平成13年度祭典

21世紀最初のまつり!

 



21世紀最初の府八幡宮祭典は、年番を「東組」が勤めた。過去の記録を繙くと不思議なことに、いろいろな節目の年の年番を東町「東組」が勤めている。

例えば日本が戦争に敗れた昭和20年の「戦後初のまつり」も東組が仕切っている。これはまったくの偶然なのだが、このあたりの歴史を振り返ってみよう。

東組の山車の建造時期については不詳。
町関係者は「明治時代」と言うが、事実とすれば、現在の中泉の山車の中では最も古いものとなる。

明確な記録として残っているのは田町・盛友社の大正2年建造。東組は二輪で、他の同種の七軒町・騰龍社や中町・鳴鶴軒より一回りも二回りも大きい。

写真
(下)はまだ上部に漆が塗られていない段階の非常に珍しい写真である。

場所は金山神社
(現在の東町公会堂)の前。
人形は、府八幡宮の祭神である「神功皇后・応神天皇」と「武内宿祢」である。

多くの町内が人形を毎年業者から借りて変更するのに対し、東町は自町で購入をし変わらない。
(玉匣社も「舞車」の人形に固定)


金山様前にて東組・山車
 





昭和20年8月15日、日本は敗戦を迎える。
連合軍司令官マッカーサーは8月末厚着へ到着。
日本は占領される。

しかし、この年の年番である東組は、八朔集会の開催を各町へ通知、祭の準備にかかる。
残念ながら、この年の「年番記録」は最初の部分が欠落しているが、後半から推測するにやはり時代の大混乱の時、祭実行までに大変な苦労があった様子がわかる。

当時の価値観の急変、国自体また中泉町自体がどうしたら良いかわからない時であるから「権威」を何処へ求めたら良いかさえわからない。
従って、八朔集会において世話係は意見を集約しつつ町と警察の意向を探ろうとする。
結果、各町の区長とも話し合い「山車奉納」をするかどうか多数決で決定つることとなり、最終的に五対三にて実行をすることとなる。

当時はモノが何もない時代だ。ロウソクさえなかった。千鉄支店でロウソクの入手方法について協議をしている。 祭は10月2、3日と行われた。
初日は「天気晴朗絶好の祭日和」とあり、ある種の開放感の中、祭を迎えた町民の嬉しさが伝わってくる。

初日、2日とも事故があったり雨が降ったりしたことを、まるで「八百長」のように利用し盛大な祭を三日目の朝六時半手打まで行ったのである。
戦争で多くの若者、人々が犠牲になった。また、この時点では故郷へ帰って来られない人がたくさんいた。
現に玉匣社の若者名簿にも「戦地より帰らず」の表記が残っている。

そのような中、しぶとく府八幡宮祭典余興を実行した当時の世話係の心意気が理解できる。
中泉庶民史の一側面を伝える大事な記録である。
なお、空襲で山車を焼失した新栄社は参加できなかった。

東組・山車/昭和10年撮影

 




昭和時代は十ヶ町だったので、年番の年は0年が東組、1年が騰龍社であった。

昭和10年の祭は年番東組が年番辞職を言い出す相当揉めた祭だった。
特筆すべきは、この年初めてコースに久保川沿いが入ったことだ。この年のコース表は現存。
更に10年前は、大正14年となる。「八幡宮祭典余興申合規約」が改正されている。

前年「坂ノ上対七軒町」の紛糾事件があり、これが未解決の為、年番は年当初より各町集会を開くがなかなか解決せず、ついに心誠社若者は解散状態となってしまう。
結局八朔集会時点では出席できず、その後復活して祭には参加をした。

大正4年という年は中泉府八幡宮祭典にとっては記念すべき年である。
というのは、現在に残る「年番資料」の最初の年であり、かつ栄町が組織に加わった年、すなわち十ヶ町組織ができた年だからである。
その為、当番・東組は各町に計り「八幡宮祭典余興申合規約」を決定させた。

この年にこれができた理由は、明治天皇の喪が明け御大典が行われたことが大きかったと思われる。
それにしても当番・東組は、その時代の大きな役割を果たしたことに間違いない。

江戸時代は「久保若、西若、東若」と言われていたが、その一翼を担った伝統町内の面目躍如たるものがあり、その功績は現在の「年番資料引継ぎ」にそのまま反映されているといえよう。




    
こんな言い伝えがある。というよりも子供時代からそう信じてきたのだが、こんな会話が子供同士で交わされたものだ。

「東町の人形はいつも変わらない。変じゃないか

ばかいうな。おらん町の人形は他と違って、八幡様の鳥居が倒れるまで変えちゃあいかんだぁ〜

なんでだぁ〜

むかし、神様が山車は鳥居をくぐっちゃいけないって言っただに、東町の山車がかってにくぐって、八幡様が怒って「この鳥居が倒れるまで、人形をかえる事まかりならん」って言っただにぃ〜

ほんでも、いつもいっしょじゃあ面白くないらぁ

鳥居が倒れたら、次の年番町にあの人形を引き継ぐだにぃ〜

じゃあ次は七軒町があれを人形にするのか?

