平成20年度祭典

<2008/お祭新聞/1面記事>




お祭への想い、それぞれに

新栄社・大老


平成20年府八幡宮祭典おめでとうございます。
ブラジル人の何とかという人の予言もめでたく外れて、無事お祭りを迎えることができ、ご同慶の至りです。

遠州中泉祭研究会の皆様には永年、府八幡宮祭典(八幡さまのお祭り)の啓蒙にご尽力頂きありがとうございます。
この新聞を手にされた方は、お祭りの参加者か見物にお出での方が殆どと思います。
参加者は町内の付き合いでやむなく、から、梁塵秘抄の「遊びをせむとや・・」ではありませんが、「祭りをせむとや生まれけん」の心意気で「お祭りをするために1年間働いて」いるような人までいろいろと思いますが、夫々に必然性を持っています。

では、お祭り見物の方はどうでしょうか?私は「真剣にお祭りをやり、真剣に楽しんでいる人たち」を見にお出でになっているのではないかと思っています。
お祭りに「町内」や「男」といった何の利益にもならないものをかけ、むきになって頑張っている姿や、緊張の間にふと生まれる心からの笑顔は他の時には見られないものです。
『八幡さまのお祭り』が他所と大きく異なる点は若者達が絶対的な中心として取仕切るところです。

若者達は「世話係」(通称「せわけ」)と云う役名で、中でも『外交』という青色
(年番は赤色)の提灯を持っている青年達は、団体での山車運行方法(コース)を約一ヶ月間かけ、5分の時間に拘って協議決定し、お祭り当日は秒単位に拘った運行の指揮をとっています。その他の世話係も夫々の役割を持って真剣にお祭りをしています。

最近のお祭りについて八幡さまのお祭りは長い歴史を持っていて、伝統を守っていこうと云う人達が大勢いますので、多くのしきたりや慣行があります。伝統を守ってこそのお祭り、が基本ですが、過剰なものや、環境の変化により現実と合わなくなったものもあると思います。

(ひ)入れ:夜間だけに山車の団体行動を行っていた頃の名残で、昼間のコースでも提灯その他を点灯していますが、「灯を入れる」ことが相手町内に対する敬意という考え方は、もうそろそろ見直しても良いのではないでしょうか。もちろん、夜間の運行時間を増やす努力をすることが最優先です。

年番間隔:従来の10年間隔から現在は16年間隔となっており、各町内での後継者養成が難しくなっています。そうは云っても良い対策方法はありませんが、例えば、正副の年番を8年間隔で担当するなど何らかの対策を考えても良いのではないでしょうか。

因みに、本年の祭典委員長 加藤孝司氏は年番外交議長、年番中老委員長を務めたという、豊富な経験をもっていますが、今のままではこのような方は二度と表われないと思います。

【年番新栄社】
本年年番の新栄社は住民の少ない小さい町内で、世話係の数も少ないため、毎年、一人一人が多くの役割を担っていますが、特に今年はたいへんで、おそらく祭りを楽しむなどと云う余裕は全くないと思われます。

それだけに、思い切り真剣な顔と、一つ一つの事柄がうまくできた瞬間の最高の笑顔を見せてくれることは間違いありません。
感激の新築から25年目を迎えた新栄社の山車周辺だけでなく、至るところで法被の背中に「榮」の文字を背負った世話係とそれを支援する中老、大老にぜひご注目願います。






【栄町旧山車と掛塚・小栗熊太郎棟梁】
当時中泉町の中心商店街として賑わった田町が、大正二年に新山車を建造したことを受けて、栄町が旧山車を購入した。それが今年の祭ポスターに掲載されている旧山車である。
(以下の写真)

       

栄町が、西町と田町の一部を区画して独立するための請願を出したのは、掛塚往還
(竜洋〜磐田)の中泉地内完成がきっかけであった。明治22年の町村制度施行の際、旧村を大字とする県令により、独立しても大字となることができないとして、内容的には、行政区としての新町設置の栄町申請であった。
請願後10年余り経った大正4年になってから、中泉町議会では新町設置を議決、栄町として独立した経緯がある。それ以前は、西町の一部で掛塚往還が完成当時は「新通」とも呼ばれていた。

