平成22年度祭典

<2010/お祭新聞15号/1面記事>




天平の香り 府八幡宮
二度目の年番を迎えて


祭典委員長 大橋 忍


初めての年番を迎えたのが平成6年、今から16年前の事です。それから数えて二度目の年番を今年迎えることになりました。年番の大役をお引き受けして、身の引き締まる思いをしております。

御殿に新しい屋台を造ろうとの話が出たのが、確か昭和50年初め頃、そして多くの区民による協力があって、ようやく昭和五15年
(1980)御殿地区に待望の屋台(山車)が完成しました。御殿が西町から独立して以来45年ぶりのことでした。

府八幡宮のお祭りはいつ頃から始まったのかははっきりしませんが、江戸時代末期には屋台が出て賑わっていたとの事です。
明治39年
(1906)の静岡民有新聞には「中泉八幡祭、さる10日に執行せしむ。山車6台を引き出し、なかなか賑やかなりし」と伝え、静岡新報には「市中山車六台を引き廻り大いににぎわいたり」とある。
 元々は夏祭りであった。

ライバル関係にあった見付天神の祭典は旧暦の8月9・10日、府八幡宮は五日遅れの旧暦8月14.・15日でした。しかし、新暦採用に伴い、明治6年から42年までは旧暦にあたる日、明治43年から大正10年までは9月14・15日、大正11年から昭和37年までは10月1・2日、昭和38年からは現在と同じです。

御殿地区が西町から独立したのが昭和十年でしたが、府八幡宮祭典だけは西町に属していて、云わば間借り状態で参加していました。
 しかし、昭和四十三年に間借り状態は解消され、御殿は参加資格がなくなりました。とはいうものの子供の頃から親しんだお祭りを忘れる訳にはいきません。

御殿でも自前の屋台を造ろうという気運が高まってきました。多くの町民の協力があって昭和55年2月に建造に着手、内山三津雄棟梁の手による豪華にして優美な屋台が9月に完成し、10月の府八幡宮祭典でようやくお披露目となりました。
 府八幡宮祭典10ヶ町組織への参加が正式に許されたのは昭和59年です。この年から6ヶ町が一緒に参加して、16ヶ町組織となりました。
 そして10月の声を聞けば御殿っ子の血が騒ぎます。府八幡宮のお祭りです。

この神社は1300年近く昔の天平時代に最初の国司桜井王が着任されました。文献によれば八幡宮は大分県宇佐八幡宮を起源に仏教の布教に伴って寺院を護る役目を担い、全国各地に建てられていきました。中泉の府八幡宮も遠江の守護神として奉られたものです。

その後、勝利をもたらす神として武士の崇敬を集めました。日本最大神社数を誇る八幡社の中でも「首都の八幡様」(国府=首都)を意味する「府八幡宮」は他に例がないそうです。その様な権威ある神社の祭典年番がいかに大事なものかと痛切に感じた次第です。

どうか本年も各町内の皆様のご支援、ご協力を賜り、楽しい府八幡宮祭典が催行されますことを願ってやみません。最後に今年の祭典が事故や怪我のない楽しいお祭りとなるよう私共御殿地区一同精一杯勤めてまいります。

 





御殿大老会 鈴木 均


【御殿のお祭り】
早いもので前回の初めての年番から16年も経ってしまいました。思えば私が御殿の世話係として参加したのは昭和50年の事です。まだ、その頃は二之宮・宮本の山車を買い取り、引き回しを行っていました。

そして、その頃は当然現在のように16ヶ町組織ではなく、まだ旧10ヶ町の他に宮本さんと御殿しかありませんでした。  昭和55年に現在の山車を建設する事となりましたが、その頃の世話係は鑾留閣のような山車を希望しましたが、なるべく大きい山車が良いとの意見により、現在の形の山車となりました。

御殿が山車を作った後、次から次へ山車の新設や購入が始まり現在の16ヶ町になりました。その頃御殿は旧10ヶ町に追いつけ追い越せの合言葉のもとにお祭りを勉強して10ヶ町のコースの後を付いて引き回しを行った事もあり、苦労をして経験を積んで行きましたが、その経験や付き合いが後に大変役に立つとは、この時は思ってもみませんでした。

そして昭和56年、盛友社年番の時に「八朔集会」後の宴席に初めて参席をさせて頂く事になり、開莚楼に正装で出掛けた事を思い出します。

そして、昭和59年に16ヶ町組織になりましたが、その年の手打ちを鑾留閣会所で行っていた時に、御殿が使用していた二之宮・宮本の山車が火災になり焼失した事も思い出されます。