そうだぁ

それじゃあ、昔は久保や西町もあの人形だったのかいなぁ?

鳥居が二回倒れたってことかいなぁ?

坂之上や田町は人形を乗せれん山車だで、どうするだいねぇ?

ほんでも、あの赤ん坊は誰だ〜? あの爺さんは誰だ〜?

ばぁか、あれは八幡様の神様じゃん。 昔の天皇様らしいぞ

詳しいことを、おとっさにでも聞いてみすかいのぉ〜

そうするべえ、そうするべえ」





明治37・38年、西町山車は出なかった!


西町関係者より明治時代のものを含む祭典資料があると連絡をいただき、早速調査させていただいた。古い箱の中にかなりの資料が残されていたが、最も古い資料は明治35年より42年までの「西町・鑾留閣祭典決算調書」であった。

もちろん和綴じ墨書きのもの。内容はその年々祭典に掛った費用の内容と金額、収入及び繰越金などが書かれ、最後に世話係数名の署名がある。支払い項目の内容は、笛吹の謝礼、宿泊料、提灯修理代、人形代、衣裳代、八朔集会費、八幡宮掃除代などを初め多岐にわたっている。

当時鑾留閣は今の四輪山車ではなく、二輪山車であったので、人足十人の賃金なども支払われている。もちろん酒代や飲食店と思われる払いもあり、中には「中老膳部」という項目で、中老のいわゆる宴会費が毎年必ず出費されているのも興味深い。

【西町だけか?全町か?】
問題は明治37年と38年の支払い項目に他の年とは大きな違いがあることである。実はこの二年に限って、山車の引廻しに関する支払い項目がない。笛吹の謝礼やその宿泊代、人形の借賃、人足の賃金等がないのである。

 八朔集会費や、協議費、中老膳部、八幡宮掃除代等引廻し以外の支出は例年どおりだ。これは、明らかに山車を出さなかったことを示す紛れもない証拠である。一体この二年はどういう年だったのだろうか。西町だけが山車を出さなかったのだろうか。それとも全町の山車が引廻しを中止したのだろうか。


【日露戦争の暗い影】
当研究会が昨年発見した中泉学校日誌によれば、この両年、八幡宮祭典は実施され小学校は3日間休業となっている。だから、八幡様の祭は行なわれたのである。では、余興だけが中止されたのだろうか。

余興が中止されたとすれば、この2年は日露戦争のあった年だったことが影響している可能性はある。しかし、山車引廻しがない祭典で、小学校は休みを与えるであろうか。もしも、神事だけの祭典だとしたら、子供たちに休業を与えるだろうか。

日露戦争は大変な戦争であったがなんとか勝利を得る。明治38年1月には旅順が陥落をし日本中が沸き立ち提灯行列を行なっている。現にこの決算調書にも「提灯行列に付提灯買求」の記事がある。

5月にはバルチック艦隊を破り日本の勝利が確定的となる。9月には日露講和条約を締結する。磐田市誌によれば中泉町より161人が出征し5人が戦病死している。西町資料にも応召の記事が見られ餞別が出費されている。

しかし、世相は大不景気。磐田市誌は書く。「人気深々沈み、また政府よりは神社仏閣の普請法要等は悉く見合わせるよう通達があり、民家においても遠慮したり、不景気により普請・修繕・買い物等一切見合わせる動きがあった。さらに追い打ちをかけたのは、軍事費の不足を補うための増税であった。」

【「各町と和解」の謎】
これから推測すれば、余興、山車引廻しは全体的に中止となったと考えられる。しかし、明治38年3月26日の記事「各町と和解」の一行が非常に気になるのである。この意味はどういう意味か。西町は他町と何か諍いがあったのだろうが内容は全く不明。 

また、もう一点は、明治39年の記事に「当番に付」という箇所があることから、この年に西町が「年番」だったと考えることができる。ところが、当研究会が作成した祭典年表では、どう考えても明治38年が西町年番の年なのである。この一年の食違いは何を意味するのか。

推測は様々にできるが、断定することはできない。
ただ、明治37、8の2年間鑾留閣は山車を出さなかったことは間違いない事実である。この他の状況については、他の資料が出ない限り推測の域を出ない。

素晴らしい資料が西町公民館にあり、それを判読することにより明治時代の中泉の祭典の様子がかなり判明した。その成果については又の機会に掲載をしたい。しかし、新たな謎がまた生まれてしまったようだ。ところで、西町先代山車は何処へ消えたのだろうか。これも明確なことはわかっていないし、その写真も残されていない。

もっと資料を!













