平成12年度祭典




10月第1・土日曜日

吹く風に冷気を感じる頃、「祭り人」の血が騒ぎ出す。

今年も良いお祭りにしたいと、各町世話係を中心にそれぞれ頑張る。
年番がまとめ役となり、九月1日の「八朔集会」を初めに、「臨時外交集会」を重ね、今年のコースが決定し、府八幡宮祭典が執り行われる。

騰竜社二輪山車


祭の見所


“祭の見所”も様々だ。
「掛塚屋台まつり」は、屋台の美しさもそうだが、お囃子も「京の雅」を感じさせる優雅さがあって楽しめる。そして毎年、心血を注いで屋台の組み立てを行っている。これも見所だ。
「横須賀まつり」は、なんといっても、江戸の伝統を守り抜く心意気の結晶“祢里”と“粋な江戸囃子”。

それぞれの町に心意気というものがある。
それらが見る人も一緒に巻き込んで祭に酔わせる。それが祭だ。

中泉の祭では、若者はコース取りに必死になる。
十六ケ町はそれぞれに自町の誇りを胸に主張を展開する。
それは「若者の祭り」の主張となってしまう。そこに、外側から見た「中泉の祭り」の位置づけの意識はない。

戦後になってからは、全山車がお宮に集まることなく祭が始まり、終わってしまうこともあった。近年、千秋楽の「宮入」の時だけ全山車揃い踏みとなる。しかし、ただ集まるだけで解散してしまう。神社と一体になった祭ではない。『神事の余興』という位置付けではない。

中泉の祭は、本来は毎年9月1日の「八朔集会」の場で全てが決まった。「申し合わせ事項」の中に「全山車、府八幡宮に参集のこと。」とあり、山車のコースも決められていた。しかし、昭和5年に初めて「臨時各町集会」を開き、「新コース案」について協議を行った。しかし、当時はまだ大きな変化もなく戦争を迎え、団体行動もできない厳しい時を過ごした。

戦後になると、大きく様変わりしてしまい、山車が神社にも集まるという最も大切な伝統は崩れてしまった。そして、毎年、「臨時外交集会」を開いて、各町の思惑によって、コースを決めるようになっていった。自己主張のぶつけ合いが行われるようになっていった。

本来、全町の山車はお宮に集まって、各町代表者
(世話係は法被、中老は羽織袴で参列)が神事『夕祭』に参加して、その後に宮を出発、「宮出し」した山車が西東二班に分かれて、「宵祭り」を行った。

そして、2日目は本祭に参列するために全山車を宮に集めて、代表者が『例大祭』に参列し、全山車が「御神輿渡御」のお供をとして、御神輿コースを一周して、お宮に戻り、「宮入り」してから『終了式』を行って祭典の終了となる。

「京都祇園祭」 「秩父の夜祭り」等、全国の伝統ある祭の多くが、神社から御旅所への『御輿渡御行列』が<祭の見所>となっている。その伝統を守り継いでいる祭が観光としても大いに評価されている。それが<見所>として評価されている。そこには、積み上げられ、守られてきた伝統が存在している。



般若の舞<玉匣社>



奉納舞<浜垢離>






 
明治時代の府八幡宮祭典は旧暦の8月15日らしいと推定されてきたが、その確たる証拠は今までなかった。

のたび、玉祭研のメンバーが、学制発布以来の歴史を持つ中部小学校(旧・中泉学校)に「校務日誌」があることから、そこに何らかの祭典に関する記事はないかと調査した結果、明治33年以降の祭典日が明確に記載されていることが判明した。


