平成07年度祭典



ある日の祭・年番記録より (大正12年


 中泉の祭典余興の正式記録は「年番記録」として大正4年以降が残っているのみです。
 この「記録」をもとに、過去の祭を再現してみましょう。
今年は阪神大震災がありましたが、あの関東大震災のあった年の祭は、余興が行われたのでしょうか?


 大正12年(1923)の「年番」(当時は当番)は、久保町(当時は奥久保)でした。震災の日は9月1日、時あたかもその日は「八朔集会」(各町外交集会の初会合)でした。午後7時開莚楼で開会、11時に何事もなく終わりました。

 当時の情報伝達は遅く、東京の惨状はまだ伝わっていなかったのでしょう。おそらく、若者たちは今年の祭への期待と意気込みを、おいしい酒で語り合ったことでしょう。

 しかし、大被害が判明するにいたり、9月5日「四ヶ町提案」により「余興中止」を決定。ところがいつの時代も若者の気持ちは同じ、祭の日が近くなると若者たちは山車の準備を始めるようになってしまいます。

 そこで再度協議することとなり、今度は決定を覆し「決行」を内定(六ヶ町が賛成、当時の規約では過半数の賛成で承認)しますが、重要事項なので各町に持ち帰り「中老」に相談します。中老は八ヶ町が「だめだ!」と若者とは反対の姿勢です。これが、9月28日のこと、当日まで三日しかありません。

 一方、中泉町当局も若者の動きを心配、当時の長沼町長、総代、社務総代らを公会堂に集め対策を協議していた。午後8時半、町長は年番を呼び出した。年番久保町の若者代表と対したのは、町長、助役、社務代表三人の合計5人、町長が見解を述べます。

「今度ノ大震火災害ハ日本ノ有史以来ノ大天災ニシテ羅炎者ノ救助ニ心痛ナシツアル秋ニ祭シ是非本年ノ處ハ余興引回シノ件ハ遠慮有之度・・・・」

 要するに「山車引回しはするな!」ということでした。これに対し、年番は各町若者、中老の考えを申し述べたことでしょう。別れ際に町長が云います。「万が一引回しを決定する場合は相談したい、その場合は公会堂に各町集まるように・・」

 この後、若者と中老の意見相違、間に町内幹部が入り折衷案の提示など紆余曲折がありますが、結局「強行すれば、官憲の力も借りる」という町長の「断固だめ!」に負け、9月30日の夜中、各町臨時集会は以下の決定断念します。


  【 五 箇 条 】 

一. 本年度は各町会所を廃する事

二. 太鼓を叩かない事

三. 御輿の供をしない事

四. 抽選を行なわない事

五. 各町共、何ら行動をしない事



 さて、この後大変な事件が発生します。10月2日、西町青年が底抜け屋台を引き回してしまいまったのです。

 夜11時三ヶ町より「西町問題」を取り上げるよう提案があります。まずいことに、西町は町長の地元でした。翌日開莚楼で西町不参加で緊急臨時会議が持たれ「町長の責任を問う」ことを決定。午前4時に町長宅を訪問するが、風邪を理由に出てきません。午前八時、町長は年番を呼び、自分に責任がないことを強調し、西町青年にはその責任を徹底的に追及することを「各町組長総代会議」で決定したと発表。年番はこれを各町に伝達しました。


 【友情を持って復旧成立!】

 5日、西町中老が年番を訪問。その説明によれば、町長は西町青年の責任を明白にするために、西町自治団体に解散に近きまでの鉄槌を下すことにした、青年が改心するまでこの状態にするという。 西町中老は、沈痛な面持ちで「もはやいかんともしがたい」とつぶやき「年番より友情をもって善後策をとってくれないか」と頼みます。

 年番は、早速久保町集会所に各町を招集し、議論の末「友情を持って復旧の件を努力すること」を決議し午前1時に閉会。

 翌日夜、西町集会所に火くっちょう若者代表が集合し、西町総代と面談しました。年番は経緯を説明、西町総代は各町の友情に深謝し、委細を委任すると頭を下げました。西町中老にこれを報告し、西町若者の団体としての復旧が成立しました。

 以上が大正12年の「年番記録」に伝わる祭の頓末です。今年阪神大震災がありましたが、半年以上たったこともあり「祭を遠慮せよ」などという人はいません。祭は逆に地域のコミュニケーションをつくる場として見直されています。