【十六年前の年番】
私の中で一番の思い出は平成六年の御殿として初めての年番です。たまたま中老委員長の年に当たり年番中老委員長を務めさせて頂く事になり、中老八朔から始まって浜垢離、祭典当日、手打ちまで、なに事も無く、各町さんのご協力のお陰で無事役割を果たすことが出来ました。

また、御殿町内の皆様のご理解ご協力、また世話係、大老会の協力と一致団結で御殿の初めての年番を終えることが出来ました。
特に年番総務が毎日私の仕事場に顔を出して打ち合わせをした事が印象に残っています。

あれから16年があっという間に過ぎ二度目の年番を迎える事となりましたが、前回同様、自治会、世話係、中老会、大老会が一致協力して本年度も無事事故も無く、祭典が執り行なわれる様になる事を期待しています。

最後に中泉の祭典の八朔集会から手打ちまですべての伝統を絶える事無く伝えていって欲しいと思います。本年度の祭典も多くの人が参加し、また見学者も多数来て頂ける事を祈願致します。

 





遠江いずみ會会長 杉本 洋


遠州地方に古くから伝わる祭囃子「三社ばやし」は、掛川市横須賀が発祥の地とされ、その歴史を調べると江戸祭囃子にさかのぼります。
私達の會“遠江いずみ會”は、その「三社ばやし」をこよなく愛し、磐田市に伝承していこうと昭和46年11月磐田市中泉に在住する若者数人が中心となり発会しました。会員は現在18名、全員が自他共に認める熱狂的な「お祭り人」です。

會の稽古は月2回、下万能の公民館をお借りして第二、第四木曜日に行っています。普段の稽古は、笛・太鼓・四助等を用いた基本的なお囃子の稽古を行っていますが、芸術祭への出演やイベント等への参加前には手古舞を交えた総合的な稽古を行います。
お囃子の中で最も難易度が高いのが笛と言われています。笛は一通りの曲目を覚え、何とか形になるまでに10年の年月を要します。

私たちが伝承する笛の流派は「中野川流」といわれ、その昔、江戸角界の力士である「中野川壮八」という人が吹いたことからその名が付いたといわれています。
この流派は掛川市横須賀の「遠州横須賀豊會」、袋井市の「遠江しのぎ會」が共に伝承し、年に一度「中野川流兄弟會」を行い、 互いに交流を深めております。

笛は一般には市販されておら ず、篠竹を使った「一本調子篠笛」より太くて長く、独特の音色を持っています。
竹材は遠州地方の北部山地に自生する淡竹という竹を使用し、竹材の調達から製作・調管にいたるまで全て自分の手で行います。最近は山林の開発が進み、以前は良い竹が採れた竹林も笛に適した竹材を探すのに苦労するようになりました。
採寸・油抜き・乾燥の工程を経て笛の製作にかかります。管内の塗装・藤巻きを施し完成となるわけですが、笛はここからが始まりです。つまり10年、20年と一本の笛に愛情をこめて吹き込んでこそ初めて自分の一生のパートナーとなるわけです。

今でも十数名のお弟子さんたちと共に週に三日、笛の稽古を一年中行っていますが、どんなに稽古を積んでもこれでよいというところまで到達することが出来ません。つまり一生精進なのです。
私も昨年還暦を迎えましたが笛の奏者として60歳などはまだまだです。若い頃よりは息の力は当然落ちてきますが、遠江いずみ會の師匠がよく言った「音色にさえ」が出てくるのは、これからも一生懸命精進してやっと70歳を過ぎた頃からではないかと思います。その頃に自分の笛がどう成長しているか今から楽しみでなりません。


  


遠州中泉祭研究会
「まつり見学」富山市編


研究会メンバー八名は一台のワゴンカーに乗り込み、五月二日午後十一時に中泉を出発、越中おわら風の盆で有名な富山市八尾町に向けて東海北陸自動車道を走り、朝五時に富山ICを出て、朝食と休憩をかねてレストランへ、その後、六時半には目的地の八尾町に到着。

しかし、すでに交通規制
(朝6時~夜12時まで)が始まっていて町中には入れず、地元の人に案内をお願いして、なんとか旅館裏の空き地に車を止めて、大急ぎで一キロほど離れた聞名寺境内へ、すでに三台の曳山が境内参道に並んでいた。次々に集まってきた曳山の曳き回しを見学して驚いたのは角を曲がるとき、合図と共に一気に九十度の角度にスライドさせて曲がる。ガッガッガーという音と共に車輪がうねり、路面に木製車輪が削られた木屑が残る。

