TOPバックナンバー 1
    立教168年(平成17年)第217〜218号掲載
    静岡詰所の成り立ち

平成17年 第217〜218号掲載
静岡詰所の成り立ち

 昭和37年10月18日名京大教会の神殿落成奉告祭が、3000名の参拝者を集めて執り行われた折り、「静岡分教会の分離昇級」のお許しを戴き、翌11月23日、大教会昇級願書を提出して受理された。
 翌昭和38年1月26日静岡大教会は誕生し、名京詰所の3号館に静岡大教会信者詰所を開設。初代詰所主任に福嶋津弥吉氏、事務主任に山本実氏が任命された。
 教祖80年祭前の昭和40年2月、炊事本部から全詰所配食が開始され、この年の11月、静岡詰所は名京3号館西側に会長室、教務室(木造平屋建て18坪)を増築した。
 翌昭和41年1月26日から教祖80年祭が執行され、5月28日、静岡大教会五代会長に松浦教幸氏が就任した。そうした中、翌6月7日名京詰所は、道路を隔てた農事部敷地内へ移転が決まり、8月末から工事にかかった。尚、静岡大教会では、9月8日に真柱室客殿の上棟式が執行され、10月18日には五代会長就任奉告祭が盛大に勤められた。
 明けて昭和42年1月23日、身上療養中であった松浦幸雄四代会長が出直されるという大節に遭遇した中、2月24日には詰所事務主任の山本実氏が身上となられ、4月には大教会に引き揚げたため、後任として、大教会青年勤め中の清水一徳氏夫妻が2年間勤務となった。また、この年の12月10日には、別所にあった名京詰所は移転を完了した。
 翌昭和43年5月1日から鈴木道治氏夫妻が詰所事務員として1年間勤務し、昭和44年5月7日から大塚治道氏が2ヶ月間勤務。7月から10月末まで山田豊孝氏が勤めた。尚、この年5月には天理学寮北寮の木造2階建家屋を本部より頂き、9月末には移転改築が完了し、第13母屋として使用することになった。
 この後、昭和44年10月に事務主任に鈴木悦郎氏が任命された。翌昭和45年は大阪で万国博覧会が3月15日から開催された影響からおぢば帰りも盛んになったため、詰所の掛、敷布団の新調ならびに、浴場増築などを行い、延べ4000名近い帰参者で賑わった。

旧静岡詰所外観 旧静岡詰所玄関 旧静岡詰所廊下

 昭和46年5月には、詰所主任に竹田道雄氏が任命された。
 教祖90年祭をひかえ、昭和49年10月から詰所内の厨房、食堂、玄関などの増改築に着工し、昭和51年1月26日執行の年祭を迎えた。この年8月、事務主任には鈴木悦郎氏に代わり、直轄信者の近藤長治氏が任命され、3年間勤務された。そして昭和54年8月、再度鈴木悦郎氏が事務主任に任命された。また、昭和53年10月18日には、詰所副主任として松浦富幸氏が任命されている。
 昭和56年10月18日、詰所主任は竹田道雄氏から清水義雄氏に変わり、翌昭和57年秋、教祖100年祭を前におやさと整備が打ち出されている中で、静岡詰所移転の声が囁かれ始め、昭和58年11月18日、教会長会議の席上、初めて移転建築について談じ合われ、12月18日の教会長会議で詰所移転計画が発表された。
 翌昭和58年1月18日春季大祭の吉日に、大教会創立100周年の記念事業として第13母屋ふしんが打ち出され「母屋ふしん積立」が始まった。神殿に近い詰所移転地を探す事に困窮する中、この年12月20日、大教会隣家で出火全焼するという惨事にも係わらず、類焼をまぬがれた。この後、大教会長様より、「人間思案で良い所を求めるのを止め、どんな所でも喜んで移転させて頂く気持ちになりましょう」というお言葉があり、不思議にも、昭和62年2月26日、神殿、別席場、修養科に比較的近い現在の場所(豊井町)に移転地が決まった。
そして、昭和62年4月13日、第13母屋ふしん推進委員が任命、委員会も発足した。同年10月18日には、詰所主任に鎌田正幸氏が任命された。
 平成元年11月27日、第13母屋設計図を真柱様に御覧頂き、御内諾を戴いた。
 平成2年5月25日には起工式、平成3年4月28八日には上棟式が行われ、8月25日には真柱様をお迎えして盛大に竣工式が執り行われた。平成5年10月18日には、詰所主任に福嶋敏秀氏が任命され、現在に至っている。