中泉学校「校務日誌」の明治42年に興味深い記述があった。
この年の祭前日の記事に、「田町ノ女児明日ヨリノ祭典準備ノ由ニテ第一時限リ早引申出シニ付其区青年世話係ヲ招キ斯ルコトナキ様致シ度相談セシ処右ハ町ノ希望ニアラズ手踊師匠ノ失言ニ付本日ノ授業ヲ完カラシテ度申出アリタル」
とある。
花屋台は戦後始められたということだが、この記事により花屋台の存在はともかく、女子手踊りは当時より行われ稽古もしっかりやっていた様子がわかる。
また、同年祭典翌日の記事が面白い。
児童たちが祭で疲れ切り、とても授業は不可能なので、2時間で終了とし午後は職員だけで運動会の件を協議したとあり、のどかなものである。
別の記事にも同様の記述が見られ、見付天神裸祭の翌日も同じような判断をしている年もある。
上のように旧中泉学校の校務日誌から、明治時代の祭典の様子を垣間見ることができた。
明治時代、山車・屋台の在り方に大きな影響を与えたのは、電線・電話線だった。
中泉では、明治41年に電話線が引かれ、その年の山車引廻しは中止、山車据置となった。
三階建て山車は姿を消し、時代は明治から大正へと移っていくのである。
|