 ところで、念のために申し添えますが、この記事は「西町」を侮辱するものではありません。もし気を悪くしたらお許し下さい。いつの時代もどの町内もルールを守り、各町仲良く祭を続けることが大事だという意味で、大正12年の祭を取り上げました。誤解のないようにお願いします。







【古き良き祭が残っています】

 中泉の祭の特徴は、良くも悪くも「世話係」が祭の殆どすべてを決め実行することです。

 毎年毎年の山車の運行方法・コースは、若者たちの汗と徹夜と駆け引きの結果です。

 さて、今年のコースから「見所」を拾ってみましょう。今年も残念ながら十六台すべて揃うのは、二日目の千秋楽だけです。八幡様に夜八時半過ぎに」は、鳥居から参道に全長の山車が並びます。

 初日は三班に分かれて行動しますが、夜のジュビロードには必ず山車がいます。昔から言ういわゆる「西班」の重厚な山車を見たい方へのおすすめスポットは、初日の八時過ぎ開莚楼から北へ行った橋のたもとで、坂上町から久保町へ「だらだら坂」を降りてくる場面です。暗い坂をゆっくりと数台の坂山車が重なるように下ってくるのは、風情と懐かしさが漂います。

 また、久保川沿いを動く山車、石原小路(通称・お祭り小路)をくねくねと行く山車、古き良き中泉とその祭を残しています。山車そのものの見所は、田町のアセチレン・ガスの炎、虎の幕、彫り物。坂上町の豪華絢爛さ。

 石原町西新町の圧倒的な人数によって盛り上げる山車運行の見事さ。お囃子や掛け声のかけ方も、待ちによって違いがありますから、そのあたりを注意して見るのも一興です。今は失われたという「中泉囃子」の叩き方をする人がいるのも、西班の山車です。


【ジュビロードで露天をのぞいてお祭り最高】

 いわゆる東班の山車では東町、七軒町、中町が二輪で「中泉型」の高欄式、当地独特のものです。森や袋井とは、まったく違います。西町の漆を塗った前二層の四輪の山車も当地の独特なもののようです。 

 各町の人形を見るのも楽しいものです。東町の山車には、府八幡宮のご神体である応神天皇など日本の神話の原点が乗っています。







▼人間ふるさとの思い出は、やっぱり「お祭」だ。その祭を楽しくみんなでチョット研究してみようと、我が「玉匣社祭研究会」が発足したのは、去年の正月でした。以来毎月一回春夏秋冬お祭について「あーだこーだ」とやっています。特に今までは、新山車建設に力を注いでまいりました。現在の久保の山車も今年を入れてあと三年です。どうかじっくりと見ておいて下さい。これから力を入れたいのは、「祭の歴史」です。痛感するのは、資料がないことです。どなたか資料をお持ちの方、または昔の祭を語ってくれる方、ぜひともご連絡下さい。

▼それから、「祭の改革」が進まないというのも、いつもでる話題です。先輩が後輩に遠慮してだーれもなんにも言い出さないので進歩がなく、百年一日のことを繰り返しているのが、中泉の祭りです。世話係制度は絶対残さなければならない伝統ですが、世話係を超えたところで「改革」に着手しなければ、だめだと思います。

▼祭りにもっとクライマックスが欲しい。伝統を守りつつ新しい何かが欲しい。それにはそれを考える場が欲しい。現在の祭典委員会は、その役割を忘れています。しかも、その改革は市、商工会議所や観光協会を当てにしているようではだめです。祭り組織、中泉地区自治会の中から、内部からの改革意識でなければだめです。

▼さらに二之宮と京見塚と早く統一祭会議をおこすべきではないか。それぞれの神社代表は、すぐに同じテーブルにつくべきだ。日本は八百万の神の国だ、余興の祭を一緒に仲良くやって、喜ぶことはあっても怒ることは絶対ないはずだ。

▼祭改革に知恵を出そう。汗を流そう。そうしないとこれからの青年たちは、祭はおもしろくないと言って、他へ流れてしまいますよ。昔みたいに祭馬鹿がいなくなってしまいますよ。人々が地域を愛することから、地域の発展があるのだから・・・。



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