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平成17年度祭典
「お祭新聞 10号 1面」
2005.10. 1.
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年番『心誠社』ポスター
今年のポスターは、いかがでしょうか。昨年からポスター制作の準備を始め、心誠社・町民みんなの力を合わせて出来上がりました。山車の写真は、心誠社世話係が撮り、編集もすべて行いました。昨年から取り入れた“高張提灯”を全面にあしらい、モノトーンで仕上げることで子供の頃に感じた山車の持つ雄大さや神秘さを強調させ、祭の独特な雰囲気、祭に掛ける意気込み、それら全てを表現しようと、様々な議論を重ね、思索を繰り返し、魂を込めました。
今年の表題は、「府八幡宮大祭」となっています。これも神社側と十分話しあった中で最もふさわしい言葉として採用しました。
紙面に記された「どうしても譲れない心がある。」というコピーも、みんなで話し合い、中泉の「心」意気を、祭典を見に来る人々に短い言葉で、どのように伝えるか、考え抜いて生まれた言葉です。
『高林興三郎について』
今年一月、坂上町・判治氏が五年の歳月をかけて旧磐田市の全屋台・山車の冊子を自主発行しました。冊子を作るための聞き取り調査で見付の屋形船の彫刻の中に先代心誠社の山車の彫刻を手掛けた「高林與三郎」の彫刻が沢山あることを新たに発見しました。
加茂川(明治四十年八月)二番町、中川町(明治三十九年八月)地脇、住吉、富士見町、以上六ヶ町。加茂川、中川町の場合は、彫刻の裏に年月が刻まれている。住吉は住吉神社に掲げられた芳名版『大正拾壱年九月屋台新造寄附』とあるが、それ以前の可能性も・・。
先代心誠社の山車の裏にも「明治三十五年」と刻まれている。そうすると彫師・高林與三郎が明治三十五年から四十年までは見付加茂川通り(原文・旧見付町横)に住んでいたということの裏付けになる。
今回の調査で地元に関わる貴重な資料として名工・高林與三郎の作品がこれだけ見つかったことは本当に素晴らしいことです。
これからも判治氏の地道な活動が続くことを期待します。
『心誠社山車について』
記録に心誠社・山車「昭和十三年十月三日、車庫前広場にて上棟式を行う・・・」とある。上棟式ということは、まだ完成していなかったのか?しかし、山車の内側に「昭和十三年十月
日 吉祥」と記されている。そして、当時の祭は、十月一、二日に行われていたのに、なぜ三日に行ったのか?
この日、山車のお披露目・曳き廻しは行われたのか? 謎々?
*前年に支那事変が勃発、祭典中止、宮の例祭は行われたが、山車引き回しは中止。この年も中止。 そして一、二日に「防空演習」を行うことになり、日を替えて四日に浜垢離、六、七日が祭典日となった。当時の時代背景が伺える。
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大正十二年、社司大場禎一氏より旧氏子十ヶ町へ「府八幡宮」掛軸を下賜す。そして、この年から「浜垢離」の神事が年番参加の下、行われたというが・・・?
