のど(声)・せき・気管支炎・喘息・諸祈願所 
佐奈田霊社

 佐奈田霊社一帯(石橋山古戦場)は、源頼朝が治承四年(1180年)8月23日に以仁王の遺命を受けて平家に対し挙兵をした処です。

 戦の火蓋は豪雨の中、夜の暗闇の中で始まります。

 この時、味方は300余騎、敵はその10倍の3000余騎でした。 『吾妻鏡』『源平盛衰記』によると、
「先陣を切るのは佐奈田与一が適任」として頼朝から拝命します。
 召し寄せられた与一のいでたちは「白葦毛の馬を曳き、青地の錦の直垂・赤糸縅に肩白・鎧に金物を打ったものを着て、
妻黒の矢を背負い、長覆輪の太刀」を帯げて頼朝の面前に平伏します。

 頼朝は与一に対し「平家方の大将、大場・俣野といえば名ある奴原である。お前が彼ら二人に組んで高名を立てよ。」と命じます。
一方、平家方では「必ず与一と組んで討ち取って高名せよ。暗闇でも彼のあぶみは裾金物が殊に華やかできらめく上に、
馬の毛も白く、さらに白い幌をかけているから一目で判るぞ。」と教えられていました。



耀武八景・石橋山秋月天保14年〜弘化年間(1843〜47)

 頼朝は、立ち出でたる与一の華やかな装束を見て、敵方の目につき易いから着替えて行けといいますが
『弓矢とる身の晴振舞いは軍の場に過ぐるものはございませんから。』と答え
文三(与一2歳からの爺や)以下15騎を従えて敵先方隊75騎めがけて突進します。

 名乗りを上げて突進する与一の声を聞いた平家方は「与一はよき敵ぞ、討ちもらすな。」と、
75騎中73騎が佐奈田一人に組もうとして群がりますが、これをかいくぐり、敵将俣野五郎景尚に組付きます。
 そろって落馬するも俣野の上に馬乗りになり、「義忠(佐奈田与一義忠)敵に組付いたぞ、落ち重なれ、落ち重なれ。」
と大声で呼びましたが、文三たちは皆敵に押しはばまれて与一の声は届きませんでした。

 俣野の救援に敵が駆け付けましたが、暗くて敵味方の判断が付きませんでした。
鎧を触って確かめようと近づいた平家方の敵を蹴り倒し、その隙に刀を抜いて俣野の首を掻きますが、何度掻いても切れず、
刺しても刺しても通りません。不思議に思って刀を見ると、鞘にはまったまま刀は抜けていません。

 鞘尻を口にくわえて中身を抜こうとしますが、辿り着くまでに斬った血糊が鞘の中で固まり、遂に刀は抜けませんでした。
悲しき運の極みで、与一は俣野を組伏せたまま、駆け付けた敵に後ろから首を切られて討死にします。

 頼朝挙兵の知らせを受けたとき佐奈田与一は病み上がりであり、一説には『のどに痰が詰って声が出ず、味方を呼ぶ声が出なくなった。』
とも言われています。


 1180年以来、佐奈田与一の霊魂が残り「のど(声)・せき・気管支炎・ぜんそく」に悩む人々を救う慈悲の誓願があると言われ、
 後に頼朝が天下を治めた事から諸願に霊験ありと信仰されています。


 また、1800年頃には「佐奈田与一」・「石橋山の合戦」が物語や浮世絵として多数紹介されています。
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