平成18年度祭典



年番祭典副委員長
平野 勝利


【屋台曳き廻し】
子供の頃
(昭和30年代)の想い出として記憶に残っている事は、当時の道路はほとんど未舗装のため重い屋台は容易に引き廻せなかった。前へ進めようとする役員、大騒ぎの若者、怒号と喧騒の中、ぎしぎしときしみながら少しずつ進む屋台。その中にまみれ、汗びっしょりで声を涸らし屋台を曳き、くたくたに疲れながらも何とも言えない充実感があった。

昭和40年代、道路の舗装が進み、屋台は容易に動くようになった。曳き手は力を出さなくても屋台は動く。引き綱を持ってだらだらと歩く。あまりにも盛り上がらない。

この頃、周囲の地区で屋台の曳き廻しをやめる所が出始め「中泉の祭りもいずれは・・」等の話がまことしやかに語られていた。そんな時、横須賀の『三社祭礼囃子』に出会った。

【三社祭礼囃子】
「囃子に合わせ屋台を曳く」新鮮な感動だった。地元のご厚意により5年間参加させてもらった。囃子に身をゆだねて曳く何とも言えない心地よさと陶酔感。「これだ!」と思った。早速、町に取り入れようとしたが、それが大変。まず太鼓が違う。社内を説得して自治会に買い換えをお願いするも、そう簡単に聞き入れられない。

その頃の太鼓の練習は屋外で行っていた。指導者もおらず、先輩の叩き方を聞いて覚えるしかなかった。それを公民館の中で教えようとした。「建物の中で太鼓を叩くな!」非難轟々の中、辛抱強く説得を続け、なおかつ太鼓の新調をお願いしつつ、囃子に合わせて曳く。

幸い賛同してくれた若者も年々増え、屋台の周りは次第にかけ声と共に活気が湧いてきた。徐々に理解が浸透し、鳴り物一式及び手古舞のお面、衣装等揃うまでには十数年かかったが、今ではすっかり定着し、それに伴い祭りの活気もかなりのものになっている。

【本 曳 き !】
ある年、従姉の婿が祭りを観に来た。良いところを見せようと八幡宮近くに先回りして屋台の行列を観た。愕然とした。盛り上がっているのは屋台の周りだけ。引き綱の前半分はだらだら歩きの町内が殆ど。石溪社も例外ではなかった。自分も常に屋台の至近にいて気がつかなかったのだ。「木を見て森を見ず」かなり沈んだ。

参加している総ての人が楽しめる祭りにしたい。引き綱の先頭から屋台まで同じ意識で曳けないか、新たな挑戦が始まった。

『見学者も参加者も楽しめ且つ自慢の出来る祭り』を目標に実施要項の作成に着手した。

「参加者全員が、衣装を揃え、囃子に合わせ、掛け声を合わせ、粋に格好良く、一糸乱れず屋台を曳く」を掲げた。

それぞれの項目について、細かく検討し、従来の時間制限に支障の無いように配慮した。初年度は、町内の夏祭り・合同集会・浜后離後道路使用許可まで取り、路上での実地練習。あらゆる機会を使って練習を繰り返し本番を迎えた。

初日、出発直前の緊張感と気持ちの高ぶりは、今でも鮮明に覚えている。結果は、完璧とまでは言えないまでも、ぎこちなさも伴いながらやり遂げた。町内の参加者に「何をするのか」を理解してもらう事は出来たと思う。2年目に、祭りを考える会『祭考会』を立ち上げ、完成度の向上を目指している。今年で6年目を迎える事になる。

祭りとは、長い間引き継がれてきた文化であり財産だと思う。その時代、環境等による変化はあっても、今一番良いと思う事を精一杯行い、後世に引き継ぐ事が、今携わっている我々に課せられた義務と責任だと思う。
『良いと思っても実行しなければ意味がない』この精神が石溪社の若者の心に脈々と引き継がれている。道は険しい。だから面白い。

