のど(声)・せき・気管支炎・喘息・諸祈願所 
佐奈田霊社

 この附近は源頼朝が治承四年(1180年)8月23日に以仁王の遺命を受けて平家に対し挙兵をした処です。このとき、相模の名族三浦党の岡崎四郎義実や、その子真田(佐奈田)余一義忠も参陣しました。しかし、頼朝軍は僅か三百、平家軍は大庭景親以下三千(その中に伊東祐親さんもいました)であったため、頼朝軍は苦戦となりました。このとき佐奈田与一は十五騎で豪雄俣野五郎の七十五騎と戦い、両将組打ちとなり、俣野を組み敷きますが短刀がさやから抜けず手間取るうちに駆けつけた敵に討たれます。二十五歳でした。


 与一の郎党文三家安(家康)は、合戦の中、主人を求めて走り回ったが、大勢の敵に押し隔てられ、主人の行方を見失ってしまいます。主人ん生死のゆくへも知れずに奮闘しますが、平家方の軍に囲まれ、8人までは斬ったが、ついに討死します。この後討死の地には与一塚が建てられ、与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られました。その100mの処には、文三を祭る文三堂があります。

 霊社下の畑はねじり畑と呼ばれ、組打をしたところと言われています。源平相方の想いと、激しい戦の為、この畑の作物はすべてねじれてしまうとも伝えられています。

 


 吾妻鏡によりますと、頼朝は、建久元年(1190)2人の墓を訪れ、忠節をしのび涙を流したと伝えられています。

  与一が景久と組み討ち中、味方からの問いかけに対し「たん」がからんで声が出ず、そうこうしているうちに、敵に討たれてしまったという伝承にちなんで、たん、咳、ぜんそく、声に霊験があるとして知られます。


 本堂の中にはほかに古戦場から発掘された刀や戦争中に無事を祈った奉納額なども奉納されています。
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