心地よい青空の下、六台の曳山が勢ぞろいした境内には、すでに集まりだした観客が曳山に見入っていた。
高さ約七、重さ四、曳山一面に彫金と色彩を施した木彫が飾られ、車輪にも黒漆と彫金を施し、上山には思い思いの「人形神」が祭られ、神様の前には「神係」という神様をお世話する人が二人と「曳山大工」「柱係」が乗っている。下段一階の簾の中には囃子手が六名ほど乗り込み、笛、太鼓、三味線による曳山囃子が演奏される。下段背面には「大彫」と言われる見事な彫刻が飾られていて、その豪華さに圧倒される。

祭は一日だけで終わるので朝早くから夜遅くまで街中の家々を鏡町の獅子舞が角付けをして回る。獅子舞は、二人立二匹で追い手が付く。「追い手」は、小学生低学年が化粧をして赤い太めの鉢巻き、腹掛けに長襦袢、縦縞の追っつけ袴、祭足袋、両手にハタキを持つ。獅子にハタキでちょっかいを出す仕草がかわいい。

八幡社境内で舞を奉納し、聞名寺に行き、境内で行われる神幸祭の式典の後、朝九時半に出発、神輿を先導しながら各所で角付けをして回る。獅子は、道を清める魔除けの役割を担い、 獅子舞、神輿、曳山と続く、八尾曳山祭は、八幡社の祭典であるが、祭り当日の朝、曳山が集合するのは聞名寺の参道、神輿の渡御の出発に当たっての式典も聞名寺の参道前の道路で行われる。八幡社の前には階段があって、境内に入れないこともあるが、これは神仏習合の名残であろう。

電信柱のない石畳の町並みは、半日もあればすべて見られる程の小さな街である。昔の町屋や和風建築が多い家並みには、「建具屋」「金物屋」「彫物屋」「ぬし屋」などの職人の店も数多く残っており、曳山が良く似合う。

夕方、神輿渡御、曳山巡行も予定通り終了し、十三石橋の袂に到着した曳山は、お役目を終えた人形神のお顔には和紙の覆いが掛けられ、すべての彫刻を取り外し、四百数十個の提灯を取り付けて「提灯山」に替わる。 昔ながらの街並みに曳山が調和し、夜は提灯山が幻想的な趣を醸し出し、提灯山が闇間に浮かび上がる





                     
▼様々な業界には、そこでしか通用しないことばがある。いわゆる「業界用語」である。長い伝統を持つ祭りにも、それがある。隠語といってもいいが、ともかく独特のことばや言い回しがある。半田の亀崎ではあの豪華な山車の引き回し中に「ハマ!ハマ」「ヤマ!ヤマ」と掛け声が入る。何かと問えば、道中、海側に寄る時は「ハマ」で、山側に寄る時は「ヤマ」なのだそうである。

▼中泉地区の古い地名や昔の名残が、現代の「世話係」 「外交」にも引き継がれている。この世話係自体も粋に「せわけ」と呼ばれる。

▼田町から石原に抜ける小路は「お祭り小路」。クネクネした狭い曲がり道が山車の運行を遅くし、山車前の練りが最高潮に達するから、こう呼ばれるのだろう。

▼田町から栄町の小路は 「次郎三小路」
(じろさんしょうじ)、坂上町から久保町へ抜ける小路は「ダルマ小路」、そのダルマから久保町へ下る坂は「ダラダラ坂」、その下の四つ角が「井戸尻前」、右へ曲がれば「川端」、まっすぐ行けば「六叉路」、さらに宮へ向かって進めば「旧中電ウラ」となる。

▼ただ「四つ角」といえば、「メイン」? の東町アース交差点だし、磐信前は「白道」(シロミチ)で今も通用する。西新町の 「旧ワタゼン」から「軌道」へ向かえば石原町だ。

▼それぞれの地名に、それぞれの年に、それぞれの町に、それぞれの山車にそれぞれの祭り人にいろいろな苦い記憶、楽しい思い出、つらい準備の日々が刻まれている。

▼ある年の祭り、いよいよ千秋楽、西班を目のカタキにしていた東組の若い衆が駅前に顔を出した先頭の石渓社の山車を見て叫んだ!「ニシが来たぞ~」その嬉しそうな顔!

 シチャコリャ!           
(七屋狐狸也)


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