旧十ヶ町時代、昭和年代は末尾二の年が鳴鶴軒年番。従って昭和二年、昭和最初の祭は中町が仕切った。大正十五年から「中町」となったが、その前は「東新町」だった。このあたりの変遷や鳴鶴軒山車の歴史などについて以下まとめた。それぞれの町に歴史あり。年番鳴鶴軒頑張れ! |
【龍山村より購入!?】
中町の現在の山車は、古老
の話によれば大正五年頃、龍山村瀬尻で建造され、八年に東新町として購入したという。ただし、それを確認できる文書や山車に書かれた銘などはない。
元中町自治会長であり府八幡宮祭典委員長なども勤めた青島重徳さんは「大正八年の春、只来の坂(現在の磐田郵便局前の坂)を牛が引いて上がってくるのを町民が待ちきれずに迎えに行ったことを父親から聞いた」と話す。「この時は三階の一本柱万燈型(横須賀祢里の型、ただし横須賀では一本柱万度型)で高さも相当高かった」と青島さんは証言する。山車蔵は現在位置の北側(磐田農高正門に向かって左側)に集会所と一緒に建てられ、屋根の鬼瓦には「鳴」の字が刻まれていた。その鬼瓦は平成十四年夏に発見され磐田市埋蔵文化センターに保存されている。
【先代山車はあった?】
青島さんはそれ以前には「中町は山車を有していなかった?」と首を傾げつつ証言するが、明治四十一年の「中泉各字青年世話係協議会」(九ヶ町)に「北新町」として二名出席し「山車と電話線問題」を協議しているので、先代山車は存在したと当研究会では判断する。しかも、本紙第三号で取り上げたとおり、その年は北新町が年番(当時は当番)だったのは、ほぼ間違いない。
大正初期、中泉は山車の新造ブームだった。大正二年に田町が現四輪山車。七年に七軒町が現二輪山車。奥久保の旧二輪山車は八年建造説が有力。九年に西町が現四輪山車。十年に西新町が現四輪山車という具合だ。だから中町が、何かの事情で作ったにも関わらず使用されなくなった瀬尻の山車を、当時瀬尻小学校の校長だった中町在住石川宗平さん(後の中町区長)の仲立ちで購入したという説(青島さん)は十分あり得る話だ。ただし、残念ながら証明できる文書などはない。瀬尻側にそのような言い伝えがあり、しかも一本柱万燈型の山車を製作する土壌があったならば信憑性は高まるのだが? しかし、古老の証言は貴重だ。青島さんは自費出版で「中町百年」と題する本を準備なさっておられるので、楽しみに待ちたい。
【鳴鶴軒】の意味
「鳴鶴の人(じん)」また「鶴鳴の人(じん)」という中国のことばがある。これは遠い辺鄙なところで鳴いてもその声は必ず天上にまで聞こえるという意味で、高徳の君子は隠棲していても名声は世に上がるものだということを意味している。翻って日本ではそれは神そのものを指す。「軒」は車の意味だが身分の高い人の乗る車、つまり御所車をいう。よって鳴鶴軒とは、神の乗られる御神車と解釈される。
(以上、青島さんの説)
【江戸時代は東新町と横町?】
中町は、大正十四年当番記録まで「東新町」と記録されている。単に「新町」と呼ぶ人もあり西新町と区別しにくいなどという理由で改名を中泉町議会に大正十三年申し出た。改称の議決が通ったのは十五年の祭前だった。(磐田ことはじめ第一編町内の風土記・熊切正次著六十七ページ)新町名を決定するのに、「仲町」か「中町」で随分と白熱した議論があったと青島さんは証言する。東新町の前は、「北新町」だったことは、明治四十一年の「中泉各字青年世話係協議会」の議事録に記されているので間違いない。それ以前、「横町」と呼ばれた時代があった。市外の親戚衆に青島さんの家は「今でも、横町の家と呼ばれる」という。江戸時代後期の「中泉記」によれば、見付境から「境松」「東新町」「横町」「東町」と続き、「かどや」(現東町交差点)から東へ「七軒町」と連なっていた。(磐田市史・通史中巻、六〇四ページ)そして、東町から西へ東海道沿いに「西町」「田町」「坂ノ上」「西ノ新町」があった。田町は「久保村」の中心で、北に奥久保(まさに久保村の奥)南に「石原」があった。
以上のことなどから、現中町は東町から分離独立した九番目?の組織加盟町内だったと推定される。栄町が大正四年に十番目町内として加盟した。
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