注・この文章はPG-12指定です。
※設定捏造、流血注意


寂しがりな悪魔


 あれは何歳の時だったろう。

 そう、俺がまだ料理を覚えて間もない頃だったように思う。雪男も一緒にやりたいと言い出して、包丁を初めて持った日のこと。手元が危なっかしくて見ていられなかった。
「そうじゃねえよ。左手はグーにしろ。アブねえな」
「こ、こう?」
「それから、刃は先っぽじゃなくて、もっと真ん中使え。真ん中」
 切るときも力が入りすぎて、ダン、ダンと大きな音がした。危ないなあと思ったけど雪男の面倒ばかり見ていられなくて、そうしたら眼を離した隙に
「あっ」
 案の定雪男は誤って左手の指先を切ってしまい、血が傷からあふれ出した。
「大丈夫かよ」
 とっさに水で洗ったけど、血が止まらなくて。
 だから俺は血が溢れる雪男の指を自分の口にくわえた。
「んんっ!」
 雪男の血は良い匂いがして、脳がとろけそうなほど美味しかった。身体の奥の本能に訴えかけられるような衝撃に俺はたじろいだ。
「兄さん?」
「お前の血、うまい」
「え?」
 雪男はきょとんとして、夢中で血を吸う俺を見てた。

 そういえばその後、雪男が転んでひざをすりむいたり、ひっかき傷をつくったりするたびに俺は雪男の血を舐めるようになった。そのうちそれをジジィに見つかって、『バイキンが入る』だなんだって散々しかられて、徹底的にやめさせられたんだった。

 ずっと忘れていた。雪男の血の味。

 首筋に噛み付いたのは戯れだった。悪魔になって鋭くなった犬歯が肌に食い込んで、雪男の白い肌に赤い血を滲ませる。その色に目が釘付けになった。血の芳しい匂いが鼻をつき、それがそのまま脳を痺れさせる。唇を寄せると、口中に芳醇な味わいが広がり、体中に戦慄が走った。夢中になって血を味わううちに、他の事は一切目にも耳にも入らなくなった。ただ、ひたすら血に酔いしれる。

「兄さん」

 遠くで雪男の声がする。

「兄さんっ!」
 急所である尻尾の付け根に、雪男が爪を立てていた。
「ふぎゃあ!」
 痛みで我に返り、身体を起こす。見下ろすと、雪男がわずかに眉間にシワを寄せ不安そうにこちらを見ていた。どうしたのかと問うてくる瞳にすぐに答えられずにいるうち、雪男の首筋を染める血が目に入り俺はあせった。
「ごめん」
 縫いとめられそうになる視線を無理矢理引き剥がして顔をそらすと、逃げるように雪男の上から退き自分のベッドへ戻って布団をかぶった。そうして、さらなる血を欲する欲望をなんとか押さえ込もうと、俺は身体を丸め唇を噛んだ。



 まるで、血に酔ってでもいるようだった。

 血のついた衣服を洗いながら、先刻の燐の様子を思いだした。悪魔としての本性がそうさせるのだろうか。普段は意識していない兄の悪魔としての顔を見せつけられる度、不安と強大な魔に対するあらがいようのない恐怖にさいなまれ、弱い自分に対する嫌悪で一杯になる。
 正面にある鏡を覗くと、首筋に血が染み込んだガーゼを当てた自分が見えた。対象が自分だけであれば良い。もし、それが不特定多数に向かう欲望なのだとしたら、燐は確実に危険対象として抹殺されるだろう。
 暗い穴に落ちていくような絶望を感じ、思わず手元の衣服を両手でぎゅっと握り締めた。しっかりしなくては。何があろうと兄を守ると誓ったはずではないか。失うことに耐えられないのであれば、どうにか守り抜くしか方法がないのだから。



 その後、夜になる度、燐は血を求めて雪男の元へ来るようになった。尻尾を刺激することで我に返らせることができたのは初めのうちだけで、両手両脚を押さえつけられてしまえばなす術が無い。寝入りばなは迷うように部屋をうろうろしていたり、自分のベッドにもぐり込んでいたりすることもあるが、結局我慢ができないのか、気付くと首筋に噛み付かれているのが常だった。寝る部屋を変えてみても、どこからか嗅ぎつけてやって来る。鍵が壊されていたこともあった。
 朝になって叱ると毎回反省はするようで、神妙な顔で謝るのだが、どうにも夜になると歯止めが効かなくなるらしい。
 しかし、自分以外がその欲望の矛先になっている様子は無く、それに関してはほっとしていた。ならば、ただ僕が耐えれば良い。そう思う。

