平成19年度祭典

<2007/お祭新聞/1面記事>



年番・盛友社/田町

祭典委員長 川上 進


お祭には沢山の思い出がある

【中泉初の四輪屋台建造】
田町の屋台は、大正2年に建造されたもので、もちろん当時の作者は過去の人となっておりますし、記録は余り残っておりませんが、私の聞き覚えのある範囲でお話ししますと、棟梁は掛塚の山本菊五郎(通称・大菊)と山本寅吉という二人(親子?兄弟?)で、田町の屋台を造るために町内に住まい制作に励んだそうです。その後も住み心地が良かったのか、そのまま住んでいたそうです。
彫刻は、伊豆の三島町(現在の三島市)の渡邊重晴の手によるものです。
大正2年に本体を制作し、その後、鬼板・ 懸魚、欄間や脇障子等の彫刻を制作し、大正6年の夏に完成したそうです。しかし、彫刻を良く見ると一人の作品ではなさそうです
材木は、町民代表が木曽まで出向いて、木曽桧を買い付けてきたと聞いております。

幕は、京都の専門店に依頼して、当時としては大変高価な英国製羅紗を二重にして使用、虎を題材として依頼し、完成したのは大正12年でした。その年の9月1日関東大震災が発生し、山車の曳き廻しは中止、残念ながら お披露目は翌年に持ち越しとなってしまいました。
当時の町の有力者7名の発起人によってできたそうです。

私が知る限りでは、今までに法被を四回替えています。その一つは、私が世話係の時(30年位前)に替えた物です。この時の柄は、背中の真ん中に龍の絵を描きました。これは天幕の虎か見送り幕の龍を採用するかで悩んだあげく、龍に決まったものです。各町の驚きと反響を受けたことが今でも記憶に残っています。この頃、屋台の解体修理も行われ、それに伴い照明を電球からアセチレンガス方式に替え、昔の屋台が甦ったようでした。これも大きな反響でした。

昭和三十五、六年頃に思いを馳せてみますと、私は当時学生でした。あの頃は戦後の動乱の時代、辛い環境から解放されたこともあり、世話係に属さない一部の若者は法被の背中に虎や龍といったお気に入りの絵を描き、股引は左右の色の違った物を履き、頭にはピイピイ笠をかぶり(大念仏踊りの時に被っているもの)、鈴を付けて鳴らしたり、なかには一斗缶に石を積めてガラガラという大きな音を鳴らしながら練っていました。あれから数十年、今では参加者全員が正装で参加するようになってきました。大変喜ばしいことです。

【むかしのお囃子】
お囃子のことにも触れてみましょう。私が幼い頃の中泉のお囃子は、特に大太鼓の叩き方は、今の遠州横須賀の三社祭礼囃子とはひと味違い、中泉独特のものであり、叩き手によって少しずつ違いがあり、味わいがありました。再び聞くことは難しいが、現在この叩き方のできる人を探している方もいて、私も尋ねられました。その叩き方が良いか悪いかはともかくとして、懐かしく耳に残っています。

私事で恐縮ですが【磐南文化No23】に「中泉田町の大太鼓打ちの名人と呼ばれた川上金次郎がいた。」と書かれていたことを思い出し、もう一度、このお囃子を響かせることができれば、亡き父も喜ぶことでしょう。
「オオマテコテコ」「テンテコリンコ」







▼幕府より拝領された秋鹿家の屋敷は、明治維新により所領没収となり、浜松県の収めるところとなりました。その後、明治6年11月3日より「中泉公園」として一般に開園しました。その後、元の所有者である秋鹿家に払い戻され、その庭園内には歴代当主が趣向を凝らした常磐木の巨木が深い林を成し、中に梅桜の林、楓の森があり、庭石の奇観、草花が彩りを添え、全景が松島を模した扇子池があり、遠州に於いて有数の名園であった。池の北東側には、趣味の集会等に使われた「不老斎」と名付けた平屋の建物がありました。

▼明治34年の春、当時の朝鮮の志士で朴泳孝が、同志の金応元、鄭東淳とともに此処「不老斎」に滞在して、朝鮮における政権再興のための秘策を練っていたことがあった。当時の朝鮮は政変が繰り返されていて、明治33年には朝鮮の内閣を転覆させ、李太王を率いて帰国し、政権を掌握しようという朴泳孝の陰謀が暴露されてしまった。朴泳孝は金宏集内閣の内務大臣を務めた人である。

▼公園内では、明治13年8月9日〜12日、園内に小屋がけして芝居が上演されたり、同14年には日本伝統の最後の手品師といわれた養老瀧五郎の手品が演じられたりしました。

