平成11年度祭典



二日目午後、玉匣社発


 平成十一年度の年番は「玉匣社」。府八幡宮祭典余興の一番最初に戻ったことになる。この記念すべき年に本年の外交集会は史上初めて、全十六ヶ町の山車が、ほぼ中泉地区全域を曳廻すコースを決定した。

 年番は、その年の祭典のすべてを仕切る大切な役目。昭和五八年まで旧十ヶ町が、これを順番に勤めてきたが、その一番は久保町・玉匣社だ。明治時代には、おそらく九ヶ町の時代が続き、しんがりを田町・盛友社が担ってきた。大正四年に十番目に栄町・新栄社が加わり「十ヶ町組織」が結成された。昭和五九年以降に新たに六ヶ町が加わり、これらの町も昨年の大泉を最後にすべて年番を経験した。


【千秋楽は府八幡宮】

 そして、本年一番の玉匣社に戻ってきたというわけである。この記念すべき年の山車運行コースがどうなるか、注目されていたが、外交集会は九月十八日深夜コースを決定し、手が打たれ縁起物の「するめ」が各町に配られた。その結果、初日は東西二班に分かれたが二日目は、午後一時半に久保町へ十六台が集合、西回りで旧十ヶ町地域を経て、ジュビロードを通り、千秋楽は府八幡宮で解散という史上初のコースとなった。


【伝統と改革の間で ・・・】

 昨年まで、二班に分かれ、見る側からすれば残念なコースになってしまっていたが、本年は外交・世話係の努力が実った。各町の意地と意地のぶつかり合いも祭り当事者には責任上必要かもしれないが、多くの市民が盛り上がりのある楽しい祭りを望んでいることを、祭実行者は念頭に入れておく必要がある。そういう意味では、伝統を守りつつ、様々な企画や在り方を前向きに検討すべき時が来ている。「祭典委員会は、改革案を早急に自由に検討する機関を設置すべきだ」という関係者の声も最近多くなってきている。


【新町も旧町もない!】

 本年のコースの見所は、初日夜八時半頃の久保町六叉路(見付岡田線)での、六町による「折り返し」、二日目は、午後から始まる十六台の山車運行そのものだろう。初めてのことだから、思わぬ事態も予想されるが、各町世話係の一致協力で統制のとれた華やかな曳廻しが実施されることと思われる。何より十六ヶ町がひとつになり汗を流し、一日の祭典を作り上げることにより、新町も旧町もない新しい融和が生まれる筈だ。


【四ヶ町が手古舞奉納】

 本年よりお囃子と手古舞を八幡宮で奉納することになり、最初の年は、玉匣社、志組、心誠社、石溪社の四町が参加する。花屋台が三町だけとなり、奉納踊りも少なくなったので、本山車の手古舞を奉納しようという事になった。各町のお囃子の実力向上と伝統芸能の伝承は大切なことであり、祭典委員会主催のコンクールなどの実施も望まれるところである。






浜垢離・自転車で海岸へ・・


 八幡宮祭典の余興である山車曳廻しに関する記録は、大正四年以降が残されていて現在まで繋がっている。そこに書かれた記録は大変貴重である。「年番記録」に表れた最初を辿っていくと、例えば「浜垢離」は大正十二年に初めて「新決議事項」として出てくる。

 昭和二八年(一九五三)ようやく戦後日本にあかりが見え始めた時代。久保町・玉匣社は年番を迎えた。この年の「年番記録」にこうある。

 「九月二十九日、各町世話係二名、中老一名銀輪をかつて一路南下午前十時四十分、一色海岸に到着・・」つまり、各町の代表者は自転車で浜まで走ったということだ。まるで、当時人気の映画「青い山脈」のような様子。続いて「年番有志数名遠州灘に木浴す。水温適度にしてまことに壮快。式滞りなく終了。

 白砂に腰を下ろして昼食に就く。一同乾杯御酒の廻るにつけ予め年番の用意せる小太鼓に笛入り祭典前奏曲は高らかに遠州灘に鳴り響けば中老大老の腕に自信のあるものの打ち鳴らし愉快な一時を過ごす・・」
 この時の写真が残っている。今年行われた浜垢離の様子と比べると、たしかに人数は少ないが、神事の模様などほとんど同じである。褌姿の世話係は、今では見られないが、浜で美酒に酔いながらお囃子に興じる姿は、今と同じである。


 「年番記録」大正十二年に、初めて浜垢離が出てくる。この年は玉匣社が年番だが、関東大震災のため、曳廻しは中止となった年である。記録には「新決議事項」として「年番は各町を代表し浜垢離を行い浜砂を持ち帰り抽籤の時各町に配布すること」とある。新決議とあるので、このときから浜垢離が始まったか?それとも、年番が代表して浜垢離を行うことが特別なことであったからなのか?定かではない。