 その日は夜遅くまで任務が長引き、部屋に帰ったときに燐はもう熟睡しているようだった。最近、普段睡眠時間の長い兄にはめずらしく夜起きていることが多かったから、久しぶりに早く眠れて良かっただろうと思い、手早く着替えてから隣にある自分のベッドにもぐり込んだ。任務で疲れてもいたし、このところずっと貧血気味で調子が悪かったからゆっくり休みたかったのだ。
 壁側を向いて丸くなる。うとうとし始めたとき、背後で急に闇が膨れ上がり、青白い炎の色が灯るのを感じた。
(・・・兄さん?)
 振り返ると既にサタンの青い炎をまとった燐がベッドの上の枠を掴んで雪男を覗き込んでいた。
「兄さん」
 呼びかけてみるが返事がない。グルルルと獣じみたうなり声がして、恐怖で背筋が凍りついた。とっさに逃げようとしたが両肩を掴まれベッドに押し倒される。
「あっ」
 首に噛み付かれるのはいつものことだが、今日は普段に比べ何倍も力が強く荒々しかった。吸われる血の量も半端ない。
 動悸が激しくなり、目が回る。視界が段々暗くなるのを感じて、僕は焦った。
(まずい。このままでは・・・)
 燐が一度身体を起こし、口の周りに付いた血を爬虫類じみた尖った舌で舌舐めずりした。
 ふと窓に視線を向けると、外は月明かりが煌々として青白く輝いていた。
(そうか、今日は満月・・・)
 燐は再び雪男の首元に顔を埋め傷からどくどくと流れ出る血をゆっくり舐め始めた。ぴちゃぴちゃと音がする。
(兄さん・・・)
 視界はどんどん暗くなり、やがて闇に埋め尽くされた。



 兄が、泣いていた。
 目の前には小さな小塚。死んでしまったツバメの仔をさっき埋めたばかりだった。
「しょうがないよ。知らなかったんだもの」
 なぐめようと声をかけるが、兄は首を振り、腕で涙をぬぐった。その後からまた涙がこぼれる。
「知らなかったじゃすまないだろ。死んじゃったんだから、もう生き返らないんだそ」
 巣立ったばかりのツバメの仔が地面に落ちてばたばたもがいているのを見て、巣から落ちたのだろうと思い拾い上げたのは燐だった。はしごを使い何とか巣に戻したものの、人の匂いが付いた仔を親鳥は世話をしようとしなかった。何度となく巣から落とされ、あきらめて餌付けしたり保温したり燐と雪男で世話をしようと試みたものの、その努力空しく死んでしまったのだ。
「おれの・・・おれのせいだ」
 大人たちから後であの雛は巣立ち直後だったのだろう、そのまま放っておけば良かったのだと聞かされ、拾ってしまったことを燐は後悔しているのだった。
「泣かないで、兄さん」
 優しい兄の涙に胸が苦しくなって、雪男はそっと兄の額に自分の額を寄せた。

 ふと、眼を開けると、兄が泣きながら首の傷を止血しようと必死で布で押さえているのが見えた。
「ゆきおっ」
 覚醒したのに気付き、燐が声を上げた。
「良かった、雪男。良かった・・・」
 ほっとしたのか、燐の表情が緩んだ。涙が瞳からぼろぼろとこぼれ落ちる。
「雪男、ごめん。俺・・・雪男、死んじゃったかと思って、もうどうしようって・・・」
(兄さん・・・)
 声をかけようとしたが、声が出ない。雪男が唇を動かすのを見て燐が言った。
  「傷が開くからしゃべるな。お前はゆっくり休んでろ」
 しばし、静かに見つめあう。
 燐は片腕で涙を拭くと愛おしげに雪男の髪を撫で始めた。潤んだ瞳からはまだ時折涙がこぼれる。
 事態が悪化する前にフェレス卿に相談すべきだった。後悔の念がよぎる。そもそも兄の様子を報告するのが義務であるのに、今の状態はそれを怠った自分に対する罰であるかのように雪男には思われた。燐は悪くない。非があるとしたら自分だ。だから、泣かないで欲しい、と思った。
 頭を撫でられる感触が気持ち良い。うつらうつらとしながらそれに気を取られるうちに、雪男はまた眠りに付いた。