▼明治22年には「照日座」(後の明治42年「中泉座」と改名される。そして戦時中に戦火を避けるために取り壊されたが、戦後、昭和21年には中泉座の跡地にスバル劇場が建てられた。)が建てられ、大衆に親しまれました。その頃、旧料亭「開莚楼」、旧遊郭「常盤楼、三浦屋等」も建てられたと思われます。



<2007/お祭新聞/7面記事>




【由 緒】
当社の歴史は古く、奈良時代にさかのぼります。
 645年の大化の改新によって日本を統治する基本的な組織ができ、地方制度ができてきますと、都から派遣された国司が地方長官となって政治を執り行います。

奈良時代の聖武天皇の頃、「桜井王」という王子(天武天皇の曾孫)が遠江国の国司となり、国府に着任しました。そして遠江国の中心である国府(国の役所)で遠江国の平安を願って八幡宮を建立したのです。
国府のあるところの八幡宮ですから「府八幡宮」といわれるようになりました。

【祭 神】
本殿に祭られている神様「祭神」は、

 誉田別命
 ホンダワケノミコト
 応神天皇=主祭神
            
 足仲彦命
 タラシナカヒコノミコト
 仲哀天皇=父親

 気長足姫命
 オキナガタラシヒメノミコト
 神功皇后=母親

 の三柱です。

【建立年代】
最初は桜井王によって建立されましたが、現在の本殿は江戸時代初期に再建されたものです。神社に所蔵されている棟札(むなふだ)

遠江国
御願主大政大臣源朝臣御息女
元和三年三月十五日

とあります。

願主の「源朝臣御息女」というのは、二代将軍秀忠の娘の和子(まさこ)のことで、後水尾天皇と結婚して東福門院と呼ばれるようになった女性です。家康の孫娘によって、家康が亡くなった翌年の元和3年(1617)に本殿が再建されたのはなぜでしょうか?

第一に、家康が中泉に御殿を建てたとき神主の秋鹿(あいか)氏の家を久保町に移転させたこと、第二に秋鹿氏を代官に取り立てたことなど、神主秋鹿家と家康家とは深い関係にあったからだと思われます。

【修 理】
元和の再建のとき屋根は柿葺き(こけらぶき=薄い板を重ねて葺いた屋根)でしたが、大正7年に桧皮葺き(ひわだぶき=桧の皮を重ねて葺いた屋根)に直し、現在は銅板葺きとなっています。長い年月の間には破損することがあるため、そのつど氏子・崇敬者の援助で修理を重ねて現在に至っています。

【本殿の形式と規模】
本殿の形式は、「三間社・流れ造り」です。
流れ造りというのは、切妻(きりづま)造りで平入りの建物ですが、前の屋根が曲線的に前に伸びていて後拝(ごはい=正面階段の上に張り出した庇)となったものです。

本殿の写真の屋根を見ると前の方が長く伸びていることがわかります。社殿の規模は三間x二間であり、本殿の三面に縁を付けて高欄と脇障子を設けています。
 
【桜井王と聖武天皇】
遠江の国司となった桜井王と聖武天皇との歌は『万葉集』巻八・1614〜5にあり、歌碑は神社の南東に建っています。

九月のその初雁の使にも思ふ心は聞こえ来ぬかも
ながつきのそのはつかりの使いにも思うこころは聞こえこぬかも
桜井王

【訳】
9月になるとやって来る初雁、その初雁をお使いとして、はるかに思いやって下さるお気持ちが、ここまで届かないものでしょうか。秋に南下する雁を、遠江から都へ「思う心」を伝える使いに見立てた歌。

大の浦のその長浜に寄する浪寛けく君を思ふこのころ
おほのうらの そのなが浜にきする波ゆたけく君を思うこのころ
聖武天皇

【訳】 
大の浦のその長浜に寄せる波のように、ゆったりと君を思うこの頃である。

「自分を思って下さるというお気持ちを初雁の便りにでもお聞きしたい」と言ってきた桜井王に対し、「あなたはご無事だと安心している」と応えたもの。個人的な親近感あってこその贈答と思われるが、天皇の国司に対する信頼感もおのずと漂ってくるかのようで、まことに帝王らしい堂々とした歌である。





磐田市西新町自治会は、平成18年10月の「魂跋の儀」を挙行の後、世話係、中老も参加して熊谷建築による解体作業が開始され、山車の改修工事が始まった。土台、柱、高欄、錺金具等を新調、既存部品の磨き作業などが行われた。

志組の山車は、大正10年掛塚中町在住の名工・坂田歌吉により建造され、「彫松」こと彫師・伊藤松次郎の手による「司馬温公の甕割小僧」「鯉の滝登り」「神功皇后」「武内宿禰」の彫刻が配されている。
90年近い歳月を経て老朽化が進み、大改修の運びとなった。 今年7月22日を以て大改修工事を終了させ、完成祝いと「入魂式」を執り行い、試運転のための町内曳き廻しが行われた。