さて、大正4年栄町が加盟したことにより、府八幡宮祭典も10ヶ町組織となり、大正11年には栄町として最初の年番を務めることとなった。
ところで、平成17年3月1日に発行された竜洋町史民俗編を編纂する過程で、中泉の山車に関わった小栗熊太郎という棟梁の記録が発見された。そこで掛塚小栗家末裔の小栗庄一氏のご承諾を得て、町史510頁より515頁までを抜粋引用し、栄町旧山車との関わりをご紹介します。

【掛塚大工と屋台 小栗家】
(以下、竜洋町史抜粋文)

掛塚の本町は、職人の町であった。なかでも大工、建具屋、鍛冶屋が多かったが、いずれも材木に関係した技術職である。そのうち大工職、建具職は現在でも残っているが、鍛冶屋は消滅してしまっている。のこぎりや釘を作る鍛冶屋は、弘化2年
(1845)の資料では、本町で七名を数えることができる。

小栗家
(現在の当主は小栗庄一さん)は、代々大工職を伝える家柄で、17世紀のころからその道で活躍していたことがうかがえる。その根拠の一つは、正徳元年(1711)の神社棟札に、「大工 掛塚町 小栗三郎左衛門」という名前が記されていたことがあげられよう(門奈静家蔵「平間村八幡宮棟札写」)

いまひとつは、小栗家に伝えられる資料の中に、元禄13年
(1700)の手引書が残されていることである。建築技術は、江戸時代の初めまでは、大工棟梁家が一子相伝の秘伝書によって伝えてきたが、17世紀の中頃、その秘伝書をもとに「雛形本」が板行され、その技術も全国に広まることになったのである。

小栗家にはこの種の和とじ本が、16種36冊が残されていて、その中の最も古いものが「元禄拾三年辰ノ十二月七日 小栗長十」という書き込みのある『武家雛形』なのである。その他に、『宮雛形』『新撰雛形』『当世初心雛形』『匠家雛形』『西洋技術 新撰大工雛形』等があり、発行された時期も、宝暦9年
(1759)、明和7年(1770)、文化9年(1812)、嘉永7年(1854)、明治19年(1886)等、さまざまな時期にわたっている。

中央で雛形本が作られるようになったのは17世紀の半ば、明暦年間
(1655〜58)であり、その後わずか50年ほどで、掛塚の大工がこれを入手し、技術を学びながら仕事をしていたということは、驚きである。

そして、宝暦、明和、嘉永、安政、明治と、200年以上にわたって代々この種の参考図書を購入し、その建築技術を研究、蓄積してきたということがいえよう。掛塚の大工が、すでに江戸の初期から中央の先端技術を取り入れ、それが連綿と受け継がれてきたところに、掛塚屋台の造られる素地があったということができるだろう。

この他にも、同家には多くの建築に関わる資料が残されている。たとえば、本町屋台の鬼板、懸魚の下絵と思われる絵図や砂町の鬼板、懸魚の下絵、貴船神社神輿や野崎秋葉龍灯の彫刻下絵などが多数みられる。

また、潜龍寺本堂、西光寺本堂、掛塚尋常小学校校舎、貴船神社拝殿等の設計図などがあり、その多くは当時の当主が建築に関わった資料である。

小栗家の家系については、詳細は不明であるが、前述のとおり、元禄期から雛形本の署名等に、長十、伝十等の名前が見られる。大工としての具体的な業績が知られるのは、天保13年
(1842)に、小栗伝吉が中島の蓮覚寺の山門の造営に携わっているのが初めである。
また、伝吉作の提灯箱が小栗家に残されており、「明治拾七年申七月拵之 小栗伝吉誌之」の墨書きが残されている。このことから、伝吉は、文化元年
(1804)前後に生まれ、明治の半ばまで生きたことがうかがえる。

伝吉に続いて、伝兵衛、伝蔵、熊太郎、岩十等の名前が見られ、伝兵衛は、元治2年
(1865)の白羽神社拝殿の改築に棟梁として参加している。(中略)
伝蔵は、嘉永3年
(1850)に出生し、明治21年(1888)に御仮屋、25年(1892)に掛塚尋常小学校、30年(1897)に貴船神社拝殿、弊殿、32年(1899)に帝国水難救済会の建物等を造り、明治35年(1902)に五二歳で亡くなっている。

掛塚尋常小学校については下絵図が残り、「小栗伝蔵書」と明記されている。貴船神社拝殿も絵図面に「小栗伝蔵重成書」と署名があり、いずれも伝蔵の設計になるものと考えられる。また、『匠家雛形 増補初心伝』には、「乙酉明治一八年五月一日求之 小栗伝蔵」の書き込みが見られ、新しい技術を取り入れることにも積極的だったことがうかがえる。

