磐田の歴史
 静岡県西部地方で大きな街といえば、浜松市でしょう。でも、磐田市も、歴史から見たら負けてはいないのです。古くから人が住み、地方の要所として発展してきた、歴史のある市なのです。
旧石器時代
   2万年前
 磐田に人が住み始めました。寺谷遺跡、広野北遺跡、匂坂中遺跡などが発見されています。「ららぽーと磐田」も2万年前の貴重な遺跡の上に建てられたそうです。(高見丘遺跡)
縄文時代
   9千年前
 磐田市内最古の縄文時代の遺跡が匂坂中遺跡で、約9千年前の土器が出土しているそうです。その後磐田北部地域の低丘陵や磐田原台地縁端部にもムラができたようで、遺跡が見つかっています。今の浦は入り江になっていて、この近くの遺跡には貝塚が作られたそうです。
弥生時代
   2千年前
 磐田市内に米作りの技術が伝えられ、JR磐田駅南や鎌田地区に水田がつくられたそうです。また、台地の上からもムラの遺跡などが見つかっています。
古墳時代   磐田市には、600基以上の古墳があります。 静岡県内の古墳の大きさベスト5の中の3つが磐田市内にあります。また、”卑弥呼の鏡”三角縁神獣鏡が5枚も見つかっており、これは県内bPです。
 奈良時代   奈良時代、見付には国府(今の県庁)や守護所が置かれ、この地方の中心都市でした。そして741年国分寺建立の詔を受けて、遠江国分寺・国分尼寺が建立されました。
鎌倉時代   この時代も見付には守護所が置かれ、遠江国の中心都市でした。見付天神に伝わるしっぺい太郎伝説はこの時代の出来事で、史実かどうかはわかりませんが、裸祭りが始まったのはこの時代のようです。
中世
 
  見付の北側の丘陵(現在の水堀町)一帯は、鎌倉時代から江戸時代初め(13〜17世紀 約400年間)までの集団墓地でした。いろいろな形態の墓888基や火葬した後が見つかっています。 この時代を通じて、見付が遠江の国の中心だったことがわかるようです。その中心は、現在磐田北小学校や公民館などがある一角にあった見付端城でした。
 
 戦国時代   中世後期には、戦国大名今川氏が遠江を征服しますが、見付は今川義元に認められた自由都市であったという説が有力なのだそうです。今川氏に代わって徳川家康がこの地を治めるようになったとき、徳川家康は見付に城を作ろうとしたのだそうです(現在の城山中学校がある場所)。ところが、そこには水が出ないことがわかり、浜松に変更したのだそうです。浜松の城を構えた後も、中泉(現在の磐田駅南口付近)に中泉御殿を造り、そこで数々の合戦の戦略を立てたとのことです。関ヶ原の合戦の際も、そこで合議を開き、出陣していったとか。
 江戸時代   東海道の重要な宿場として、見付が発展しました。ちなみに、東海道が、見付宿から不自然に南下して中泉に向かい、そこから西に向かっているのは、上記の中泉御殿があって便宜を図ったからだという説もあるようです。
 明治以降  旧見付学校、赤松屋敷など、明治以降の歴史がわかる史跡も、磐田にはたくさんあります。
 
 この年表を作るにあたっては、磐田市埋蔵文化センターでいただいたパンフレットや「中世の都市と墳墓」(網野善彦・石井進編)「磐田昔がたり」(磐田昔がたり保存会)などを参考にさせていただきました。