基本は「良い伝統は守り、変えるべきは変える」である。

@ 世話係・外交は継承・維持する。
A 祭典委員会の機能を充実させ、世話係・祭実行者のバックアップを強化する。
警察を初めとする関係機関とは、祭典委員会幹部が責任を持って対処する。
B 長期的展望に立った祭典の在り方を考える小委員会を常時設置する。
C 伝統ある祭典に立ち返るべく、府八幡宮との関係を緊密に図り、同じ将来展望の元、宮を盛り立てる。
D 二之宮、京見塚地区と連携を図り、神社同士も話し合いの場につき、統一祭典委員会を組織する。
E 「年番制度」はこれを維持するが、連合当番制など改革を図る。
F 初日の午後に府八幡宮に全山車を集め、神事(お祓い、御幣拝受、等々)を伴う開会式典を行う。
G 2日目千秋楽に府八幡宮に参集し、「御幣返しの儀」を伴う終了式を行う。
H 部外者の不正参加、青少年の非行問題、交通対策等には、規制委員会を設け自主警備、自主規制を実行徹底する。
I 女性の世話係参加を認知する。
J 老若男女が楽しめる祭典にする。
K 地域の活性化に寄与する祭典を視野に入れる。
L 遠州中泉の祭文化、山車文化を後世に残すあらゆる努力をする。 



玉匣社が登場

今年も三班に分かれて行動


平成10年の年番は「大泉」これで16ヶ町が一廻りする。
「年番・大泉」頑張れ!
 今年も無事故でいいお祭にしたい。手前味噌だが、今年の祭の一番の話題は新「玉匣社」山車の登場だ!


 新玉匣社山車の特徴は、いくつかあるが、その中でも中泉初の「上下可動式上山」は見モノだ。これは電線を回避するために、上山がウインチで上下する方式で、最高5m40pになるという。人形の高さは此よりも高い。人形は見付が舞台となる謡曲「舞車」より、その女主人公の艶やかな能面姿。扇を持ち舞を舞っている。
 彫刻もなかなか見せてくれる。数量も凄いが、内容も濃い。


 特に山車の背面の形が一面となったため、彫刻が圧倒的に迫ってくる。脇障子には地に漆・金箔が塗られ、そこに「ザクロ・コバタン」の図が重量感たっぷりに浮かび上がる。厚みが十数センチはある鸚鵡(おうむ)=「コバタン」がザクロを啄んでいる様子は、まるで生きているようだ。見送り幕は、万葉集問答歌で、国分寺七重の塔がシルエットになっている。


 本年の山車コースは、昨年同様三班に分かれた。第一班が西6ヶ町(玉匣社、志組、心誠社、石溪社、盛友社、新栄社)。第二班が東6ヶ町(鑾留閣、御殿、鴛鴦社、泉湧社、旭祥社、大泉)。第三班が東4ヶ町(東組、騰龍社、鳴鶴軒」、宮本)。年番大泉は二班。
 「外交集会」の若者の決定は尊重するが、「何故こんなふうに分かれてしまうのか?」という市民の素朴な疑問も真剣に受け止めるべきだろう。
 16台が勢揃いするのは二日目の最終、電気堂交差点からお宮までだけとなってしまった。教育会館の建物もとれ、宮前広場は広がったが、結局今年の祭では活用することはできなっかたようだ。


 ところで、この西班、東班はいつ頃できたのだろうか。年番記録などを繙いてみると、大正13年の西町・当番の時からのようだ。それまでも、西組東組と5台、五台(当時は10ヶ町)で行動することはあったが、これは宮抽選の偶然性により決まり、初日当日にならなければわからなっかた。だから、自分の町内に自重町の山車が行かないということも当然あった。

 大正13年の当番記録に「・・・西部の町山車を以て西組とし、東部の山車を以て東組を組織することに定む」とある。

 戦前はコースが大概決まっていた(およそ神輿巡行コース)ので、問題は表面化しなかったが、戦後、毎年自由にコースを変えるようになり、「当時対立」は深刻さを増していった。まるで国際情勢のよう。

 昭和59年(これも年番・鑾留閣の年)新しい町内が組織に加盟するにいたり、様相はより複雑になった。祭典委員会でも自治会長さんたちは、この分立を心配し、統一行動を願っているが、若者たちの様々な諸事情により実現を見ない。

 それでも、千秋楽統一行動(宮解散)を恒例化したことは、若者たちの努力の成果である。世話係・外交制度の伝統は守る必要性を感ずるが統一行動を実現できないと市民から支持を失ってしまうことになりかねない。

 「若者たちにその年限りの祭にしないで長期的な目で考えてもらいたい」と願うのだが、総務も外交も任期が短期間で終わる現状では、改革の火の手はあがらないのだろうか。




明治41年は曳廻し中止

昔の祭はどんな祭?

年番記録以前の記録・年番は北新町?



 府八幡宮祭典の余興である山車曳廻しに関する記録は、大正4年以降が残されて現在まで繋がっている。明治時代の祭礼余興の記録はわずかしかない。そのわずかな記録から明治41年の山車曳廻しは中止となったことがわかる。何故中止になったのか? 

 明治11年は西暦では1908年となる。今から90年前のことだ。大正4年の「当番記録」によれば、大正四年の当番は「東町」である。(当時は年番と書かず当番と書いた。また、社名で組名ではなく町名で書いた。社名で書くようになったのは、昭和18、9年)記録がないので明治41年の当番は、何町か判然としない。ところが、ここに貴重な記録があった。

 明治41年8月1日午後3時10分より「中泉各字青年世話係協議会」が開催され、その会議の記録が残されていたのだ。各町の世話係の自署名が残っている。会議の議題は、電話線を切らないようにしてもらいたい、という中泉町当局からの提案(命令)であった。中泉は西町の通りにできた。まずいことに、電話線は各町の山車にもろに引っ掛かった。当時の山車はいわゆる「ダシ」(万燈のようなもの)が高欄の中心部から上に伸びていたと考えられる。
 

 この会議には町長自らも出席している。コトの重大さがわかる。当時電話線は軍事上も産業上も非常に大切なものとなりつつあった。県当局からも町に対し「十分な配慮」をするように通達が出されていた。
 おそらく会議は、相当紛糾したに違いない。電話線のために山車を出してはならないなど、祭青年にとっては「一大事」であったに違いないからである。

 しかし、記録には簡単に結果が書いてあるのみである。だから真相は不明。
 結果この年は、「曳廻しは中止、山車は一ヶ所に据置」となった。青年愕然!

 さて、その署名の最初が北新町の世話係になっている。これが、この年の当番は、北新町ではないかという推論の根拠である。大正4年からの遡りである。大正四年に「集会申合規約」ができているが、この年に作った理由は、この年から栄町(当時は新道)が組織加入を認められ、十ヶ町になったからだと思われる。


 それで、明治41年を北新町、42年を西新町、43年を坂之上、44年を石原、大正元年を田町、2年を奥久保、3年を西町と辿っていくと、大正4年は東町となり辻褄が合うのである。

 10ヶ町時代の前に9ヶ町時代があったという論拠にもなる。また、栄町は長い陳情運動の末、西町より独立を果たした記録も厳然と残っている。そして北新町はやがて東新町と改名、中町と改名が認められたのは昭和元年、七軒町年番の年のこと。翌年中町年番。

 明治41年の奥久保の署名から、子孫が現在玉匣社大老、中老、世話係に居ることもわかり、面白い。

(本稿は、石原町・中津川宗全自治会長の貴重な資料を参考にしました。感謝)





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