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    立教168年(平成17年)第219〜221号掲載
    特集 終戦60年の年 今語る「静岡空襲」の体験

特 集
終戦60年の年 今語る「静岡空襲」の体験

静岡空襲の思い出  松浦教幸
第219号掲載 立教168年(平成17年)8月25日発行
 本年は終戦後60年の節目の年であります。戦争を体験した人びとが高齢化し、戦争の思い出が風化しつつあります。静岡大教会の中でも戦争体験を持っている人が次第に少なくなりつつあります。静岡大教会(当時は分教会)は空襲で焼かれました。その時私は八歳でしたから空襲前後の事を子供心に記憶しております。その記憶は静岡大教会の個人史として大切なものだと会報編集部より促されここに記させて頂く事にしました。
 昭和20年6月19日夜空襲警報のけたたましいサイレンが鳴り響き、私達家族はいつもそうするように、庭に掘られた防空壕に避難しました。いつもは敵機が静岡上空を通過してゆき空襲警報は解除され我々は防空壕から出るのが常でした。しかしこの時は静岡市を空襲するためにやってきたのでした。焼夷弾が雨あられのように落とされ、炸裂する音が鳴り響き、西のほうの夜空は真っ赤に焼け、私たちの周りにも焼夷弾が落ち、炎に包まれようとしていました。このままでは焼け死んでしまいます。私は母の手に引かれ、4つ下の弟は母に背負われ、工業高校の横の道を通り沓谷方面に逃げました。逃げる道中にも、前後左右に焼夷弾が落ち、炸裂し激しく燃え上がりました。夜空は照明弾で昼間のように明るくなっていました。私はもうだめだと思いました。幸い逃げ延び、その夜は沓谷にある信者さんのお宅で泊めてもらいました。清寿叔父と妹は父の引くリヤカーに乗り曲金方面に逃げました。叔父は僕をこのままにして逃げてくれといってそこを動こうとしなかったそうです。死ぬ覚悟だったと思います。叔父はリュウマチの身上を持っており、健常者のような身のこなしは出来なかったのです。その叔父が終戦後父や私を支え、不自由な身体で大教会の上に精一杯尽くして下さいました。こうして原稿を書いていて目頭が熱くなります。
 このように命からがら助かった私達家族は父の引くリヤカーに乗せてもらい安倍分教会に疎開しました。途中町の中は姿形をとどめぬ遺体があちこちにありました。現在の安倍の親奥さん(鈴木こうさん)は食糧難の時代にもかかわらず、私たちを家族同様に温かく迎え入れてくれた事は生涯忘れないでしょう。
安倍分教会で一ヶ月ほどお世話になりましたが、日本本土への空襲はさらに激しさを加え、大都市はほとんど焦土と化してゆきました。我々はさらに山奥の藁科分教会に疎開しました。ここでも温かいもてなしを受けました。
 そして8月15日終戦となりました。再び父の引くリヤカーに乗り、山をおりました。幸い曲金にあった静陽分教会は戦火を免れたので、ここにしばらくお世話になり、横内小学校に通いました。この間に藁科分教会の建物の一部を現在の大教会の門のあたりに移築して頂き移り住みました。この頃はすでにあちこちで復興の槌音が響いていました。
 昭和21年春には神殿復興ふしんが始まり、7月19日、二代真柱様のお手により御目標様御鎮座、20日には神殿落成奉告祭が執り行われました。二代真柱様は教友を励ますため全国各地を巡教されておられましたが、父は戦時中、炭鉱奉仕で本部隊に加わっていた事から、二代真柱様にはお心をかけて頂き戦後の復興時期にはしばしば御巡教下さり励まして下さいました。そして神殿落成を契機として教勢倍加に励み、昭和20年代には31ヶ所の新設教会が誕生致しました。そして神殿建築、大教会昇級の道へと進んでゆくのであります。  今日の結構を見るにつけ、終戦前後の先人の御苦労を片時も忘れてはならないと心しております。思い出は尽きませんが紙面の都合でここまでにさせて頂きます。

