平成21年度祭典

<2009/お祭新聞14号/1面記事>



二度目の年番を迎えて・・・
 
祭典委員長   河上 秀夫  


 平成5年に初めての年番を迎えて、今16年前の出来事が昨日のことのように思い出されます。何もかもが初めてのことで町内に指導して頂ける方もおらず、各町の皆さんにご指導頂きながら苦労して年番業務を行ったことを記憶しております。

 年番を迎えるにあたり、昭和59年度に故金原敏雄氏を委員長とした山車建設準備委員会を立ち上げて地域住民の各層各界のご意見を集約して、60年4月に工匠・小池清師と契約がまとまり、着工となりました。

 翌61年4月には、彫刻、装飾等が決定し、浜垢離当日に竣工式を挙行致しました。

 彫刻は、愛知県安城市の故鈴木嘉一氏の76歳の時の作品となっております。

 幕に関しては、昭和63年6月に準備を始めて、平成元年5月に京都川島織物より下絵の原画三枚が送付され、同年の祭典で披露されております。

 今年の宮本の手拭いは、この時送付され保管されている見送り幕の弁天様の原画を元に作成されております。

『幻の二輪山車』

 また、実現しませんでしたが、以前より横須賀の椿井流太田先生にお世話になっていた経緯から横須賀から人形を頂き、山車を二輪にて建設する構想もありました。この話は設計図作成に至ったものの、終焉を迎えてしまいましたが、宮本の山車が二輪で建設されたいたら、どの様な曳き廻しを行っていたのか想像するだけでわくわくします。

 そして、外交集会を開催するにあたり、旧中央町集会所が手狭であり、控え室もないことから、平成4年9月23日付で世話係より自治会に対して請願書を提出し、当時の古澤孝二自治会長を建設委員長として、無事竣工し、年番の年は現在の中央町自治会館にて、無事に『八朔集会』を開催することが出来ました。

 これらの建設に携わった多くの方々のご尽力により、平成21年度に宮本が二回目の年番業務に携わることが出来ますことを心から御礼申し上げます。

『御幣返しの儀』

 本年は、「御幣返し」を神事として執り行いたいという府八幡宮の御意向を汲み、復活する運びとなりました。これは平成11年年番の玉匣社さんが「御幣」を復活させて頂き、10年が経過し、定着して参りましたので、その発展に携わることが出来ましたのも、各町さんのご理解とご協力があってのことであり、感謝申し上げます。

 また、昨年年番の新栄社さんが63年ぶりに山車が御神輿行列の後に続き運行する『供奉』を復活させてくれましたし、平成17年度年番心誠社さんが『昼宮』の行事を立ち上げてくれました。宮へ訪問し、奉納をして頂いている各町さんを含めて、外交集会で決定されたコース以外の時間でお宮の行事へ参加されている各町さんに対して、宮本と致しましては、お宮を盛り立てて頂き、大変感謝しております。

 本年もより多くの町内さんの参加を心待ちにしております。
 最後に府八幡宮大祭成功という共通目的に向かって、ご尽力頂いている各町の皆様におかれましては事故や怪我のない楽しい祭典となるように、ご協力をお願い致します。





宮本の祭の起源について

氏子総代 左口 千善



 宮本の祭の起源はどんなだったかを考えてみました。
 中央町・宮本としての府八幡宮大祭への関わりはいつ頃からなのか確かなことは不明ですが、自分の記憶では小学校5、6年の頃だと思っています。

 昭和23年に市制が引かれ、見付境松と中泉側が一つになり、中央町が誕生、これにより宮本としての独自の祭として活動が始まったと思います。町内廻りを主とした山車の曳き廻しから手踊りの披露等々でした。

【山車購入】

 この昭和23年に作成された宮本会所の幕と山車購入の寄付者名簿と思われるものが、数年前に国分寺社務所の片付けの際に発見されました。
 昭和30年始め、見付住吉より先代山車を当時の世話係の方々が自治会と話し合い、購入したと聞いております。

 それまでは世話係一同が住吉まで足を運び、木曜日夜に山車を借りに行き、月曜日にお返しに行っておりました。

 この時の話ですが、借りに行くときは祭のことを想い、楽しさと嬉しさで住吉までの道のりが短く感じられ、自分一人でも自町へ引いて行けそうな元気さでした。ところが祭が終わって返しに行くときの惨めさ、気の重さ、空の山車がこんなに重いとは・・・。
 当時の世話係の人達は大変だったと思います。感謝、感謝です。

【七遣え半】

 今現在でも府八幡宮大祭の当日には府八幡宮に見付矢奈比売神社より神職の方がみえられておりますが、前総代より聞いた話では、宮本の一員が神職のお迎えの使者として行っていたと聞いております。

 その儀式を『七遣え半』(ななむかえはん)と呼び、何度お迎えに行っても「まだ時間があるから行かなくてよい」と追い返され、八度目の道半ばでようやく神職の方々がお宮を出られて、こちらに向かって歩いてこられ、見付本通りの半ばでお迎えして、府八幡宮までお連れしたという事でしたが、先代もお亡くなりになられて『七遣え半』の話を知る者が町内でもいなくなり、口伝えで知る者が数名いるだけとなってしまいま
した。

【新山車建造】


 その後、16ヶ町組織への参加が認められ、町内世話係、中老、大老、祭典関係者よりの強い要望が実り新山車の建設が実現しました。昭和61年に念願叶って新山車が完成され、内外の関係者一同が参列されて晴れて入魂式、お披露目の日を迎えました。式典の後、参列者が見守る中、町内を曳き廻し、多くの人々に祝福されました。

