩いていく養い子の…いや、自分の背中を見やり自前の扇子で口元を覆った。
あの様子…。
黎深は軽く息を吐いて眉を顰めた。
そんなにあやつらに気付かれなかったことが落ち込むようことなのか。全くこれしきのことで、と自分のことは棚に上げて黎深は思った。
『所詮、あいつらにはお前の変化などわからないのだろう』
原因の半分は自分にあることに全く気付いていない黎深であった。


「絳攸」
自分に駆け寄ってきた男を見て、いつ見ても目障りな顔だと黎深は思う。
「大丈夫だったかい?ごめんね、体調が悪いとは知らなくて」
心配そうに覗き込むその顔が嫌味な三つ子の顔を思い出させて、黎深は不愉快になる。
「主上がもう今日は帰っていいって」
楸瑛の言葉を完全に聞き流していた黎深だったが、その言葉だけは違った。
仕事をする気もないが出仕をしないと絳攸が煩い。しかし帰宅許可が出たのなら帰っても問題あるまい。これ幸いと黎深はまだ日が高い内から帰る気満々になった。
絳攸のあの様子では尚書室までに辿り着くまでに時間が掛かるだろうが、日が暮れたら迎えを寄越せばいいだろう。まったく、世話が焼ける。迷ったら人に道を聞けといつも言っているのに、と黎深は絳攸が今どんな姿で道に迷っているか全く考えもせずに思った。

「ちょ、待って絳攸」
早速帰宅の途に就こうとした黎深を楸瑛は慌てて引き止めた。
「これ、主上が陶老師に頼んで調合してもらったものだから」
そう言って、楸瑛は懐から袋に入った大量の薬を取り出した。
「これが腹痛の薬で、解熱鎮痛剤。あとこっちが下痢止め。体力増幅剤と精神安定剤」
次から次へと出てくるそれらを黎深は冷ややかな目で見下ろした。
「百合姫と黎深殿の分もあるから」
「いらん」
「そんなこと言わずに。食中毒なんでしょ?」
「…………」
「お大事にね」
そう言って、楸瑛は無理矢理その薬袋を握らせた。
本気で今殺ってしまおうかと黎深が思い始めた時、楸瑛は「ところで」と切り出した。
「明後日の約束だけど、覚えてる?」
「……………………明後日?」
黎深は注意深げに呟いた。
「あ〜、やっぱり忘れてたか」
楸瑛は内心で落ち込みながら、「最近特に忙しかったし、今日は体調が悪いから仕方ないよね」と口に出して言い、自身をも納得させた。そういうことにしておきたい。
「久方ぶりの公休日だろ?一緒に食事をしようって言ったじゃないか。丁度美味しい店を見付けたんだ。君も欲しい本があるって言っていたからその後にでもって」
説明をしている内になんだか悲しくなってきた楸瑛だったが、絳攸からの反応は無い。
「絳攸?思い出した?」
無理矢理笑顔を作って首を傾げて問うが、絳攸は自分の思考に沈んでいるようだった。
「明後日じゃ体の調子がまだ悪いかな?それとも都合が悪いのかい?」
諦めかけて訊けば、ふいに反応が返ってきた。
「…いや、好都合だ」
「え」
絳攸はにっこりと笑った。
楸瑛は予想外の反応に驚く。
「楽しみにしておこう」
それは滅多に見れない絳攸の笑顔だった。
常なら喜ぶべきその笑顔が何故だろう。とてもとても不吉というか、寒気を呼ぶ。きっと気のせいだ、気のせい、と楸瑛は無理矢理自分に言い聞かせ、ちゃんと軒宿りに向かって歩いて行く絳攸の背を見送った。












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元将軍?生涯の忠誠?何それ??でお送りしてます。
楸瑛は何だか危険を察知したみたいです。
お父様は何か企んでいらっしゃいます。
楽しみなデートの日が彼の命日になりかねません。
08/9/14 収納

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