ここで大正12年の当番記録を振り返り、その噸末を繙いてみよう。
当番記録
大正14年以降は「年番記録」となり、その後昭和19年以降は町名表記から祭典組織名表記へと変化し現在に続く。
当番奥久保の記録によると、
『二月十七日前年より宿題の八幡宮御掛軸下付の申請の件を解決すべく、年番は社司大場禎一氏と公会堂に於いて会見し、各町の熱望を陳述す、大場社司はその旨を容し、軸全部を無償にて下付すべき応答あり、其後社司より東町松声堂に表装なさしめ八月十九日表装終わり九月一日午前八時八幡宮神前に御掛軸を供申して大場社司より御詞を上奏御祭事を厳かに行い神前の式を終えり、年番は一同此の御祭事に参列す』とある。
こうして9月1日夕刻 八朔集会の席上に於いて大場社司揮毫による「府八幡宮」御掛軸が氏子10ヶ町へ下賜された。そして翌9月2日各町がそれぞれ1円を出し合い、祭典若者一同として金10円を府八幡宮へ奉納し、感謝の意を表した。
しかし、府八幡宮に奉仕された社司大場禎一氏は昭和五年数々の功績を残し惜しまれつつご逝去された。葬儀には各町世話係2名が正装で参列し、代表が弔辞を呈し、玉串料は各町1円を宛て一同参拝し、社司に送別をした。
父祖代々が守り続けて、以来83年の経過をみるこの御掛軸は各町会所に
於いて大榊、浜砂袋、そして三方に盛られた神食神酒塩水と種々の神饌を供えると中央に掲げられ、府八幡宮の分身として氏子達の崇敬を集めている。
その後、昭和59年16ヶ町組織となり、新加盟の氏子6ヶ町には時の宮司寺田一二三氏揮毫による御掛軸が下賜され、今日に至る。
御掛軸は府八幡宮の分身であり、会所開きや各町訪問、そして千秋楽手打式など事ある毎に二礼二拍手一拝をもって厳かに参詣し、祭事の安全祈願と氏子の無事を感謝する。
伝統あるこの御掛軸は未来永劫に恒り我々は大切に守り続け、その精神を子々孫々へ伝える義務と誇りがある。
また、この年の八朔集会に於いて新たな決議事項を決定し「年番は各町を代表し浜垢離を行い浜砂を持ち帰り抽籤の時、各町に配布すること」とあり『浜垢離』の神事に一般氏子が参列することとなり、昭和12年には年番2名、各町1名参列の記録があり、戦後昭和26年に復活し、一色海岸にて各町世話係1名、年番2名及び年番中老1名が参列した記録があり、翌年には各町中老2名、世話係2名となり、今日のような宮バス2台と各町のバスを連ねての盛大な浜垢離は、当時としては想像できなかったことでしょう。
昭和28年には年番有志が遠州灘で水垢離をした記述と写真が保存されている。
・・しかし、大正12年9月1日関東大震災があり、喧々諤々の議論の末、
一、本年度は各町会所を廃する事。
二、太鼓を叩かざる事。
三、御輿の供を為さざる事。
四、抽籤を行はざる事。
五、各町共何等行動を為さざる事。
以上を決議し、山車の曳き廻しは中止された。よって浜垢離も中止された可能性もある。大正12年の祭典は多事多難の年であった。
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祝新磐田市誕生
いわた大祭り
<合併記念祝賀行事>
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大名行列
舞車曳き合わせ
山車曳廻し
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玉匣社(久保町)手古舞披露/見付・総社前ステージにて
●中泉山車見付宿に登場
平成17年5月28日夜8時、舞車薪舞のクライマックス、西の屋台と東の屋台の引き合わせになります。
この屋台として中泉の山車を使えないかと、見付の大祭り実行委員会のメンバーが、中泉に問いかけたのがきっかけでした。中泉には、府八幡宮祭典に参加する氏子町内が17ケ町(祭典余興の合同山車運行に参加しているのは16町)二之宮鹿苑神社祭典町2ケ町、白山神社祭典町が1ケ町あり、同じ日(10月第一土日)に毎年実施されています。
中泉と一括りにしますが、三つのお宮があって神事は別々に、祭典余興も形式的には独立して行われています。いわゆる山車は合計20基です。中泉地区20ケ町どの町内に舞車屋台引き合わせへの協力依頼するか、3月頃より実行委員会内で話し合いがなされ、検討の結果、久保町と中央町に依頼することが正式に決まりました。
大名行列歓迎/太鼓披露
●何故久保町と中央町?