【総工事費】 6、630、000円
【工事内容】
 @土台、柱、組子、高欄製作/熊谷建築
 A土台木口、駒寄部分の錺金具製作/村井神仏金物製作所
 B見送り幕の突出金具、車輪ガード、山車丸金具製作
  /
(株)マストレ
 C電気工事/前島電気工事(株)
 D既存部品磨き作業/熊谷建築、有志 



<2007/お祭新聞/2面記事>



久保町VS田 町


昭和12年を振り返って・・・
昭和5年10月6日、府八幡宮社司・大場禎一氏のご逝去に続き、昭和12年5月16日には府八幡宮社司・秋鹿朝成氏がご逝去され、5月23日午後2時、葬儀に際し、各町世話係二名が正装で参列し、玉串料10円(1ヶ町1円宛)と年番中町が代表して弔辞を呈した。

また、この年は支那事変勃発時局重大に鑑み、9月20日山車曳き廻しの中止を決議した。以後、支那事変長期化に加えて欧州第二次大戦勃発の為、昭和14年までの3年に亘り山車の曳き廻しが中止され、浜垢離の神事、そして県祭、修跋式、夕祭、本祭併せて武運長久祈願祭、発御祭、命魚奉献の儀、御輿渡御、還御祭等、一連の祭事のみ斎行された。

これより遡ること9年前の昭和3年、田町と久保町が対立「遊郭付合区問題」が浮上した。すなわち、“遊郭はどちらの町に所属すべきか?”という問題が勃発。

年番記録によれば、
「翌昭和4年3月11日遊郭付合区問題に関し集会すべく前日通知しカフェ・フレンドに会合す、各町二名宛 遊郭代表者、右理由左の通り

本件は先に昭和3年10月14日年番西新町の時 別紙陳情書に依り申し出てありしも御大典等多忙に付延引し

本年3月に至りて本町(坂之上)に年番引受し後 未解決のままゆずられし処 陳情者の申し出切なるに依り此処に各町会議に付せしなり。

これより先、年番町世話人 朝比奈氏は個人の資格により遊郭代表者 江間治郎作氏と面会し 正に町議改選の前故集会及び○等を避けるの理由にて延期せしむる旨を計りし処 奥久保の世話係にはすでに決心あるの話故急ぎ各町の会合を開きたるなり。」

そして会議は議長が別紙陳述情書を代読し、
「会代表者が別紙陳述書の説明と各町への同情を乞う。田町は策動したと奥久保に噂する人あるが其迷惑の至て公平な各町の判断を待つ奥久保代表は陳情者に質問及不可なる所以を説く。

各町より種々質問ありて代表者より田町、奥久保の争いは遊郭問題より前に種々争いあり 此が此の問題にからんで感情上に来たりたるなり断じて田町なるが両町の人々がいらば委しく述べられと云ふ。

これにて打ち切り夕食となり食し乍ら続行すべしとの動議成立す 即議長は討議に諮り可決す 田町、奥久保退出を命ず 議長遊郭代表者の申出を代て話す 内容は秘密会とし証せず。」

その決議は、
「此の問題は白紙とし意見なし只円満の解決を希む故年番を調停者として一任す。調停案は立案せず即解決点を以て調停すること。不調の場合、今後二度と同案を各町会議に付さざること。」

希望条件として、
「兵士送迎は両町青年に依り行うこと。祭典には いずれの町に出ることを許して不満を感ぜしむることなき様。本希望は此の件未解決の間のこと了解して退席の両町を呼び入れ決議を申渡す。遊郭にも此決議を示し 今後町代表として問題の解決に努力することを宣す。年番 坂之上」

その後、
「昭和12年11月28日、時 恰も非常時後の整調愈々必要を感じ初冬とは云え風なくよく晴れた此の日 八幡宮神前に於て往年独立の立場にあった貸座敷組合も田町 久保町の両町の円満なる和解のもとに田町区内に編入となり目出度解決せり。」

そして昭和12年11月23日、久保町区長 大場 傳氏、田町区長 十束末吉氏と 昭和22年1月1日 久保町内會長金子夛平氏 田町内會長大場 隆氏 立会人 森 幸一氏など 二度に亘り覚書が取り交わされた。 (○=解読不明)

当時の遊郭は、大口の寄付金をいただける処であり、そのことも両町にとって大きな問題のひとつであった。争議の結果、両町平等に対処する事となり、この「遊郭付合区問題」は、無事解決を見た。しかし、これまでの説明では充分な理解を得ることが難しいと思われるので、次号にてもっと詳しくご説明をさせていただきます。