 
明治33年9月6日(木)の日誌記事に「明日ヨリ来ル九日マデ三日間縣社八幡宮祭典ニツキ休業」とあり、当時、小学校は三日間休みだったことがわかる。

 この祭典日は新旧暦月日対照表によれば、ぴったりと旧暦8月13〜15日に当てはまり、推測しかったことが証明された。

以降、明治34年
(新暦9月26〜28日)35年(同9月15〜17日)というように明治42年まで旧暦8月15日までの三日間を祭典につき休業と記している。

日誌なので天候、気温は記録されているが、その他の事件については特記事項しか書かれていない。


昭和28年浜垢離風景



昭和28年浜垢離風景






 
明治43年に、新暦9月13〜15日と祭典日が固定されたと思われる。
というのは、この年の旧暦8月15日はこの日に当たらないからである。

明治44年は残念ながら記述がなく、45年は7月30日に明治天皇が崩御された為、祭典余興・歌舞音曲は中止された。

9月13日に学校後庭に祭壇を設け、神職大場禎一、外二名を招き祭事を奉仕、誄詞を奏上し一同遙拝式を挙行した。

 また、八幡宮でも夜12時より遙拝所で式典を挙行、校長外主任職員が参列したと記述されている。
大正2年、まだ喪は明けていない。
 
9月13、14、15日は休業。
但し、府八幡宮に生徒は参拝をしている。

本来は全校で参拝する予定が、雨の為高等科三年生のみ祭殿に上り列席したとある。 

大正3年も記録がなく、不詳だが、御大典は翌年大正4年で、この年からは「年番記録」が残され、府八幡宮祭典余興の内容が詳しく現在に伝わっているのは、すでに読者のご承知の通り。 
 
以上により、江戸時代から現在に至る祭典日の変遷は次の通りに判明した。

今田屋の前にて・・・盛友社




 
@江戸時代〜明治5年
  
 旧暦8月15日
 
*新暦採用は明治五年十二月
  (証拠は西光寺日記)  

A明治6年〜42年
 
 旧暦8月13日〜15日にあたる日

*変更の理由・新暦採用となったため。  

B明治43年〜大正10年
 
 9月14、15日

*変更の理由・毎年祭典日が変わるよりも固定
  された日にしようとしたためと推定される。

C大正11年〜昭和37年 
  
 10月1、2日

*変更の理由・9月14、15日は雨や台風が
  多かったため。     (年番記録による)

D昭和38年〜現在 

 10月第1・土、日曜日  

*変更の理由・土日なら勤め人の参加者が
  便利なため。     
(年番記録による)

 




中泉学校「校務日誌」の明治42年に興味深い記述があった。
 
この年の祭前日の記事に、「田町ノ女児明日ヨリノ祭典準備ノ由ニテ第一時限リ早引申出シニ付其区青年世話係ヲ招キ斯ルコトナキ様致シ度相談セシ処右ハ町ノ希望ニアラズ手踊師匠ノ失言ニ付本日ノ授業ヲ完カラシテ度申出アリタル」
とある。

花屋台は戦後始められたということだが、この記事により花屋台の存在はともかく、女子手踊りは当時より行われ稽古もしっかりやっていた様子がわかる。

また、同年祭典翌日の記事が面白い。
児童たちが祭で疲れ切り、とても授業は不可能なので、2時間で終了とし午後は職員だけで運動会の件を協議したとあり、のどかなものである。

別の記事にも同様の記述が見られ、見付天神裸祭の翌日も同じような判断をしている年もある。

上のように旧中泉学校の校務日誌から、明治時代の祭典の様子を垣間見ることができた。

明治時代、山車・屋台の在り方に大きな影響を与えたのは、電線・電話線だった。

中泉では、明治41年に電話線が引かれ、その年の山車引廻しは中止、山車据置となった。

三階建て山車は姿を消し、時代は明治から大正へと移っていくのである。






中泉型といわれるこの地区独特(磐田市中泉地区)な山車が存在する。

大正初期までは、同型九台の中泉型二輪山車が存在したが、今では現役三台、退役保存が一台である。
(詳細は,HP<News Paper 2>参照)