 


シリーズ



 
<お祭新聞2006/2面記事>

 
昭和5年、八朔集会に於いて年番から新行路案が提案され決定された。 しかし、他町から共同動議「臨時各町集会要求書」提出により、議論の末に・・・。

【新行路提案】
現在の「府八幡宮祭典山車曳き廻し」の特徴は、山車のコースが固定ではなく、毎年の集会「臨時外交集会」によって決まることだ。

しかし、明治、大正、昭和初期と御神輿のお供をするコースが習わしになっていたが、あることをきっかけに徐々に変わり始めた。

西町は昭和2年、3年に引き続き、昭和4年
(年番・坂之上)にも八朔集会(会場・田町開莚楼)において二日目行路協議の際、「山車行路が神輿と逆コースを辿り如何にも不敬に当たる・・・」と山車曳き廻し変更案(新コース案)を提出。
 議論百出し、「栄町、石原は反対、奥久保は賛成」など大激論となり、年番は三度も休憩を取ったり、各町の意見聴取のために退席するなどするが「事容易に決せず」と見て、無記名投票により新旧コースの裁決をするが結局のところ「西町案賛成3、反対5、無効1」で否決された。  
*「但し、西町提案のコースは別紙に 掲載す」とあるが残っていない。

昭和5年の各町集会
(会場・石原町/松葉楼)は、前年の協定に基づき、年番が新行路案を提案し、各町が其の実行方法を話し合い、いろいろな意見が出たが数時間の理由研究の後、大多数決で承認された。
*当時の決議は、多数決が原則。

「ところが、東町、栄町、七軒町、中町から「決議事項の内、幾分の変更要求問題あり」と共同動議が提出され、7日、臨時各町集会が田中神社社務所で開催された。 西町、奥久保、坂之上、田町の4町はこれに反発。提案4町側に西新町が加わり、5ヶ町対四ヶ町の対立は、4ヶ町側が別行動を希望する決議書を提出、両者譲らず。」


【臨時各町集会要求書】
『各町集会決議事項は尊重すべきは申すまでもないことであるが、我等の氏神祭典に際して山車を以てする御輿渡御の御供を否定するが如き敬神の念を没却したる行動は断然慎む可きことである。かかる見地よりすれば、本年の各町集会決議事項の一部はこの敬神の根本精神を無視したるものであると考える。
右の理由によって本年集会決議事項の一部修正いたしたく以下の三ヶ町の同意を得て臨時各町集会を開催せられんことを要求する。』

 昭和5年9月5日
 提出/東町
 賛成/栄町、七軒町、中町


【特別臨時集会】
「12日より年番は両町和解のため各町を訪問し意見を聞くが、両者の見解異なり、年番立場を失う」までになってしまう。そしてついに光明を見いだすことなく集会は閉会となってしまった。

21日、特別臨時集会を開催。ここで年番は和解のための仲裁案を提案する。「4ヶ町側は賛成するが、5ヶ町側は不賛成となり、年番は立場上止むを得ず任務を辞す」こととなってしまった。

石原町を除く9ヶ町は会議を開き、年番の留任を一致して求めた。年番は「本会議の目的上和解を念頭に約し留任を承認す」と、
結局、和解代理委員を設け、西町、西新町、東町から二名選出し年番と新和解案を内定。各町集会で満場一致可決された。

それまで続いてきた固定コースが、ここに来て一部変更され、「臨時外交集会」が開催され、山車コースを議論する土壌ができたといえる。

昭和の初期には、八朔集会一夜のみでコースまで決まっていたが、この事がきっかけになり、臨時集会や特別臨時集会などというものが生まれ、徐々に変わっていった。最初は西町提案による「神への崇敬の念」による大義だったものが、次第に各町の地域性による利害や体面による議論に変わっていった。

