西町関係者より明治時代のものを含む祭典資料があると連絡をいただき、早速調査させていただいた。 

 古い箱の中にかなりの資料が残されていたが、最も古い資料は明治35年より42年までの「西町・鑾留閣祭典決算調書」であった。

 もちろん和綴じ墨書きのもの。内容はその年々祭典に掛った費用の内容と金額、収入及び繰越金などが書かれ、最後に世話係数名の署名がある。 

 支払い項目の内容は、笛吹の謝礼、宿泊料、提灯修理代、人形代、衣裳代、八朔集会費、八幡宮掃除代などを初め多岐にわたっている。

 当時鑾留閣は今の四輪山車ではなく、二輪山車であったので、人足十人の賃金なども支払われている。

 もちろん酒代や飲食店と思われる払いもあり、中には「中老膳部」という項目で、中老のいわゆる宴会費が毎年必ず出費されているのも興味深い。



西町・鑾留閣

     
 問題は明治37年と38年の支払い項目に他の年とは大きな違いがあることである。

 実はこの2年に限って、山車の引廻しに関する支払い項目がない。笛吹の謝礼やその宿泊代、人形の借賃、人足の賃金等がないのである。

 八朔集会費や、協議費、中老膳部、八幡宮掃除代等引廻し以外の支出は例年どおりだ。これは、明らかに山車を出さなかったことを示す紛れもない証拠である。

 一体この2年はどういう年だったのだろうか。西町だけが山車を出さなかったのだろうか。それとも全町の山車が引廻しを中止したのだろうか。

           


 当研究会が昨年発見した中泉学校日誌によれば、この両年、八幡宮祭典は実施され小学校は三日間休業となっている。
 
 だから、八幡様の祭は行なわれたのである。では、余興だけが中止されたのだろうか。

 余興が中止されたとすれば、この2年は日露戦争のあった年だったことが影響している可能性はある。

 しかし、山車引廻しがない祭典で、小学校は休みを与えるであろうか。もしも、神事だけの祭典だとしたら、子供たちに休業を与えるだろうか。

 日露戦争は大変な戦争であったがなんとか勝利を得る。明治38年1月には旅順が陥落をし日本中が沸き立ち提灯行列を行なっている。

 現にこの決算調書にも「提灯行列に付提灯買求」の記事がある。5月にはバルチック艦隊を破り日本の勝利が確定的となる。

 9月には日露講和条約を締結する。磐田市誌によれば中泉町より161人が出征し5人が戦病死している。西町資料にも応召の記事が見られ餞別が出費されている。

 しかし、世相は大不景気。磐田市誌は書く。

「人気深々沈み、また政府よりは神社仏閣の普請法要等は悉く見合わせるよう通達があり、民家においても遠慮したり、不景気により普請・修繕・買い物等一切見合わせる動きがあった。さらに追い打ちをかけたのは、軍事費の不足を補うための増税であった。」



西町・鑾留閣/大正10年撮影


 これから推測すれば、余興、山車引廻しは全体的に中止となったと考えられる。

 しかし、明治38年3月26日の記事「各町と和解」の一行が非常に気になるのである。

 この意味はどういう意味か。西町は他町と何か諍いがあったのだろうが内容は全く不明。

 また、もう一点は、明治39年の記事に「当番に付」という箇所があることから、この年に西町が「年番」だったと考えることができる。ところが、当研究会が作成した祭典年表では、どう考えても明治38年が西町年番の年なのである。

 この一年の食違いは何を意味するのか。
 推測は様々にできるが、断定することはできない。

 ただ、明治37、38年の2年間鑾留閣は山車を出さなかったことは間違いない事実である。この他の状況については、他の資料が出ない限り推測の域を出ない。

 素晴らしい資料が西町公民館にあり、それを判読することにより明治時代の中泉の祭典の様子がかなり判明した。

 その成果については又の機会に掲載をしたい。しかし、新たな謎がまた生まれてしまったようだ。ところで、西町先代山車は何処へ消えたのだろうか。

 これも明確なことはわかっていないし、その写真も残されていない。

 もっと資料を!
 



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