その子熊太郎は、明治6年に出生し、明治39年
(1906)に貴船神社の大黒宮殿を、大正4年(1915)に同水屋を、12年(1923)には社務所を建てている。また、大正6年(1917)に潜龍寺本堂を、昭和2年に金洗の熊野神社を建てる等、貴船神社を中心に近隣の寺社の建築を引き受けている。また、昭和元年には中泉の東町山車の改修も行っているが、昭和19年に71歳で亡くなった。

この他、本町屋台の製作では副棟梁となり、明治14年
(1881)の貴船神社神輿の造営には彫刻棟梁として参加し、恵比寿・大黒像(嘉永6年の銘がある)等を残して、伝十と並び称された小栗岩十時武も、小栗家の伝統を担う一人であった。 
(抜粋引用終わり)

【栄町旧山車修繕の契約書】
こうして掛塚小栗家は、江戸時代初期から大工職人として活躍し、建築関係の絵図や、屋台彫刻の下絵、そして寺社建築の設計図など数多くの資料が保存されている。その中に、次のような資料が平成16年の調査で発見され、文化財保護審議会委員の加藤正敏氏より町史には掲載されていない資料を頂いた。
小栗家に残されていた大正12年の資料とは、当時栄町と棟梁が交わした旧山車修繕の契約書である。
 
そして二つ折り二枚綴り次頁には、山車修繕使用材書の明細が書かれている。使用材は檜と欅で、交換取り替え場所は台輪、エンカツラ、ス板、桁、柱、天井板、持送り、組子、土台、虹梁など多岐に渡る修繕であり、まさに大正の大改修であったことがうかがえる。当時、四百円もあれば立派な家が一軒建つほどの大金であった。

当時の記録や旧山車は昭和20年2月15日の戦火を受け焼失してしまい町内には残っていない。この契約書を書かれた寺田宗一氏の子孫も現在は栄町の旧宅から転居され、当時の資料等はいっさい残っていない。
その年の祭りは栄町を除く残る九台が曳き廻されたこととなり、まことに残念なことであった。

その他にも、「大正五年六月吉日、磐田郡中泉町坂の上山車の形下ズ」小栗熊太郎重明の銘が入った図面がある。また「東町山車枡組ズ昭和元年・・・」
(判読不明)という図面もあったが、小栗熊太郎がどのように関わり、手を入れたかは定かではない。



上記は、現存する「契約書」を再現したものです。







西町の花屋台は、昭和33年より曳き廻され、府八幡宮境内でも奉納踊りを披露したが、このところの少子化により、踊手の減少だけでなく、山車のお囃子に携わる人手もままならぬ状態になってきたこともあり、もう1年何とか頑張ろうと頑張ってきたが、西町としては今年の祭が最後となり、寂しいお別れの時を迎えることになった。 

そして花屋台の車輪を手掛けた大塚鉄工の計らいで竜洋地区・海老島へ売却することに決定。今年の10月11、12日には、新天地で改めて活躍することとなった。この夏、石原町の花屋台も小島地区に嫁入りした。

もう長らく祭当日には曳かれていなかったが、夏祭りの時には活躍していた。次々と姿を消していく花屋台、諸事情により仕方がないこととは解っていても寂しい限りである。
 

       
                    西町花屋台






【幣 殿】
神様がいるところを本殿、お参りをするところを拝殿、その間にあるのが神様にお供え物をするところで幣殿といいます。

難しい言葉で言うと、幣殿は幣帛
(へいはく)を奉奠(ほうてん)する社殿のことです。幣帛というのは、神前に捧げる供物のことであり、紙を切って木に挟んで垂らした御幣(ごへい=幣束・おんべともいう)のことでもあります。

ゴヘイ餅といえばすぐに思い浮かべることができますが、この餅は五平さんが作った餅ではなく御幣に似ているところから付いた名前です。御幣は神様の象徴でありますし、神様に供えるものでもあります。御幣はそれほど身近な存在でしたので庶民の食べ物に名前が付いたのです。

また、鏡が祭られています。鏡が清く澄んでいることから神の象徴でありますし、また自分の心を映すものでもあります。神前の清き鏡に自分の心を映して、神様の前で自分の心が清浄であるかどうかを確認するためのものです。

