見付宿  



見付は、東海道五十三次の宿場町として有名です。しかし、実は江戸時代以前からこの地には遠江の国府が置かれ、地方の中心都市として発展してきたのです。見付の魅力は、縄文時代の貝塚から明治時代の建物まで、幅広い時空の歴史を感じられるところです。 
 
 

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@  見付宿案内板と東の梅塚
A  地蔵小路
B  御証文屋敷 安間平治弥邸  
C  旧見付学校・磐田文庫と淡海国玉神社(中の宮)
D  玄妙小路
E  化粧坂と一の谷遺跡
F  西の梅塚 
G  栗田家土蔵群と梅屋小路
H   旧赤松家記念館
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@ 見付案内板と東の梅塚
   
 
 遠州中央農協見付支店前にある案内板です。  その隣にあるのが、東坂の梅塚です。梅塚というのは、見付天神の祭りの夜、怪物に娘をさしだした家の前にそのしるしとして植えたものだといわれています。鎌倉時代の話です。
 A 地蔵小路
 本通りから宣光寺まで続いている小路です。入り口は狭いのですが、入っていくとこのように広々としています。もちろん、昔は両側に古い家や倉の並ぶ見付らしい小路でした。倉のある左手のお宅は、町屋らしい、通りに面した間口は狭いのに奥行きがあるおうちです。このあたりの名主さんなのでしょうね。
 宣光寺には、延命地蔵さんがあり、そのためここも地蔵小路と呼ばれているようです。このお地蔵さんは、徳川家康が追っ手から逃れるために見付の街に火を放った時、幼児の姿になって、やけどを負いながらも火を消して回ったという言い伝えがあり、身がわり地蔵さんとも呼ばれているそうです。そのほか、境内には、徳川家康寄進の梵鐘もあります。
 B 御証文屋敷、安間平治弥邸跡  
   御証文屋敷、安間平治弥邸跡です。今は片桐内科医院になっています。お宅も新しくなっていますが、私は子どもの頃ここがかかりつけ医だったため、古いお屋敷の一部を診療室にしていたことを覚えています。本当に、格式ある武家屋敷でした。庭に湧水池があり、そこから清水が湧き出していることから、このあたりは清水町といいます。昔は、診察を待つ間、回廊から池に渡る橋に下りていって、泳いでいる鯉を見ていたものでした。正直に言いますと、40年以上前の話です。 
   
 C 旧見付学校・磐田文庫と淡海国玉神社
   明治時代になって学制が発布されたとき、いち早く作られた旧見付学校です。この建物自体は、私が子どもの頃に修復されてきれいになりました。「郷土館」といわれていた当時は古びていて、内部もそんなに整備されていませんでしたが、今は見応えのある展示があります。おもしろいのは、明治8年の落成式の写真です。かなり高いところから建物全体と裏の淡海国玉神社や森まで写した写真なのですが、当時見付学校の前にはそんなに高い建物はなく、どこからどのように撮したかは謎なのだとか。こういう謎って、とても興味をひかれます。
 また、この5階から見る見付の景色もなかなかのものです。
   
 左:左手奥にある杜が、愛宕神社です。 中:奥に見える丘が、徳川家康が城を築こうとして断念した城山です。  右:西側を臨んです。まっすぐ行くと姫街道です
 
   旧見付学校の隣にある淡海国玉神社、通称中の宮です。奈良時代磐田に国分寺が置かれたことから、ここが遠江の総社なのだそうです。見付天神の裸祭りには、神様を乗せた御神輿が、すべての灯火を消した暗闇の中、天神社からここまで駆け抜けます。子どもの頃母に聞いた話では、中の宮は天神社の神様矢那比売様(女性です)の実家なので、1年の1度の里帰りを急ぐのだとか。7月に祇園祭があります。昔はここの裏手で花火が打ち上げられたりして、賑やかなお祭りでしたが、今は少し寂しいです。  
   
  上:淡海国玉神社には、狛犬の代わりにうさぎが置かれています。御祭神が大国主命なので、因幡の白兎からの関連なのでしょうね。うさぎ年の今年は話題になるのではないでしょうか。 
 左:淡海国玉神社の神官で磐田文庫を創設した大久保家と裏の森です。遠くから見ると、こんなに立派な森になっています。塔の壇と呼ばれています。
 
