平成09年度祭典



江戸後期に祭典余興があった確かな証左


「西光寺日記」
 府八幡宮祭典余興の正式な記録「年番記録」は、大正四年以降現在まで残っている。祭典余興の変遷がかなり詳しくわかるが、不明な部分も多い。

 明治時代の記録や祭典に関する文書はほとんど残存していない。ましてや江戸時代に祭典余興があったのか?山車があったのか?それらは、すべて闇の中だ。それでも、なんとか手掛かりはないかと、調べてみると次のような手掛かりが浮かんできた。

 本誌前号で指摘した明治三十年九月十五日の「静岡新報」という新聞記事が、そのひとつだ。それは次のような記事『村社の祭典、磐田郡中泉町は八幡の祭礼にて去る十日夜は市中山車五台を引廻り大に賑ひたり』

 次に明治三十八年頃二年ほど見付に滞在したキリスト教牧師で民俗学者の山中共古(やまなか・きょうこ)が著した「見付次第」の中の次の頁。
『中泉八幡祭礼に曳出せるだしのはやしの調子右のように聞へるなり、スチャコリャドンドン、スチャコリャドンドン 此外の囃子はきかず、何れのだし車もかく囃す』

 このふたつを手掛かりにより大正からさかのぼり、明治の中頃に指令余興に山車が出て賑やかに行われていたことが判明した。

 もっと前の八幡宮祭礼の記録はないかと諸先輩に話を伺うと、あった、ありました。資料名「西光寺日記」。見付加茂川に現在もある寺の昔の住職が書いた日記だ。その明治二年八月十五日の頃にこうある。『前略・・・境松八幡宮賑々敷、屋体出、手踊アリ、夜ニ入、見行・・・』
 
 
 この八月十五日は旧暦だ。現在の新暦は明治五年十二月三日を明治六年一月一日としてスタートさせたものだ。

 明治二年といえば、まだ明治新政府もできたばかり、庶民の生活はそれこそ江戸時代のままであったことだろう。政治の一大変革はあったが、遠州の片田舎に「西洋文化」はやってきてはいない。と、すれば明治二年は祭典余興史の上では、江戸時代後期の継続と考えても無理はない。

 つまり、この日記によって旧暦の八月十五日中泉八幡宮の祭礼には屋台が出て手踊りもあり賑やかに行われていたことが、江戸末期まではさかのぼれたといえる。嬉しいではありませんか。

 見付の裸祭りや横須賀の祭あるいは掛塚の祭は記録上も明らかにさかのぼれるのに、中泉の祭は分からないのでは、無性に悲しかったがなんとか江戸時代のトバグチまでは、先祖たちが山車屋台を曳廻しシチャコリャやっていたのは推定できたのだから。さーてその先。これはまだわかりません。誰か江戸時代の証拠を知りませんか。

 府八幡宮は奈良時代からあり、中泉に庶民大衆、お百姓は家康の昔から住んでいたのは間違いないのだから。

 東町の山車小屋に江戸時代の部品があったようななかったような、そんな話は聞いたことがあるのですが・・・、西町や石原町、田町あたりに古い資料が眠っているような気がするのですが・・・。






中泉村は幕府領     久保村は八幡領


 江戸時代の中泉は、幕府の直轄領の中泉村と府八幡宮の神領の久保村に分かれていた。久保村は現在の田町、石原町、久保町のあたり。それ以外が中泉村だった。久保川に沿った地域が久保村というわけだ。

 ふたつの村は飛び地でつながっていた。東海道が見付から現在の東町の四つ角まで南下し、西町方面に西へ向かっていた。街道筋には家が並び「中泉記」によれば村というより町で、様々な商売屋が軒を並べていたという。家数は幕末近くになって、中泉村が四百数十軒、久保村が百数十軒だった。

 当時の地図には、小字として西町、東町、七軒町、東新町、境松町、横町、田町、西町坂之上、西の新町などが見える。街道の裏側は畑で農村風景が広がっていた。


 明治元年の個数は「中泉町誌」によれば、中泉村五一六戸東町名主二名西町名主三名)久保村百余戸(田町庄屋二〜三名)とある。「久保若、西若東若」という言葉があるが、江戸後期にはこの三若連のみだったのではないかと推測される。

 玉匣社は明治六年に久保若より分離独立、坂之上が明治九年に西町・西若連より分離独立「心誠社」を結成した文章が残されているという。

 中泉町誌によれば、明治六、七年頃に消防組を設置の際、西新町は「志組」東町は「東町火消し組」と名乗ったとある。




 