【拝 殿】
大きな鳥居をくぐって東に進むと別世界に入り込みます。静かな森の中は鳥の声ばかり、楼門、中門を通って進むと大きな拝殿が南向きに建っています。大きな鈴を振ってから、心静かにお祈りするところです。

今ある拝殿は、寛永から延宝4年
(1676)に建立されたものですから300年以上前の建物です。この拝殿の完成を祝って延宝5、6年に大絵馬がたくさん奉納されました。

屋根は「入母屋
(いりもや)造り」ですが、正面に千鳥破風が付いていますからお城のように豪華な感じがします。単純な形式の本殿の屋根「切妻・流れ造り」と比べてみると違いが分かります。

また、屋根は平成6年に銅板葺きとなっていますが、磐田市内では古い建造物ですので、拝殿と幣殿は本殿と共に市の文化財に指定されています。

【社名額】
拝殿の入り口には『八幡宮』と書いた額が掲げられています。よく見て下さい。八幡の八は二羽の鳩が向かい合っています。八幡神のお使いである鳩、そして平和の象徴である鳩、それを絵文字にして表現しているところが面白いではありませんか。鎌倉の鶴岡八幡宮みたいで、鳩サブレを思い出します。明治の前期に神主であった大場重光氏が書いたものです。

【内 部】
拝殿の中は絨毯が敷かれています。種々のお祭りの時にはここまで入ってお祓いを受け、そしてお参りします。結婚式も集団参拝もここで行います。

室内の鴨居
(かもい=柱の上の溝がある横木)には大きな絵馬が掲げられていて、江戸初期の雰囲気を感じます。

【蔀 戸】
拝殿の正面は戸が開けてあり、大きな鈴が付いていますから、これを鳴らして神を呼び出して願い事を唱えます。

この正面の扉は周囲を枠で囲い、真ん中で折れるようになっていて観音開きのように真ん中から左右に開いています。このような戸を「双折戸桟唐戸
(そうおりどさんからど)」といいます。
その左右に「蔀戸・しとみど」があります。蔀戸というのは、雨戸ができる前の戸の一種で、格子に板を張った上下二枚の

蔀を軒先に吊して開け、光と風を入れたり、人が出入りするようにしたものです。横から滑らす雨戸と異なり、上に吊すところに特徴があります。『源氏物語』や『枕草子』などにみられるように寝殿造りや社殿・仏堂の外面に用いられていました。

ガラスがなかった時代の建物は、蔀戸や雨戸を閉めると真っ暗でした。この戸を見ただけでも日本の建築の歴史の一端に触れることができます。

【楼 門】
二階建ての門を「楼門
(ろうもん)」といいます。当社の楼門は、堂々としていて均整が取れ、美しい門です。

屋根は薄い板を積み重ねて葺いて柿葺き
(こけらぶき)で、入母屋造り、先端が反り返って直線と曲線がよく調和しています。この大きな屋根を支えるために組み物がたくさん用いられ、それが左右対称に組み合わされて美しく、さらに丸く太い柱が八本で踏ん張っています(八脚門)

二階には高欄がめぐり、正面には『府八幡宮』と書いた金色の社名額が掲げられています。これは昭和初期に明治神宮宮司で乃木講総取締であった一戸兵衛氏が当社が乃木講に属していた関係で書いて下さったものです。


       
                  
府八幡宮/楼門






府八幡宮宮司  幡鎌 繁


■物が豊かになり、経済白書が「もはや戦後ではない。」と宣言した年。将来を明るい展望で見ていた昭和31年。そんな時代背景の中で「太陽の季節」は芥川賞を受賞し、「週刊新潮」が発刊された年。その年の6月に袋井市上山梨で代々神主を務める家庭に生まれた繁少年は、幼い頃から祭りが大好きで、地元の祭りは勿論、近隣の祭りにも参加し楽しむ少年期を過ごしました。

■25歳になると当然のように地元の上山梨下町の祭組織「祭青年」に入団し、屋台の運営に関わり、同時に消防団や青少年健全育成部の活動にも参加して地元に貢献しながら祭組織の役を順次務め上げました。そして今年、最後の役である「後見」役の3人の内のひとりとして務め上げ、すべての役を終えました。

■祭との関わりを振り返り「祭とは、地域の大切なコミュニティー形成の場であると共に青少年健全育成の為の場です。」と言い切ります。祭が単に宗教的な祭事にとどまらず、友人や知人の無事や近況を確認し合う場であると共に触れ合いで生まれた子供達との絆が、日常の生活の中でも子供達の健全育成に活かされると認識しているからです。