この地区の山車がどうしてこのような形になったのか、ルーツを探ってみた。

あくまで検証といっても、仮説を基に推理を働かせて辿り着いたものである。
 いろいろな証言や証拠になる物証は限られている。

@お祭りはいつ頃から始まったのか?
 当然のことながら、府八幡宮が建立された時からと考えるのが妥当でしょう。
 
遠州中泉 府八幡宮は、天平年間
(729〜748年)に遠江国司であった桜井王(さくらいおう)が、国府の守護として勧請したと伝えられる神社である。
現在の本殿は1671年に徳川二代将軍秀忠の娘、東福門院によって寄進されました。
楼門
(1635年建立)は県指定文化財。

その頃にどの様なお祭りが行われていたかは定かではない。しかし、江戸末期には、すでに「山車」や「手古舞」が存在したことは分かっている。
(明治二年の記述あり)

Aお囃子のルーツは・・・?
  
江戸葛西囃子の流れを汲む祭礼囃子で、静岡県小笠郡大須賀町横須賀で完成され、今では通称・横須賀囃子と言われ遠州地方を中心に最も親しまれているお囃子である。

亨保の初め頃、若者達の風紀が乱れ、それを見かねた修験者の能勢 環という人が彼らを善導しようと考えられた神楽囃子が流行り、江戸の人達が馬鹿囃子と称して楽しんだ。
これが葛西囃子の由来だという。

この葛西囃子が江戸庶民に親しまれ、神田祭にも囃されるようになり、江戸囃子と呼ばれ、ご家人衆が習い覚えたことから、御家人囃子と名付けられた。

当時、参勤交代で江戸に出向いていた御家人が江戸より横須賀に持ち帰ったお囃子がいつしか町民にも広がり、神社への奉納、祭の囃子として広く各地に広まったものと考えられる。

B山車のルーツは・・・?
これが今回のメインテーマである。
まず考えられることは「お囃子と一緒に伝わって来た」という説である。
そうであるなら、横須賀の「祢里」が原型ではないのか?
そこで「祢里」と「中泉型」との比較をしてみよう。

a. 本体は中泉型の方が一回り大きいが体系はよく似ている。車輪は共に二輪である。双方とも手木が付いている。
b. 車台の部分は祢里には腰板がないものが多いが、中泉型には腰板があるが形式は似ている。
c. 「祢里」は一本柱様式であるが「中泉型」は五本の柱がある。
d. 天幕は共にある。
e. 「祢里」の上部には万燈があり、花飾りが付く。「中泉型」の上部は高欄付き舞台形式でり、だし丸提灯が付く。
f. 最上部には共に「だし人形」が載せられている。

上記の中で一番の違いは、祢里の柱が1本に対して中泉型山車の柱は5本である。

「祢里」の柱には顕著な特徴がある。これは昔、お城の門をくぐるとき、長い柱
(心源棒)を倒して、くぐり抜けるために可動式になっていることである。

明治初期まで存在した三若連時代の3台の山車は、「祢里」であった可能性が高い。なぜなら、お囃子と共に山車も一緒に伝わったと考えられるし、中泉型と呼ばれる山車は、祢里の様式などの類似点が多く、祢里から変化したものと考えることができるからです。

現存している中泉型と呼ばれる山車の多くは、大正時代のものですが、それらの前
(明治時代)の山車がどの様な型をしていたか?

あくまで推測の域を出ないが、久保町に残されていた先々代の山車・車輪の大きさは横須賀の祢里の車輪と同じくらいの大きさであったことや、横須賀から影響を受けて始まった祭りであることからしても当時は「祢里」と似た型であった。そう考えるのが一番自然なことだと思います。

巷に囁かれるうわさ話で・・・、「昔の中泉の山車は、三階建てだったんだぞ〜・・・」と聞かされたことがあります。
 どの様な型をしていたか?