大正2年(1913)建造された盛友社(田町)の山車は掛塚に影響を受け、中泉地区初の四輪大唐破風一層で、その当時は人々の注目を浴びた。
折しも新道
(現在の栄町)が西町より独立をした頃で、不用となった田町の二輪山車を譲り受けている。

現在の四輪山車の中にあって盛友社の山車の特徴は、人形はないものの二輪山車の名残を止める前方の「手木」にあり、また右に楫を倒すと車輪は左に向く「逆楫」にある。
山車の曳き廻しには極めて技術を要するものである。今では16台中13台が四輪に変わり、四輪の台頭が続く中、二輪はわずか3台になってしまった。

大正から昭和初期に掛けて二輪も造られているが、盛友社の山車は四輪の新造ブームを巻き起こした火付け役になっている。
江戸末期から明治期の二輪文化からすれば、今日の四輪の台頭は、予想も付かぬ様変わりであり、時代の変遷をしみじみと感じる次第である。

さて、そんな華々しくデビューを飾った盛友社の山車も長年の活躍、そして風雨に耐えて、87年を経過し、老朽化が進んでいる。
(但し20年ほど前に柱を替えたとのこと)
 
現在は、土台の損傷が激しく、このほど改修の運びと
なった。
豊田町一言の「遠州木材センター」作業所に於いて、(株)天峰建設の手による改修工事が始まった。
まず、解体作業として各部の彫刻が外され、次に屋根部分が、そして柱、床部分がばらされて、土台と車輪のみとなった。
一方、真新しい欅の土台が木取られ、完成を見る。そして、徐々に組み立てられ、最後に車輪が取り付けられ、改修工事は完了した。

平成13年9月16日(日)には、完成を目出度く祝い、町内で賑々しくお披露目が行われた。
この改修工事を取材中、注目すべきいくつかの新たな発見があった。
(田町の皆さんはご存知でしょうが・・?)
まず最初に目にした物は、棟札
(神社仏閣や民家の竣工時に天井に納められる棟梁直筆の木札である)とも言える天井下中央の梁である。
その梁には、次のように刻まれていた。

           



 

 


  












 


  

   
(梁に彫り込まれていた制作関係者)


盛友社山車・土台部分 掛川住・早瀬利三作

盛友社は87年ぶりに土台を改修した。






* 木鼻(篭彫りの獅子)の裏には、 
 「大正六年九月 渡邊重晴」 と墨書きされていた。

* 一方の木鼻
(振り向き獅子)の裏には、
 「昭和四初秋 早瀬利三作」

* 同じく太平鰭の布袋と唐子には、
 「掛川住・早瀬利三作」と墨書きされている。

これは大正2年に棟梁・山本菊五郎
(大菊)の親子と彫師・渡邊重晴(現・静岡県三島市)によって建造されたが、その後、別の彫師の彫刻を付け足していることが判明した。
確かに落成当時の写真を見ると幕も「無地」で彫刻も少ない。
すなわち、大正12年の幕「虎の子渡」の名作の完成を待って終了したのである。

その後に於ける先人の祭に対する弛まぬ情熱と意気込みには頭の下がる。さて今年の祭の話題として、歴史的にも一見の価値あり!

どうぞ盛友社の山車にご注目あれ!






▼「馬鹿囃子」流中泉府八幡宮祭典改革私論を以下掲げる。
基本は「良い伝統は守るが、時代とともに変えるべきは変える」である。
@ 世話係・外交は継承・絶対維持する。
A 祭典委員会の機能を充実させ、世話係・祭実行者のバックアップを強化する。警察を初めとする関係機関とは、祭典委員会幹部が責任を持って対処する。
B 長期的展望に立った祭典の在り方を考える小委員会を常時設置する。
C 府八幡宮との関係を緊密に図り、同じ将来展望の元、改革を実行する。 
D 二之宮、京見塚地区と連携を図り、神社同士も話し合いの場につき、統一祭典委員会を組織する。 
E 世話係・祭典実行組織も合同化を図り、祭典の名称は「いわた中泉山車祭り」とする。 
F 「年番制度」はこれを維持するが、連合当番制など改革を図る。 
G 参加者は全員名簿化、正式参加者は規定の印を付け明確に判別できるようにし、部外者の参加を規制する。 
H 部外者の不正参加、青少年の非行問題、交通対策等には、規制委員会を設け自主警備、自主規制を実行徹底する。 
I 祭典は金土日の三日間とする。金曜日は開会式を行う。 
J 土曜日夜は山車を府八幡宮に据え置き、神事との連携、祭典のクライマックスを演出する。日曜日早朝山車は各町へ帰る。
K 女性の世話係参加を認知する。
L 老若男女が楽しめる祭典にする。
M 地域経済に寄与できる観光的見地を視野に入れる。
N 遠州中泉の祭文化、山車文化を後世に残すあらゆる努力をする。
(七屋狐里也・記)

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