中央町は、その名の通り中泉と見付の中央にあり、自治会連合会や行政上の括りでは、中泉に属していますが、大字に見付という地名の地域があり、一部は見付天神社の氏子でもあり、裸祭りには「境松」という旧名で一番触れの一翼を担っています。現に、天神社の神事も祇園祭の神事も、同町天御子神社で行われ、御神輿の渡御もなされます。数年前から七月の祇園祭には山車を見付本通りまで曳いています。中央町が見付の行事に参加することにあまり違和感はなかったのです。
一方、久保町は平成10年に現在の山車を建造完成させました。準備から五年、総額約七千万円の大事業でした。山車建造にあたり、その基本形、彫刻の題材、幕などをどうするかなど検討しなければならないテーマがたくさんありました。その中で山車人形を何にするか、というのも建設委員会の大きな課題でした。白熱した議論がありました。
当時の建造記念誌「玉匣記」にはこう記録されています。「磐田市全域の歴史や文化を見直す中で、ロマン溢れ祭りに因む素晴らしい物語である見付が舞台の謡曲『舞車』が浮上、最終的にその女主人公の艶やかな姿を山車人形とすることになりました…」
こうして久保町玉匣社の山車人形は、舞車の京女となったのです。このような経緯から、久保町の山車が見付宿を舞台に繰り広げられる「舞車・薪舞」に参加することは、久保町の人々にとっても意義のあることだったのです。
見付本通りを曳き廻す玉匣社山車
●中泉祭気分を満喫して
中泉地区の山車が、見付地区に曳き出されるのは、昭和23年、当時の磐田町が磐田市になった祝賀行事以来、実に50数年ぶりのことです。
そこで、久保町と中央町の自治会、祭典関係者は、屋台の引き合わせに使用してもらうと同時に、中泉の山車文化の良さを当日訪れるだろう多くの人々に観ていただければと、予定時間を早めて、山車を飾り、祭り衣装に身を包んで、お囃子掛け声も賑やかに参上とあいなった次第。
中泉の祭りの魅力を存分に堪能して頂こうと、『山車の曳廻し』、ステージでの『手古舞披露』も行い、大盛況でした。同日夜には駅前で他の中泉各町は17基の山車引き回しを実施していましたが、それには参加せず、合併祝賀、新市誕生という意味を踏まえ、見付地区のイベントに参加することにしたのです。
伝統や歴史は継承しなければなりませんが、因習や無用な対立は避けるべきです。中泉の山車が見付に入る意味はとても大きいと思われます。遠州大名行列が、池田から中泉へそして見付へと入ってくれたことと同じくらい意義深いことです。
舞車曳き合わせ 京女を乗せた舞車(玉匣社山車)
●豊田地区の皆さんとジョイント
豊田地区でも合併記念祝賀行事を計画していましたが、実現することは出来ませんでした。そこで相談があり、一緒にお祝いをするために豊田地区のお祭関係者の皆さんも一緒に山車を曳いて貰うことになりました。その他(福田、竜洋、豊岡)地区の皆さんにもご参加願えれば良かったのですが、許容量が限られていましたので本当に残念でした。
昼の出発式から参加(大人&子供=約50名)して頂き、最後の山車格納、慰労会に至るすべての行事を共に行なって頂き、大いに盛り上げて頂きました。本当に、ありがとうございました。
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5/29 静岡新聞 掲載記事
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▼日本全国いや世界中の祭がそうだろうが、必ずご馳走が出てお客をもてなす。府八幡宮祭典の中泉の家々も同様だ。日本の秋祭り定番の「芋の煮っ転がし」「野菜の煮物」「おでん」。これらはおふくろの味だ。これに「焼き鳥」や「唐揚げ」「一口カツ」そして「刺身」と来る。冷たいビールに熱燗の酒。大勢のお客を迎えるため、この準備は大変だ。
▼中泉の母親たちは、当然だがいろいろな所から嫁に来る。例えば、筆者の母は見付から嫁に来た。戦後間もない今から50年以上昔の話だ。結婚前は、見付の裸祭と違って、女性でも花屋台の手踊りなどに参加できる八幡様の祭が羨ましかったそうだが、嫁いでみて驚いたのなんの…。
▼9月1日、八朔集会(最初の外交集会)から、亭主は家を出たきり帰って来ない、午前様はあたりまえ、場合によっては朝帰り。毎日がお祭りで町内の集会所に詰めっきり。時には家に若い衆を連れてきて酒を飲みながら何やら打ち合わせをする。新婚妻のことなんかすっかり忘れ、お祭り一直線。
▼男がこれほど一生懸命になれる祭が本当の日本の祭だったのだろう。そして、法被装束の準備をし、ご馳走を作ってくれた「中泉の女たちの祭」も又一面ホンモノの祭なのである。シチャコリャ。
(七屋狐狸也)
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