「悪魔というのは血に酔ったりするものでしょうか」
「まあ、貴方の血ならどんな悪魔でも酔うでしょう」
 翌日メフィストに連絡を取り、雪男は彼の居室を訪ねた。
「おや、そういえば血の匂いが少し変わりましたね。どこかの悪魔と契約でもしましたか?」
 メフィストは手にしていた紅茶を置き、手を組んで雪男の眼を覗き込んだ。彼に視線を合わせられると、いつも居心地が悪く感じられる。
「実は・・・」

 一通り聞き終わるとメフィストはニヤと笑った。
「そうですか。燐と血の契約を結ばれたのですね」
 立ち上がり大仰に帽子を取って挨拶をする。雪男はそれを呆然と見た。
「それはおめでとうございます。とてもお似合いですよ」
 メフィストは椅子に腰掛け、背もたれに身体を預けると肩肘をついた。
「契約、ですか」
「しかし、今の状態は契約が完了していないので燐はそれが不安なのでしょう。よろしい。すぐに燐を呼んで正式な書面を用意させますよ。・・・あれも契約の仕方くらい、自分で知っておかねばなりませんしね」
「その、契約というのは一般に言われるようなものでしょうか」
「そうですよ。死後、その悪魔に魂を食われるか奴隷になる、というあれですね」
 通常はその代償として強大な力が得られるという話ではなかっただろうか。現状、燐から何か得る物があるとも思えない。
「・・・何だか、ペナルティが増えただけのような気がするのですが」
「今はそうでも、あれはいずれ他の何をもしのぐ強い悪魔に成長しますよ。そのとき、この契約は必ず役に立ちます。騎士団としても、心強いことだ」
 メフィストはすっと眼を細めた。
「それに、そう深刻になる必要はありません。双方の合意があれば解約も出来ますからね。結婚と同じです。今の状態を改善するには一度契約完了した方が良い。そうでないと貴方も身が持たないでしょう」
 知らないうちに悪魔に魂を売り渡していたのか、と雪男は暗澹たる気持ちになった。
「大体、安易に悪魔に血を与えたりする貴方が悪いんですよ。血というのは特別な液体ですからね・・・以後気をつけて下さい」
「はい」
「それから、あなた方の個人的な趣向に口出しをする気はありませんが、燐の異常行動については報告してくれなければ困ります」
「それは、申し訳ありませんでした」
 メフィストは突然立ち上がると、つかつかと雪男に歩み寄った。
 少し屈んで視線を合わせると、手当てされている雪男の左あごを手袋をつけた右手でそっと撫でる。
「早く教えてくれないから、ほら、可愛い顔が台無しですよ」
 顔を近づけてささやかれ、雪男は表情を硬くして身を引いた。
「それでは、よろしくお願いします」
 一礼し、逃げるように部屋を後にした。

 扉を閉まるのを見送り、メフィストはつぶやいた。
「あれには幼い頃から眼を着けていたんですが・・・弟に先を越されましたね」
 ふっと、口元が笑む。
「まあいいでしょう。もともと彼のために生かされた子ですから。仕方ありませんな」
 一度眼を閉じ息を吐くと、メフィストは早速契約書の支度をしようと動き出した。