 その後、新たに山車の横幕、見送り幕、発電機、木口の飾金具の取り付け等の追加新調を行い、完成に至っております。
 山車の新造を機に町内全体に活気が出たように感じられました。

【心意気】

 今後も色々な面で町内全体で何かを成すことが大切だと思います。町民みんなが力を合わせ、熱い思いをたぎらせ、心が一つになった時、予想以上の力が生まれます。

 府八幡宮大祭年番という大役を無事努められることを念じて、今年の祭を見守りたいと思います。安全で楽しい祭を願っています。



  

社寺屋台企画製作 小久江 章次


 遠州地方は数多くの山車屋台を有し、春から秋にかけて各地で盛大な祭りが繰り広げられる。各町には自慢の山車、屋台があり、そこに集う祭り人の熱い心意気が脈々と受け継がれ、それぞれの歴史と伝統を継承し今日に至る。

 小久江章次氏(磐田市見付富士見町在住、60歳)は宮大工として社寺、屋台を手掛けて以来39年の経験をもち、現在、磐田市一言に作業現場を構え各地で活躍中。3年前には浜松市若林の屋台修復工事を、また平成18年11月から8ヶ月にわたり、浜松市天王町中の屋台修復工事も手掛けた。

 天王町中の屋台は明治19年(1886年)に長上村天王新田(現在の天王町東)の名匠斎藤太代吉により製作され、120年もの長い年月、町民のまとまりのシンボルとして町民に大切にされてきた屋台。

 太代吉は若い頃に京都東本願寺の建設に加わる中で技術を磨き、後に屋台(当時は引舞台家型と呼ばれていた)を手掛けるようになった。

 当時の屋台の形は掛塚屋台に代表される六本柱一層大唐破風屋台が多く、明治14年に六本柱一層大唐破風屋台を天王(天王町西の昔の屋台)の依頼で製作した後、当時としては画期的な八本柱二層唐破風屋台を明治15年に天王新田(天王町東)、明治19年に下堀(天王町中)、明治22年に雄踏町小山の依頼で製作している。

 八本柱二層唐破風屋台と言えば今では浜松まつり御殿屋台がその代表的なものだが、浜松まつりの御殿屋台が最初に作られたのが昭和の初期であることから、太代吉が製作したこれら3台の屋台は浜松まつり御殿屋台の基本形になったのであろうと言われるもので、歴史的価値のある屋台と言える。

 また、天王町中の屋台の見所は扇垂木の技法で一層めの軒は二軒で垂木が中心から両隅にかけて放射状に配列され、日光の陽明門と同様の技法である。

 二層唐破風造りで浜松の御殿屋台の原型となる貴重な屋台、平成の大修復に携わり、豊かな経験と本物への拘りをもち、丁寧な仕事で見事に甦った。
また、新たに御簾脇、組子、欄間、脇障子など山梨由博氏(祥雲50歳)の手による彫刻が加えられた。

 便利な道具のない時代、匠の緻密な設計と高度な技法を駆使した。「昔の屋台修復を手掛けることによって、先人の知恵と苦労を学び、現在に活かすことができ、たいへん勉強になった」と小久江棟梁は当時を振り返りその思いを語った。

 修復総工費は彫刻も含め1,700万円を要し、平成19年7月26日めでたくお披露目され、完成を祝い記念誌も発行された。






▼久保町の「湯川荘」が幕を閉じた。田町の「開莚楼」も建物が取り壊され何年経ったろうか。中泉の老舗料亭が失われてしまった。

▼府八幡宮大祭の余興祭事は正式には九月一日「八朔集会」に始まる。その年最初の外交集会である。名前の通り、本来は八月一日に行われた。明治の初め旧暦だった頃には、八月十四・十五日が祭典日だったから、余興祭事初めは二週間前に行われていたわけだ。

▼「八朔」は農事の区切りであり、家康が江戸入りをした日として祝い事の佳き日とされ、京都では芸事の祝い日でもある。大概、八朔集会一回で決定し、手締めとなり、祝宴を開いた。「スルメ」は各町に持ち帰られ、世話係は味を噛みしめいよいよ祭礼余興の準備に入った。

▼臨時外交集会なるものが毎度開かれるようになったのは、戦後である。山車運行に関する件のみを残し、八朔集会は議事を終了、外交顔合わせの宴会となった。

▼文献初出の八朔集会会場は大正十年「開莚楼」(当番・田町)、同十一年(栄町)、十二年(奥久保)も「開莚楼」十三年の西町は同町駅前の「友愛館」。
 十四年東町は同町駅前通りの「鳥伊三本店」十五年七軒町は「中活亭」、映画館・中活劇場に隣接してあったのだろうか?

▼昭和二年中町は、西町「魚弥太」、三年西新町は同町「小清水」四年の坂之上は「開莚楼」だが、揉めた集会となり祭り間際田町「フレンド」で手締めとなった。

▼五年石原は同町「松葉楼」六年田町はやはり地元の「開莚楼」で開催した。 ああ、懐かしき店の名前!あるいはそんな店あったの?という驚き!私たちが今も受け継ぐ『年番記録』は、中泉庶民史の宝庫なのです。

 シチャコリャ                         (七屋狐狸也)



「湯川荘」判治直記



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