  磐田市中泉の祭に行けば、様々な型の山車屋台を観ることができる。現在の十六台の山車を型別に類型してみよう。

まず、
@二輪中泉型は東組、騰龍社、明確軒の三町、これは人形がある。

A四輪大唐破風一層屋根型は盛友社、大泉、人形なし。

B四輪大唐破風前一層部分屋根高欄付型は鑾留閣、志組、ただし志組には後にも唐破風がある。人形あり。

C四輪大唐破風前二層部分屋根高欄付型は石溪社、新栄社、旭祥社、人形あり。

D四輪大唐破風前二層部分屋根型は宮本、鴛鴦社、人形なし。

E四輪大唐破風軒搦入母屋造り二層屋根型は心誠社、御殿、泉湧社、人形なし。

F四輪大唐破風前一層部分屋根高欄上下可動式上山付型は玉匣社、人形あり。以上7つの型に分類できる。

 この中で漆が塗られているのが、@の二輪3台と鑾留閣で、あとは白木造りになっている。

 さてmこの類型は、中泉においてどの様な発展をしてきたのか。江戸から明治にかけての山車の型は、よく分からない。東組が明治28年建造というが、確実な証拠がない。他の騰龍社、鳴鶴軒が大正時代建造を考えると、明治中期に@の型が出来上がったとは推定できる。先代、心誠社はこの型で、現在も菊川町で活躍しているが、明治35年建造である。したがって明治の終わりには、すべての山車が@型であったと考えられる。

 大正2年になって、盛友社が中泉初の四輪山車を建造する。現在の山車である。旧盛友社二輪山車は、新道(現・新栄社)に渡った。

 だから、明治期の中泉の祭にタイムスリップすれば、9台とも全部二輪山車であった。このうち現在も中泉にあるのは、東組だけである。旧心誠社は菊川、旧石溪社は大久保にある。旧盛友社は、戦災で焼失。







「大胆な推論」ですが・・。

 旧十ヶ町の成立過程は推論の域を出ませんが、大胆な推定をしてみよう。江戸末期に三若連だった祭礼参加組織は明治の始めに、旧十ヶ町のうち栄町を除く九町に分かれる。

 久保若は田町、石原、奥久保に西若は西町、坂之上、西新町に、東若は東町、七軒町、東新町(現・中町)にそれぞれ分かれ明治時代は九ヶ町時代が続いたのではなかろうか。

当番(後に年番)を決めることになるが、一番は三若時代の流れから、その名を継ぐ奥久保に、トリは中心町の田町とまず決めた。奥久保の次は、西若、東若の伝統を踏まえ、西町東町とし、東町の後は東若の流れで七軒町、東新町とした。次は西若に回し、西若の分かれの西新町、坂之上と続け、久保若のもう一つの分かれである石原にトリ前を持っていき、最後に田町とした。

 大正の初年になって、栄町(当時は新道)が西町より分離独立、新栄社を結成、十番目の若者組織となった。

 すなわち、推理・中泉祭典参加町変遷史を略記すれば、@三若連時代(江戸時代より明治初年)AHヶ町時代(明治初年より大正初年)B十ヶ町時代(大正初年より昭和五八年)C十六ヶ町時代(昭和五九年より現在)ということになるが、これもあくまで推理、推定です。
もっと資料を・・!






「山車」   「屋台」


▼何故、中泉では正式な外交集会では「山車」というのだろうか。遠州地方の祭では、ほとんど「屋台」と言っている。浜松の御殿屋台も、森や掛川の二輪も、掛塚もすべて「屋台」と呼んでいる。何故、中泉だけが、形態のいかんに関わらず「山車」と言うのだろうか。

▼全国的にはもっと別の呼び方もある。「曳山」「だんじり」「山笠」など地方地方で名称は様々である。山車の発祥はものの本によれば、やはり京都だという。天皇即位の大嘗祭に出るそれをマネしたといわれる。それが尾張に伝わり、江戸に花開き、屋 台、山車は江戸時代全盛をきわめる。

▼見付では裸祭の際の練りの前を行くと竹と紙で作ったものを「ダシ」という。横須賀でも練りの上の部分を「ダシ」というそうだ。

▼半田を初め尾張や三河では「山車」と呼ぶ。

▼用語の乱れがあって、我々もつい屋台と言ってしまうが、この際形態のいかんにかかわらず我が中泉では「山車」に統一したいものである。




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