それは現在の中泉型山車の高欄中央部から一本の柱が伸び、そこに万燈、だし飾りが存在していたのではないか!?
 要するに中泉型の上に祢里の上部分がそのまま載っている状態です。

明治41年になると中泉にも初めて電線・電話線が張られ、同年の祭は電話線を切る恐れがあるということで、町役場からの通達により「中泉各字青年世話係協議会」が開催された結果、山車の引き廻しを中止している。
 その後、安全に山車を運行し、祭を行なうために上山の床部分から上を切断し、現在の型になったのではないか!?と考えます。
 そして大正3年から始まった中泉町内の道路拡幅事業によって、道幅が広くなり、それに伴う山車の大型化、二輪山車から四輪山車へと代わっていった。

「中泉型」にも「心源棒」に似たものが存在するが、それは通称「中柱」と呼ばれている。心源棒と同じであると断言することはできないが、高欄を支えるための柱であれば、4本柱で十分である。5本目の中柱が高欄を支える必要はない。

*中町の山車の中柱は土台にはめ込むためのホズはなく、ボルト締めになっていて簡単な止め方であり、天井部分には柱を支えるための部材もなく、高欄の床板を突き抜ける状態になっていて、今では床上30cmのところで切断されている。

その状況から推測するに、さほど重い物を支えることはできない。せいぜい、万燈、花飾り、提灯くらいの重さを支えるための物であると考えられる。かつては、その先に万燈が付き、花飾りが付いていた可能性がある。
そして四本柱は、土台の上に添木を這わせ、そこにホズを掘ってはめてある。

*坂上町の山車の高欄を支えるための4本柱には「柱のほず」がなく、金具で留めてある。中柱は取り外しができる状態であったが、今は固定されている。

*久保町の山車の中柱は、ホズにはめ込み下に貫を指してある。しかし、柱の位置は左右の中央ではなく、左に少しずれている。

それぞれ「祢里」の面影や共通点はあるものの、必ずしも同型の物ではない。

 「祢里」の面影を残しつつ、豪華に変化させるために4本の柱で支えられた大きな高欄型にし、心源棒の代わりに中柱を付けて、そこに万燈やだし飾りを付けた5本柱の二輪山車ができた、と考えることはできないか!?

 「祢里」からの変形型!? 
 祢里の面影を配した新しい二輪山車・・・合体型!?
 祢里から中泉型二輪山車へ・・・!!

これらのことはあくまで、ひとつの推測でしかありません。しかし、以上のような推理や検証を試みることにより、先人の祭りに掛ける思いや情熱をも感ずることができれば幸いです。

以上、簡単に「中泉型山車」のルーツについて、まとめてみました。 

    




▼祭の楽しみ方はいろいろある。人によって様々だ。参加する人も楽しいが、中泉に嫁に来て参加はしないけれども見るだけで楽しいという女性も多い。現代の八幡宮祭典余興は女性大歓迎だが、昔は参加できなかった。現在も女性世話係はいない。もうすぐ、女性世話係が必要な時代が来るかもしれない。

▼祭は老若男女がみんなで参加し楽しむことができれば、これに越したことはない。だが、伝統的に女性参加が許されない祭もまだあちこちに残っている。お隣の見付天神裸祭りもその一つだ。京都祇園祭も半田祭りも女人禁制である。いつかこれら伝統的な祭礼も変革の時を迎えるかも知れない。他はともかく中泉は誰でもルールを守れば参加できるのだから、大いに参加し山車引廻し、練り、お囃子をみんなで楽しみたい。

▼筆者はたまたま「祭典女子中学生参加実現の年」に一中のPTA役員をしていたが、その前年の三年生女子の団結と行動を忘れることができない。彼女たちは学校に多くの署名を提出し、女子参加実現を勝ち取ろうと懸命の努力をした。その年は外的な準備ができていないという理由で一歩及ばず実現は翌年に持ち越された。

▼その時の彼女たちの泣きながらのことば。「自分たちの行動が来年に繋がればいい。先生方も地域の人たちも分かってくれたと思います」。当時、高校生は参加不可であったから、その学年の女子は参加できるまで随分と時を待たなければならなかった。

▼大人が時に教えられる。祭の楽しみ方はいろいろとある。その二回の祭は中学生の練りや参加方法をスムーズに実施することが、自分の祭であった。今振り返れば爽やかないい祭だった。  

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