■神職の道を歩み始めたのは23歳の時でした。生家が神主を務める家系から「自然に神職の道を志した。」と笑います。

■昭和54年3月から小国神社に奉職し、同神社で5年間修行した後、府八幡宮の寺田三二美宮司に誘われ、修行の場を府八幡宮に移しました。寺田家と幡鎌家は先々代の頃から親交があり、その縁で府八幡宮に移ることになりましたが、もう一つ訳がありました。それは「府八幡宮の導き」によるものであるといいます。

■明治時代の廃仏毀釈によって現在では土塀の一部しか残っていませんが、それまでは今の社務所の位置に神宮寺というお寺があり、神と仏が同じ境内に祭られていました。この寺は、江戸時代の寺院統制によって袋井市春岡にある西楽寺を本寺としていましたが、この西楽寺は幡鎌家の菩提寺でもあり、無縁ではありませんでした。縁のある人間を府八幡宮が呼んだ。導きによって此処に奉職をするようになったと考えているのです。

■府八幡宮のお勤めの傍ら全国神青協に出向して全国の神社を見聞した後、平成7年から2年間、静岡県の神道青年会の会長を務め、平成18年に現在の職に就きました。就任後は、広報活動、境内整備、歴史探究、等々に精力的に活動されています。本年は戦後途絶えていた御輿順行への山車の供奉
(きょうほう)を1回目の祭典委員会の席上でお願いし、是非とも実現したいと宮司始め総代一同は熱望しています。これが本来の姿なのです。実現を楽しみにしています。



 


田町か?久保町か?
中泉の昭和大事件


見付は「田んぼ」、中泉は「公園」?
おそらく、府八幡宮祭典余興の歴史上「八朔集会」の会場となった回数が最も多いのが、田町にあった料亭「開莚楼」
(平成10年閉店)だろう。その跡地は地元の熱意が通じ近く「公園」になることが決定している。新公園の名前はまだ決まっていないが、いわゆる明治の初年にあった「中泉公園」の復活である。

中泉公園については、弊紙第12号記事の通りだが、この公園内に明治20年代頃に料亭「開莚楼」が建てられた。その料亭に隣接していたのが、「中泉遊郭」である。料亭の北側には、芝居小屋(後に映画館)もあり、久保川端は、中泉の歓楽街だったのだ。中泉遊郭は、明治15年2月9日現在の『娼妓貸座敷、引手茶屋営業』によれば「中泉村田町」に所在したと記録されている。

ちなみに見付は「見付宿字東坂町、馬場町、西坂町」、その他「袋井宿なし」「二俣村字新町、古町」となっていた。また、明治7年8月現在、中泉では娼妓13人、貸席7軒が浜松県の許可を得ていたとある。昭和33年売春防止法が施行され公娼制度が廃止されるまで中泉遊郭は存続した。

見附宿の街道に面して商家に隣接する遊郭は、さすがに風紀上良くないと大正8年頃に「川尻地区の南のはずれ」一カ所に集められた。この場所は、国道一号線の北側、中川の西側にあたり、最近まで吉田病院があったあたりである。堅強な塀に囲まれた四軒の木造二階の楼閣が建った。

その南側には田んぼが拡がりそのまま今之浦に通じていた。それで、人々は見付遊郭のことを、通称「田んぼ」というようになった。一方、中泉遊郭は通称「公園」といわれた。それは、遊郭になる以前が「中泉公園」だったからである。遊びをする男たちが、「公園に行ってくる」とか「見付の田んぼにちょっと」とか周囲を憚って符牒で言ったのが最初であろう。

●流血騒ぎさえあった仲の悪さ!
  今では信じられない。 
さて、この「公園」中泉遊郭が田町なのか、奥久保なのかを巡って年番記録に書かれている顛末を、昨年の弊紙に掲載した。それは昭和3年、遊郭経営者代表から年番に対し陳情書が出されたことに始まる。遊郭は五軒あったが、その町内会としての交際は、田町と奥久保の両方だった。家族には子供もあり、どちらにも属さないというのはいろいろな不便を生む。祭礼のご祝儀などは全町に出していた。

この際、田町に編入し区切りをつけたいというのが遊郭側の陳情内容だった。これを昭和4年、年番・坂之上が取り上げ、各町会議を開催協議することとなった。これがいわゆる「遊郭付合区問題」である。当然、当事者の遊郭代表者が出席、意見陳述をした。大変な議論となったが、最終の結論は出ず、この問題は「各町集会」の手を離れた。