 この後、昭和八年までは浜垢離祭参列と記録されている。九年西町年番になり、各町二名年番三名が正装で参加し浜砂を持ち帰る、とある。つまり、宮の宮司や役員の行う神事に氏子を代表して参加し、祭当日のお神輿渡御の祭に使用する浜砂を責任をもって持ち帰った。

 こうして、浜垢離だけの記録を繙いてみても、少しずつ参加者が増え、現在のようにバス三十台で賑やかに楽しむ時代になったということがわかる。それにしても大正十二年に浜まで行く方法は、やはり徒歩だったのだろうか。戦後すぐには、自転車、そしてクルマ社会の到来とともに大勢が参加できるようになった。


 祭典のひとつひとつを詳しく見ていくと、思わぬ庶民史を見いだすこともできる。例えば、いつから前夜祭は行われたのか?花屋台はどう始まったのか?世話係制度の変遷は?などなど設問はいくらでも作ることができる。ただ、それを解明するためには、資料や写真が不足している。

 そこで各家庭などで眠っている「昔の祭の写真」をぜひ見せて下さい。戦後すぐのことさえも、記録に残されていないのが現状だ。古い写真をパソコンに入力することにより、拡大が可能となり、細かい字を解読でき、その年の人形のテーマが判明するということもある。

 いずれ府八幡宮祭典写真集を刊行したい、と夢を描く「玉匣社祭研究会」にご協力ください。明治の祭資料はほとんどありません。このあたりの資料のある方は、ぜひ、ご連絡下さい。









 磐田市中泉の祭に行けば、様々な型の山車屋台を観ることができる。現在の十六台の山車を型別に類型してみよう。

▼まず、
@ 二輪中泉型は東組、騰龍社、明確軒の三町、これは人形がある。
A 四輪大唐破風一層屋根型は盛友社、大泉、人形なし。
B 四輪大唐破風前一層部分屋根高欄付型は鑾留閣、志組、ただし志組には後にも唐破風がある。人形あり。
C 四輪大唐破風前二層部分屋根高欄付型は石溪社、新栄社、旭祥社、人形あり。
D 四輪大唐破風前二層部分屋根型は宮本、鴛鴦社、人形なし。
E 四輪大唐破風軒搦入母屋造り二層屋根型は心誠社、御殿、泉湧社、人形なし。
F 四輪大唐破風前一層部分屋根高欄上下可動式上山付型は玉匣社、人形あり。以上7つの型に分類できる。

 この中で漆が塗られているのが、@の二輪3台と鑾留閣で、あとは白木造りになっている。

 さてmこの類型は、中泉においてどの様な発展をしてきたのか。江戸から明治にかけての山車の型は、よく分からない。東組が明治28年建造というが、確実な証拠がない。他の騰龍社、鳴鶴軒が大正時代建造を考えると、明治中期に@の型が出来上がったとは推定できる。先代、心誠社はこの型で、現在も菊川町で活躍しているが、明治35年建造である。したがって明治の終わりには、すべての山車が@型であったと考えられる。

 大正2年になって、盛友社が中泉初の四輪山車を建造する。現在の山車である。旧盛友社二輪山車は、新道(現・新栄社)に渡った。

 だから、明治期の中泉の祭にタイムスリップすれば、9台とも全部二輪山車であった。このうち現在も中泉にあるのは、東組だけである。旧心誠社は菊川、旧石溪社は大久保にある。旧盛友社は、戦災で焼失。








▼山車の格納時間について、磐田警察署の交通課の指導が厳しくなっている。お隣の袋井市では、この指導に添った形で全町九時格納を、自治会連合会側が自ら「実施宣言」をしたと、新聞は伝えている。

▼新聞の論調は、本来祭に関係のない「何時までも騒いでいる青少年」の規制に効果があり、九時格納が「すべて良いこと」のように書いているが、これは全然別のことを、ひとつの論理にしてしまい、事実と反している。

▼「本来の祭典と関係のない、いつまでも騒いでいる青少年」の問題は「祭典を非行の入り口にしない」という警察のキャンペーンに協力し、地域また祭典委員会も積極的に取り組むべき重要な事柄である。

▼ただし、この問題を山車が夜遅くまで行動していることと結びつけ「格納時間九時を厳守せよ」とは乱暴な論理だ。例えば一家の主婦が客をもてなし片づけを済ませ夜の山車を見ようとしたら、何処にも山車はいなかったということを意味している。日本人は夜の楽しみ方をいつしか忘れてしまった。

▼欧米では、映画も芝居も夜遅くまで興行されており「大人が楽しむ」時間が厳然としてある。警察には年に何十回の取り締まり強化日であっても、市民にはたった一回の祭である。三十分の短縮が、善良な市民と警察の絆を切る。これは、決して得策ではない。




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