「雪男、起きてるか?」
 体調が思わしくないからと講師の仕事も休んでベッドで寝ていると、薄闇に包まれた頃、燐が手に丸めた羊皮紙を持って部屋に帰ってきた。起き上がり眼鏡をかける。
「おかえり、兄さん。それ、契約書?」
「おお、そうだぞ」
 燐はベッドサイドに腰掛け、目の前に羊皮紙を広げた。
 ラテン語の逆さ文字で書かれているため、さすがに雪男でも上手く内容が掴めない。
「これって、内容は大丈夫なのかな。フェレス卿が余計なこと書き足したりしてないよね」
「大丈夫なんじゃね?なんか、決まった形式の文らしいぞ。で、ここ。ここにお前が血でサインすればいいんだよ」
 ここ、ここと燐が指をさす。
「兄さんはサインとかしないの?」
「あー、あんま言っちゃいけないことみたいだけど、インクに俺の血が混じってんだ」
「ふーん」
 早く早くと急かすような態度の兄にため息をつきつつ、雪男は立ち上がり机の引き出しからカッターを取り出すと燐の隣に腰掛けた。
 カッターの刃を左手で出し、右の人差し指を突き出す。その状態で雪男はしばし逡巡し動きが止まった。それを見た燐が言う。
「指、噛んでやろうか?」
「やめてよ。ちょっと待ってて」
 息を吐いて雑念を払い、指先に刃を当てる。小さな痛みと共に赤い液体が小さな玉を作る。それが筋を描いて指を這いぽたぽたとこぼれ落ちた。カッターの刃をしまい、血液が服を汚さないように左手でこれを受けた。
 燐が無言で羊皮紙を差し出す。先程示された場所に、血で自分の名前を署名した。
 書き終わるまで覗き込んでいた燐は、書き終わると同時に表情を緩めて眼を輝かせた。見れば尻尾も嬉しそうにぶんぶんと動いている。
「・・・何かすっごく嬉しそうなんだけど。署名する前と何か違う?」
「え、お前わかんねえ?全然違うよ!」
 強いて言えば何か息苦しさを感じた程度だった雪男には、燐の喜びようは理解に苦しむものだった。
「俺、今、お前は俺のものなんだって、すっごい実感した!うれしいぜ!」
 燐は隣に座る雪男の肩に抱きついた。よほど嬉しいのだろう、目には涙も浮かべている。
 呆然とする雪男の背中を何度かばしばしと叩いた後、ふとまだ出血している雪男の指を見て言った。
「舐めていい?」
 あきれて雪男がため息をつく。
「どうぞ」
 嬉しそうに指を吸う燐を雪男は静かに眺めた。燐はまた、逆の手のひらに付いた血も舐めとり始めた。ざらざらとした舌の感触がくすぐったい。
「血を吸うの、我慢できるようになったわけじゃないの?」
 状況が改善されていないのかと少し不安に思い、雪男は問いかけた。
「ん?ああ、何ていうか、血を吸いたいことに変わりは無いけど、俺のだって分かってるから今日は我慢しようかなって思える、そんな感じだと思うぜ」
「ふーん・・・で、兄さんは僕の血を吸って、死んだ後は魂をもらうわけだけど、代わりに僕に何かしてくれるのかい?」
 その対価は一体何なのかと、少し意地悪く雪男は訊いた。
「え、メフィストが『そういうのはサービスだからなくてもいい』って言ってたぞ」
 悪魔側の契約に対する意識を見せつけられ、雪男はがっくりとうなだれた。
「でもさ、雪男」
 燐が少し遠い眼をして寂しげに言った。
「俺さ、少し不安だったんだ。怪我も治っちゃうし、俺、雪男とかみんなみたいに年老いて死ぬことはできないんじゃないかってさ。いつか、みんな俺を置いていなくなっちゃうんじゃないかって」
 燐の優しげな青い瞳と目が合う。
「でも、ずっと雪男が一緒に居てくれるんなら俺寂しくないよ。雪男だけ居てくれればいいんだ。昔からずっとそうだっただろ」
 ベッドのシーツの上で、血を舐め終わって綺麗になった手を燐はそっと繋いだ。
「もしかしたら悪魔って、みんな寂しいから人間と契約するのかな?」
「まさか。そんなの兄さんだけだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
 雪男は視線を外してため息をついた。
「ずるいな、兄さん。そんな風に言われたら、契約解除してくれって言えなくなるじゃないか」
「え、」
 燐が驚いた顔で雪男を覗き込んだ。
「い、嫌なのかお前・・・」
 尻尾ともども急にしょんぼりした燐にふと笑いが込み上げる。
「そりゃあね。なし崩しに人の道を外れたって言われたらさ」
「そ、そうか・・・」
 でも、まあ仕方が無いかと穏やかな気持ちで燐を眺めていると、燐が急に思いついたように口を開いた。
「そうだ、お前子どもつくれよ」
「は?」
「そうしたらさ、孫とかひ孫とかずっと先まで、お前の血族は俺が影ながら守ってやるよ」
 うん、それがいい、と勝手にひとり納得したらしい燐に雪男は苦笑した。それではある意味悪魔に憑かれた一族になってしまうではないか。
「お前の子どもだったら、男の子でも女の子でもきっとすごく可愛いだろうな」
 想像を膨らませてへらへら笑う燐に雪男は釘を刺した。
「だとしても、兄さんにはあげないんだからね」
「分かってるよ」
 燐の肩を抱き瞳を覗き込む。
「僕だけだよ」
「お前だけで十分だよ。雪男」
 どちらからともなく唇を合わせ、お互いを抱きしめ合う。

 対価なんてものは、幼い頃からずっともう十分過ぎるほどもらっていると雪男は思った。

END (2011.07.07)



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