【西組、東組入替て・・・】
当時、初日は西組五台、東組5台コース。二日目は全山車を一組として八幡様を出発して御神輿のお供をして廻るコースが常であったが、この年二日目に「第1回は西組、東組入替て行う。」とある。御神輿のお供をする前に西組は東組を東組は西組を廻る。お互いに場所を入れ替えて、廻り方も初日とは反対廻りのコースを取り、御輿渡御の始まる前に八幡宮に戻る。今では考えられないような発想である。「第2回は全部を一組として・・・」、全部の山車が従来の御輿コースを廻るという、丁寧な2回廻りをしている。

この年の記録に、訪問の際は黒名刺、答礼には赤名刺を使うよう変更するという箇所がある。外交または世話係は会所を訪問し、渡りをつける
(*渡り=山車が他町を訪問する時、事前に挨拶し、山車の停車位置など調整。)時に、当時は名刺交換をしていたことがわかる。また各町の外交は「白の山形徽章を左腕に付すること」とあり、現在の外交腕章とは違う形だったこともわかる。『外交』という文字が登場したのもこの年からである。
 そして、この年は「見付の祭」と日取りが重なったため、「各町集会決議事項」の6項に「見付町に対する警護」という項目がある。

一、 各町一名ずつ午後二時までに年番指定の位置に集合す。 
二、 警護係は赤毛糸章を付けること。 
三、 不穏の場合は各町世話係二名を除き残部を招集鎮撫すること。 
四、 見付町の山車と摺合の場合は鳴物を停止して注意すること。 
    以上

その頃の祭典日は10月1日、2日である。同じ日に中泉と見付が祭を・・・、当時、天神様の浜垢離には『船屋台』を繰り出して賑々しく行っていたことは分かっているが、「見付裸祭」当日にも山車を出していたことになる。当時どの様な祭をしていたのか好奇心をくすぐる。それにしても警護をするという物々しさも当時の世相を感じさせる話だ。






祭典本番に向けて年番石溪社山車の改修が行われた。

昭和9年、掛塚の宮大工/平野 孝、彫師/大村善太郎によって制作された山車は、今年で71年目を迎える。15年前の平成2年、若番の時に解体修理を施したが、屋根部の中心が垂れてきたため、新たに改修されることになった。

修復は新川建築舎に依頼し、解体、組立は大工の指導の元、総務の蓮池 康さんを 頭
(かしら)に世話係みんなの手で行われた。作業は、今春4月20日から9月3日の試運転まで4ヶ月の日々を費やした。

今回の改修では、
@屋根中心部に新たに補強材を追加。
A欄干部の修復。
B前車輪の修復等。これらが主なものであったが、いずれも建造時の状態を保ちたいので釘等は使わない様に心がけた。

今回の山車の修復に伴い、山車丸のデザインも古い写真の中で使われている「石溪社」を復活させた。「まだまだ建造時の状態にするには時間が掛かりそう・・・。」総務の蓮池さんの言葉だが、世話係始め石溪社に関わる全員の思いのようだ。修復にあたり、解体、修復に携わった世話係の新しい世代によって石溪社の山車は、今後とも長く大事にされていくことを確信した。更に復活した山車を早くみたいものだ。







ホンモノの「いわた大祭り」実現のために「大祭り拡大推進部会・綱の会」で議論進む。

本号に「いわた大祭り実行委員会」の青島美子委員長に寄稿をお願いした。そこに書かれているとおり、何年も掛けて見付の人たちが創造したのが「いわた大祭り・遠州大名行列・舞車」だ。

この名前になって本年第7回を迎えたが、それ以前にも「宿場祭り」などいろいろな前史があった。長い時間を掛けて育んでくれた「大祭り」・市民参加型のイベントだ。それを表題のように「ホンモノ」にしようなどと書くと、今までの祭りがまるで「ニセモノ」のように受け取る人がいれば、それはまったくの誤解だ。見付の方々の汗と知恵の結晶が「いわた大祭り」である。それをまずは確認しよう。