大空襲翌日に米軍が空撮した静岡市中心部
大空襲翌日に米軍が空撮した静岡市中心部。
白く見える部分が焼け跡。

静岡空襲の体験を話す
第220号掲載 立教168年(平成17年)9月25日発行
 静岡市葵区にある静岡市立一番町小学校で、さる6月2日、静岡空襲の戦火をくぐり抜けた同校のOBらから「体験談を聞く会」が開かれ、駿府分教会長夫人、福島千鶴さん他2人が、それぞれの体験を語り、同校の3年生から6年生の児童約80名と、保護者、地域住民ら大勢が耳を傾けた。
 昭和20年(1945)6月19日深夜から20日未明にかけての静岡空襲で、約2000名の市民が死亡し、特に市街地にある一番町小学校一帯の被害は大きく、85人の児童が犠牲になったと記録されている。
 福島千鶴さんは当時12才。父(津弥吉)、母(きん)と小学校5年生、3年生の弟の5人家族だった。
 『6月19日の深夜、父の大声で飛び起き、裏にあった防空壕に入ったが、「学校に焼夷弾が落ちた、早く逃げなさい」との父の声に、防空壕から飛び出た時には校舎の窓から火がふきだしていた、という。
十二間通りに出ると、逃げ惑う人の波が安西の方に向かっていたが、「こっちは火の海でいけないぞ」と押し返され、逃げ惑う人が右往左往で、みな逃げるのに必死だった。
 どこをどう逃げたか、柳町から安倍川の土手にたどり着き、初めて私だけが家族みんなとはぐれてしまったんだと思い、心の中で「お父さん、お母さん」と呼びながら、悲しくて泣きながら土手を歩いて安西橋のたもとまでたどり着いた。
 しばらくすると、東の空が白み始め、太陽が昇り始めた。集合場所である井宮小学校で父に会え、うれしくて飛びついたが、母と弟たちはそこにはいなかった。
 田町の親戚に身を寄せてから、毎日死体置場を捜し回ったが、2, 3日はむなしく過ぎ去っていった。見渡す限りの焼け野原には、無惨な真黒い死体と鼻をつく嫌な臭いがしていた。
 4日目の夕方、顔は真黒で判別できなかったが、体の下側にかろうじて焼け残っていた服とズボンの切れ端に見覚えがあり、弟たちの死が現実のものとなった。
 「あなたのお母さんが日赤にいる」と聞かされ、日赤病院に駆けつけると、病院のどの部屋も、廊下までも火傷をした人でいっぱい。母とは4日ぶりの涙、涙、涙の再会だった。「体の三分の一以上の火傷では助からない」と言われた母は、火傷の傷口にウジがわいて大変だったが、父の懸命の看病と、病院で頂いた薬によって奇跡的に助かることができた』と振り返り、そして60年経った今でも忘れる事の出来ない恐怖と、二度と味わいたくない体験で、「いつの世までもあってはならないのが戦争だと思います」と、戦争の悲惨をしみじみと述べ、聞く子供たちの心に強く響くものがあった。
 この「体験談を聞く会」は、戦後60年の歳月が過ぎ、静岡空襲の風化が懸念されることから、静岡市西部公民館が企画したもの。
 「子供達が戦争というものを想像出来るように、身近な人に、身近なところで起きた事を話してもらった」と、主催した公民館は話した。

1945年6月19〜20日空襲直後、一面焼野原になった静岡市街
1945年6月19〜20日空襲直後、一面焼野原になった静岡市街。
中央ななめに広い道路は本通り、右上は賎機山。

静岡空襲の体験を話す
 駿府分教会四代会長夫人 福島きん  
第221号掲載 立教168年(平成17年)11月18日発行
 無意識の中に立ち上がり、フラフラと町の方へ歩いていく私を不審に思って見ている人がありました。防空壕の入口の所で火を避けていたが、「水を下さい、水を下さい」と声に出すと、前の防空壕にいた男の人が水を運んで下さった。その方が「うちの家族がこの前の防空壕にいるからいらっしゃい」と声をかけてくれたので、お言葉に甘えようとして出ていったら、火傷でボロボロになっている私の姿を見て、「やっぱりそこにいらっしゃい」と言われ、また元の所に戻った。
 空襲の激しい音、トタンがカラカラゴウゴウと鳴っている音を聞きながら、もう生きている人はいないかも知れない。私一人かしら等と思いながら、これから先どうしてお助けをしようか等考えているうちに空襲もやみ、夜が明け始めた。
 水を欲しさに防空壕を出てみたら大勢の人が歩いているのを見てビックリしました。水を飲みたいと言っても水一滴もない。もうどうせ死んでも仕方がないと、ロータリーの針金にかけてあった布団の上に転がった。 「あんたそんな所に居たら死んじゃうよ、早く日赤病院へ行きなさい」と追いたてて下さる方が、私の口に水筒の水を飲ませて下さった。どなたなのか一寸も覚えていない。仕方なく立ち上がり、よろめきながら日赤へ向かった。
 倒れかかるのを看護婦さんに頼み、やっと小児科の休憩所に寝かしてもらい、それっきり起き上がれなかった。それから病室に3日目くらいにやっと運ばれ、夕食が出たけれど食べれなかった。
 4日目の時、直撃を受けて泣き叫ぶ娘さんのお父さんが室を出て行くのを見て、音羽町の加藤宅へ連絡を頼んだ。ようやく連絡がつき「良ちゃん」が来てくれ、駿府へ知らせてくれた。
 男の子二人の死体が見つかり、私の知らせも届いて主人が来てくれた。何も食べられなかった。おもゆと梅干を頼んだが、それも喉を通らなかった。その時、初江(石橋)が、ご主人の正直(石橋)さんが、「おきんちゃん、あれで死んだんでは可哀相だ」と、とても心配して下さっていた所へ、私が日赤に居る事を聞いて「西洋ビワ」をおぼんいっぱい持たせてよこしてくれた。そのビワが喉を通り命がつながった。そのビワが無くなった時、広野(母の在所、長島)でも桃を持って来てくれた。また、命つぎをさしてもらった。空襲、空襲という時でもおぶってもらうことも出来ない大火傷だった。
 7月1日、日赤を出た。大石作次(姉みての家)宅にお世話になった。火傷の傷口にウジがわいたが取るすべもなく、お箸で一つ一つ取り除いていた。
 7月12日頃、山崎くまさんが見えられ、息子、市会議員だった山崎又ヱ門さんの口ききで、田町3丁目の病院の院長さんに診て頂くべく病院へ連れて行っていただき、薬をつけてもらい、一夜の中にウジが取れた。
 7月14日、リヤカーに乗せてもらい、本通10丁目の亀沢さんに引っぱってもらって有東木の静安分教会へ疎開した。10月頃には完全に治る事が出来た。
(原文のまま)