中泉型といわれるこの地区独特(磐田市中泉地区)な山車が存在する。

 
大正初期までは、同型九台の中泉型二輪山車が存在したが、今では現役三台、退役保存が一台である。
(詳細は,HP<News Paper 2>参照)

 
この地区の山車がどうしてこのような形になったのか、ルーツを探ってみた。

 
あくまで検証といっても、仮説を基に推理を働かせて辿り着いたものである。
 
いろいろな証言や証拠になる物証は限られている。

@お祭りはいつ頃から始まったのか?
 
当然のことながら、府八幡宮が建立された時からと考えるのが妥当でしょう。
 
 遠州中泉 府八幡宮は、天平年間(729〜748年)に遠江国司であった桜井王(さくらいおう)が、国府の守護として勧請したと伝えられる神社である。
 
現在の
本殿は1671年に徳川二代将軍秀忠の娘、東福門院によって寄進されました。
 楼門(1635年建立)は県指定文化財。

 その頃にどの様なお祭りが行われていたかは定かではない。しかし、江戸末期には、すでに「山車」や「手古舞」が存在したことは分かっている。(明治二年の記述あり)

Aお囃子のルーツは・・・?
  
 江戸葛西囃子の流れを汲む祭礼囃子で、静岡県小笠郡大須賀町横須賀で完成され、今では通称・横須賀囃子と言われ遠州地方を中心に最も親しまれているお囃子である。

 亨保の初め頃、若者達の風紀が乱れ、それを見かねた修験者の能勢 環という人が彼らを善導しようと考えられた神楽囃子が流行り、江戸の人達が馬鹿囃子と称して楽しんだ。
 これが葛西囃子の由来だという。

 この葛西囃子が江戸庶民に親しまれ、神田祭にも囃されるようになり、江戸囃子と呼ばれ、ご家人衆が習い覚えたことから、御家人囃子と名付けられた。

 当時、参勤交代で江戸に出向いていた御家人が江戸より横須賀に持ち帰ったお囃子がいつしか町民にも広がり、神社への奉納、祭の囃子として広く各地に広まったものと考えられる。


B山車のルーツは・・・?

 これが今回のメインテーマである。
まず考えられることは「お囃子と一緒に伝わって来た」という説である。
そうであるなら、横須賀の「祢里」が原型ではないのか?
そこで「祢里」と「中泉型」との比較をしてみよう。

a. 本体は中泉型の方が一回り大きいが体系はよく似ている。車輪は共に二輪である。双方とも手木が付いている。
b. 車台の部分は祢里には腰板がないものが多いが、中泉型には腰板があるが形式は似ている
c. 「祢里」は一本柱様式であるが「中泉型」は五本の柱がある。
d. 天幕は共にある
e. 「祢里」の上部には万燈があり、花飾りが付く。「中泉型」の上部は高欄付き舞台形式でり、だし丸提灯が付く。
f. 最上部には共に「だし人形」が載せられている。


 上記の中で一番の違いは、祢里の柱が1本に対して中泉型山車の柱は5本である。
 「祢里」の柱には顕著な特徴がある。これは昔、お城の門をくぐるとき、長い柱(心源棒)を倒して、くぐり抜けるために可動式になっていることである。

 明治初期まで存在した三若連時代の3台の山車は、「祢里」であった可能性が高い。なぜなら、お囃子と共に山車も一緒に伝わったと考えられるし、中泉型と呼ばれる山車は、祢里の様式などの類似点が多く、祢里から変化したものと考えることができるからです。

 現存している中泉型と呼ばれる山車の多くは、大正時代のものですが、それらの前(明治時代)の山車がどの様な型をしていたか?あくまで推測の域を出ないが、久保町に残されていた先々代の山車・車輪の大きさは横須賀の祢里の車輪と同じくらいの大きさであったことや、横須賀から影響を受けて始まった祭りであることからしても当時は「祢里」と似た型であった。そう考えるのが一番自然なことだと思います。

 巷に囁かれるうわさ話で・・・、「昔の中泉の山車は、三階建てだったんだぞ〜・・・」と聞かされたことがあります。
 どの様な型をしていたか?
 それは現在の中泉型山車の高欄中央部から一本の柱が伸び、そこに万燈、だし飾りが存在していたのではないか!?
 要するに中泉型の上に祢里の上部分がそのまま載っている状態です。

 明治41年になると中泉にも初めて電線・電話線が張られ、同年の祭は電話線を切る恐れがあるということで、町役場からの通達により「中泉各字青年世話係協議会」が開催された結果、山車の引き廻しを中止している。
 その後、安全に山車を運行し、祭を行なうために上山の床部分から上を切断し、現在の型になったのではないか!?と考えます。
 そして大正3年から始まった中泉町内の道路拡幅事業によって、道幅が広くなり、それに伴う山車の大型化、二輪山車から四輪山車へと代わっていった。

 「中泉型」にも「心源棒」に似たものが存在するが、それは通称「中柱」と呼ばれている。心源棒と同じであると断言することはできないが、高欄を支えるための柱であれば、4本柱で十分である。5本目の中柱
が高欄を支える必要はない。

*中町の山車の中柱は土台にはめ込むためのホズはなく、ボルト締めになっていて簡単な止め方であり、天井部分には柱を支えるための部材もなく、高欄の床板を突き抜ける状態になっていて、今では床上30cmのところで切断されている。その状況から推測するに、さほど重い物を支えることはできない。せいぜい、万燈、花飾り、提灯くらいの重さを支えるための物であると考えられる。かつては、その先に万燈が付き、花飾りが付いていた可能性がある。
 そして四本柱は、土台の上に添木を這わせ、そこにホズを掘ってはめてある。

*坂上町の山車の高欄を支えるための4本柱には「柱のほず」がなく、金具で留めてある。中柱は取り外しができる状態であったが、今は固定されている。

*久保町の山車の中柱は、ホズにはめ込み下に貫を指してある。しかし、柱の位置は左右の中央ではなく、左に少しずれている。

 それぞれ「祢里」の面影や共通点はあるものの、必ずしも同型の物ではない。

 「祢里」の面影を残しつつ、豪華に変化させるために4本の柱で支えられた大きな高欄型にし、心源棒の代わりに中柱を付けて、そこに万燈やだし飾りを付けた5本柱の二輪山車ができた、と考えることはできないか!?
 「祢里」からの変形型!? 
 祢里の面影を配した新しい二輪山車・・・合体型!?
 祢里から中泉型二輪山車へ・・・!!

 これらのことはあくまで、ひとつの推測でしかありません。しかし、以上のような推理や検証を試みることにより、先人の祭りに掛ける思いや情熱をも感ずることができれば幸いです。

 以上、簡単に「中泉型山車」のルーツについて、まとめてみました。 

    


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