去る4月28日(土)恒例となった「第八回遠州大名行列舞車」青島美子実行委員長の下、あいにくの曇り空にもかかわらず、盛大に催されました。

今年は朝鮮通信使四百年を記念した県日韓文化交流事業と提携し、例年にも増して街並みを華やかに彩りました。

通信使の正使を在日本大韓民国民団の金成根監察委員長、駿府城代を竹山 裕参議院議員、饗応投の藩候を同市観光協会の金原一平会長が務め、磐田観光大使の3人も姫様役や腰元役で参加し花を添えました。

淡海国玉神社前の特設中央ステージでは使節団を駿府城代や饗応投の掛川松平藩主が歓迎して、エビイモやメロン、うなぎの蒲焼など地元の名産品を献上する場面があり、幼なじみだった使節団随員の若者と大名行列の腰元が出会う物語では、韓国語で演じられ、拍手喝采を浴び、大いに盛り上がりました。

『舞車引き合わせ/薪舞』は、親に引き裂かれた若い夫婦が、奇しくも東西の舞手として再会を果すという、謡曲・舞車にも謡われた中世の街道ロマンを再現するものです。平安時代中期、天下太平五穀豊穣を祈念して始まった見付祇園会の舞車神事は、室町時代からは、東坂、西坂の町から出される舞車の上で舞を演じるようになりました。しかし、江戸時代の享保年間に廃止され、その後行われることはありませんでした。

14年前から再び伝統文化の復活が実現し、現在に至っています。





磐田市天竜在住  田中 由男


▲近隣の夏祭りを控えた暑かった今年の夏。氏の姿は休日返上で作業場にありました。屋台の修復依頼が数多く舞い込み、ゆっくり体を休める暇もなかった様です。それでも作業に臨むその顔には、いつも楽しげに笑みが浮かんでいました。屋台の制作や修復に関わることが何より大好きで、それは仕事であると共に趣味でもあるようです。根っからの屋台職人といっても過言ではありません。

▲昭和5年9月28日春野町東領家で生をうけた氏は、昭和20年12月24日15歳で掛塚の名棟梁/平野孝信継氏の門を叩きます。以来、棟梁の指導のもとで横町曳舞台を手始めに、浜岡や福田など各地の屋台制作に携わり、腕を磨きます。特に戦災で多くの屋台が焼失した浜松で屋台新造気運が盛り上がった昭和20年代30年代には、栄町、元魚町、東田町、海老塚など多くの御殿屋台の制作に励みました。

▲平野孝信継棟梁の作風を習得し、昭和38年に独立、田仲工務店を立ち上げます。独立後、暫く屋台制作から遠ざかりましたが、昭和58年に北島の屋台を請負うと、天竜、上岡田、旭ヶ丘と次々に制作依頼を請け、再び屋台制作に関わり始めます。平行して各地の屋台修復も手掛け、一年を通して屋台と関わる様になります。

▲各地の屋台修復も一段落したいま、「屋台は分解組立ができるもの」を信条に、来年の完成に向けて堀之内の屋台制作にその腕を振るい始めています。






▼祭り文化は伝搬する。山車、屋台、お囃子、装束、組織や制度、あらゆるものが時代の権威や流行、信仰、風俗、社会の規範などに影響され、土地から土地へと人を介し伝わっていく。

▼府八幡宮祭典余興も各地から様々な影響を受け現在の形を創ってきた。当然、どちらが先かわからないものもある。祭り人間は、オラの方が先だと言いたくなるが、まさか京都祇園祭や江戸天下祭より先に曳山たる山車があったとは言うまい。それよりも祭り人なら京の伝統・江戸文化を守っていると自負し、室町や江戸の渋みや粋を 継承し、日本人としての誇りを感じている。

▼中泉を初め遠州の多くの祭りは、お囃子のルーツを横須賀に見いだす。例外もある。掛塚囃子だ。中泉各町は、横須賀三社祭礼囃子を主流に森の祭りの流れを少数派とする。

▼いわゆる中泉型二輪山車は、森や袋井、掛川とは違う。あちらは御所車だが、こちらは明らかに横須賀ねりの発展型だ。大正2年以降の四輪山車ブームは掛塚や尾張、三河の影響大だろう。つまり中泉は東西山車文化の中間地点なのだ。

▼組織名の「社」は森と同じ、袋井は○○車となる。見付の親町は、車を使う。「組」は掛塚や横須賀で使用。火消し組の伝統だ。「渡りを付ける」は裸祭りと同じ。「世話係」は掛塚と同じ。「白・赤・金の袖線」は中泉独自?

▼山車文化は幾重もの層になって中泉祭典余興の中に流れている。シチャコリャ! 
(七屋狐狸也)

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