久保町
(昭和9年、奥久保は久保町と名称変更)に残る『昭和十二年遊郭問題に附する記録』という文書によれば、昭和十二年八朔集会の日、再度遊郭経営者から田町に編入する通告書が出されたことにより、この問題が再燃した。

世話係の各町集会では取り上げず、区長ら
(現在の自治会役員)によって、解決策が模索された。同記録では、同年9月、10月と動きがあったことが記されているが、結局田町側が話し合いを拒絶したところで終わり、突然次ページに円満解決の『覚書』(同年11月23日付け)が綴られている。

これによれば、東西に走る細い路地を挟み、田町(南)側に三楼、久保町
(北)側に二楼とし、久保町側の経営者が田町とも交際することを「妨げなし」としている。同年の年番記録(年番・中町)には、28日、府八幡宮神前で両町代表が一同に会し「往年独立の立場にあった貸座敷組合」が田町編入と決まったことを確認し、町長が祝辞を述べたとある。

久保町と田町はこの問題もあり、以前よりあまり仲が良くなかったようだ。年番記録には表れないが、経営者が最初に提出した『陳情書』には、「両町青年ノ大衝突流血ノ争討トナリタリ」という字句があったほどだ。円満解決、手打ちに町長まで出席し祝辞を述べるほどの大事件だったのである。


総務が「清めの池」で身を  
  清め、山車が迎えに行く?

戦後になってこの『覚書』は、両町の区長などの署名で再度作成されている。昭和22年2月2日付けのもので、両町の区域が、遊郭すべてを田町と変更し、境界線が北側に移動している。

添付されている地図には、久保町側に位置する劇場が、戦前の『覚書』では「中泉座」、戦後では「スバル劇場」となっている。ところで、昭和10年
(年番・東町)にいたるまで、山車コースにおいて、田町から久保町、久保町から田町というルートはなく、必ず西町を経由していた。

これには西町・浅間神社に必ず神輿が留まるということが関係していたと推理されるが、このルート変更の申し出は、久保町、田町、石原町の旧久保村三町が発議している。仲が悪いはずの両町がここでは共闘しているのは面白い。今では当たり前の川端が昔はコースではなかったのだ。

なお、旧開莚楼や遊郭は、江戸時代まで秋鹿家の広大な屋敷の一部であった。現在も残る扇子池は、「清めの池」として、神職でもあった秋鹿家代々の当主たちが祭り前に身を清めた神聖な場であった。新しい公園が完成の暁には、この史実を利用して、祭り当日の朝にでも、世話係総務か外交が池に身を沈め、心身を清める儀式を復活させるのも一興かもしれない。蛇足だが、現在の盛友社と玉匣社は非常に仲が良い。念のため。






▼民俗学者、柳田國男はこう言いました。「日本の祭りにおける最大の変わり目は、信仰を伴わない見物客の発生と、審美的立場からこれら行事を眺め観る者が現れたことであろう」。神事としての祭りをいわゆる「祭礼」にしたのは中世の都市文化の力だったのです。

▼考えてみればそうです。観てくれる人々がいなければ、より華やかによりエネルギッシュによりお金も掛けてわざわざ疲れるようなことは大抵しません。室町も高山も秩父も見物人がいて始めてあの素晴らしい山車・屋台・鉾文化が生まれたのでした。

▼当然そこには経済的な豊かさと文化を楽しむゆとりを持つお大尽がスポンサーとして存在しました。贅を尽くした彫刻や幕、漆や金銀の飾りが付けられたのです。

▼中泉の山車もかつては町内の有力者から多額の寄付を受け建造されましたが、それはおそらく大正時代までであり、それ以降は町民がこぞって寄付をし蓄財し苦労して建造してきました。山車の形、その素材、彫刻、幕、人形、すべてに昔の「まつり人」の思いが宿っています。その心に思いを寄せながら、久保川端を行く盛友社の幕を、志組、心誠社、石湲社の彫刻を、大鳥居を潜る中泉型山車・東組を、鑾留閣の彫刻等々をじっくりとご覧ください。

▼玉匣社の彫刻は下部が支那のテーマ、上部が日本のテーマになっています。驚くほど精密でまさに名人技、日本文化の真髄がそこにあります。そして山車を動かす若い衆の生きる歓びを観て下さい。シチャコリャ!

(七屋狐狸也) 

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