 D 玄妙小路  
 右手に玄妙寺、奥に慈恩寺を眺める玄妙小路です。 左手のお宅には立派な倉があり(反対から見ると分かります)、見付らしさの残る小路です。今は、西側も北側もスーパーマーケットとその駐車場になってしまって、開放的な雰囲気ですが、私が子どもの頃には、倉や古い民家の壁に囲まれた小路でした。スーパーマーケットも、元は鶴谷という味噌醤油製造工場だったようです。
 私の家は、見付でも東の方にあったので、この西の方はあまり記憶にありません。でも、妹が生まれた頃(昭和43年)か次の年か、玄妙寺の御命講に、母と赤ん坊だった妹と3人できたことが印象に残っています。父がちょうど出張でいなかったと記憶しています。11月の寒い日、この写真より1本東の玄妙寺参道を歩いている光景だけが残っています。やはり、倉と大きな家に囲まれた小路でした。
    
   
 E 化粧坂(けわいざか)と一の谷遺跡


 玄妙小路を北に進み、スーパーマーケットの横をすり抜けていくと、化粧坂の入り口があります。民家に囲まれた狭い入り口なので、見過ごしてしまいそうです。化粧坂というのは、一の谷という鎌倉時代から江戸初期までの集団墓地につながる道です。見付に暮らしていた役人、武士、町人などの人々が死んだとき、この坂を上がりながら死に化粧をしたため、この名前がついたといわれています。
 
      
 始めは家々の軒先を通っていくのですが、やがて慈恩寺の墓地の横を通り過ぎます。そこからまた家が続いていますが、昔は、たぶん山道だったのではないでしょうか。 
   
 やがて道が平らになってきて、西側が開けてきます。   ここが化粧坂の終わり、この先の家が並んでいるところが、かつては丘陵一帯に広がる大規模な墓地でした。私の子どもの頃は、広々と広がる荒れ地だったような記憶があります。
 発掘調査によると、塚墓162基、土坑墓277基、集石墓428基など計888基のお墓や火葬した跡や溝が見つかったそうです。見付の人々が悲しみにくれながらこの坂を上ってきた様子が目に浮かぶようです。
 F 西の梅塚
   
  こちらが西坂の梅塚です。ここにあった家が最後に娘をさしだしたとのこと。ここからしっ平太郎の伝説が始まるのです。 
G 栗田家土蔵群と梅屋小路 
   
 明治初期から昭和初期に建てられた5棟の土蔵群です。かつて磐田で盛んだったたばこの製造に使われていたそうです。2009年の地震で一部が壊れてしまったとか。見付宿を代表する貴重な近代の遺産です。 修復できるといいのですが。        
 H 旧赤松家記念館
 見付宿から少し離れていますが、宿場の西端、姫街道入り口から北上して、農協、市立中央図書館・埋蔵文化財センターを通り過ぎた先にあります。幕末から明治に活躍した海軍中将・赤松則良の邸宅で、明治の趣ある建物です。門構えが特に有名で、磐田のパンフレット等にもよく使われていますが、内部も見応えがあります。記念館・展示室も小ぶりながら興味深いし、庭も美しいです。 
   
   
   
 門をくぐると正面に土蔵、左手に記念館と米蔵(企画展示室)があります。  水屋跡だそうです。
   
  赤松中将の娘登志子さんは、明治の文豪・森鴎外と結婚しました。しかし、離婚して、息子於菟をおいて見付に帰ってきたのだそうです。そしてその後再婚して娘を産んでいます。
 息子の於菟が祖母とともに見付の赤松邸を訪れて異父妹にあったときのことを書いた文を読んだことがあります。とても美しい文章でした。また、当時の見付の様子が垣間見えて興味深かったです。
   
 庭にあった案内図と案内板です。 
   
 赤松家の米蔵として使用されていた建物です。上記の赤松家の家系図などが展示してあります。  記念館の展示物のひとつ、紙本金地著色源氏物語図です。徳川家16代当主家達より赤松則良が拝領したと伝えられているそうです。 
   
 庭は広々していて、旧赤松家の壮大さが感じられます。