そこに、昨年度新磐田市が誕生した。平成の大合併だ。旧5市町村は、以前から行政的にも歴史的にも文化的にも一体感が強い地域だった。しかし、やはり大きくなればそれなりに地域エゴや問題点も出てくる。そこで、より新磐田市民がひとつだという「おらがマチ」意識が必要になってくる。

豊岡の山、森から福田、竜洋の海、港までを自分たちのふるさとと思えるキッカケが必要だ。いくつか方法はあるだろうが、一緒に汗を流し創り楽しむことができるひとつのイベントこそ有効な方法だ。

しかし、このようなイベントや新しい祭りはゼロからスタートするには、大変なエネルギーが必要になる。できるならばある程度蓄積された「文化と歴史」があるものを利用するに越したことはない。また、逆にあまり地域に密着し過ぎた伝統的なあるいは宗教的なものを全市的にすることは好ましいことではない。

そこで、浮上したのが見付で育ってきた「いわた大祭り」だ。この祭りを核として、より大きな範囲の元気な市民を巻き込んだイベントを創ることができないか。できるかできないか、各地の祭り好きに集まってもらい議論をしたらどうか、と発足したのが「いわた大祭り拡大推進部会」
(通称・綱の会)である。
(青島委員長の記事の通り)

       

まだ、具体的に答申を出すまでには至っていないが、今までの議論の主な内容は次の通り。
@磐田市民みんなが参加できるチャンスのある「いわた大祭り」を創りたい。
A現在見付中心で行われている「いわた大祭り・遠州大名行列・舞車」を核として考えたい。
B秋には毎年各地に伝統的な祭礼があるので、新大祭りは春がふさわしい。
C毎年実施するよりも四年とか五年とかに一度実施する方が良い。
D実施するメイン会場は設定が非常に難しい。見付地区だけでは手狭だ
(それだけイベント内容は豊富)。磐田駅前や今之浦地区まで拡げる考え方もあるが、それだと中心市街地中心のものとなってしまう。全市を巻き込んだものにするには、会場設定だけでも一工夫二工夫必要だ。
E磐田市全体の従来の祭りの基本は「屋台・山車」だが、これに掛けるエネルギーと情熱を生かす方法・アイデアはないか。
F自治会連合会を初め市内有力団体の深い理解と参画がないとこの計画は実現できない。
G2009年、いわた大祭りが第10回を迎え、新磐田市5周年の年に実現したい。






▼「東組」(中泉・東町)の山車人形は神功皇后、応神天皇、武内宿禰である。何故府八幡宮の三祭神の一柱、父であり夫である仲哀天皇ではなく、赤ん坊(応神)を抱く武内宿禰なのだろうか。

それは、この「三韓征伐」の場面では、仲哀帝はお亡くなりになっていたからというだけでは説明がつかない。皇后が男装し征伐に出たときには、妊娠中であり、いまだ応神を出産されていないのだから、この場面はある特別な思いが秘められていると考えざるをえない夥しい著作を持つ「関 裕二」という歴史作家は、日本古代史に独自の様々な説を発表し「関ワールド」を構築している。在野の研究者であり史学会の権威とは無縁の知る人ぞ知る隠れた人気作家だ。

▼この「関ワールド」は、不思議に府八幡宮祭典にまつわるエピソードとシンクロする。例えば、武内宿禰は実は住吉神であり事代主神でありまた浦島太郎でもあるという説だ。

▼一見荒唐無稽に思える話だが、何故祭神同様の扱いを受ける武内宿禰に通ずる浦島の玉匣という名前の山車があるのか、何故志組の幕は竜宮城なのか、説を受け入れた途端説明がついてしまうから不思議ではないか。昔の人々は古代史の謎を知っていたのだろうか。シチャコリャ。
 
(七屋狐狸也)
  
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