明治時代の府八幡宮祭典は旧暦の8月15日らしいと推定されてきたが、その確たる証拠は今までなかった。

このたび、玉祭研のメンバーが、学制発布以来の歴史を持つ中部小学校(旧・中泉学校)に「校務日誌」があることから、そこに何らかの祭典に関する記事はないかと調査した結果、明治33年以降の祭典日が明確に記載されていることが判明した。

        
 
明治33年9月6日(木)の日誌記事に「明日ヨリ来ル九日マデ三日間縣社八幡宮祭典ニツキ休業」とあり、当時、小学校は三日間休みだったことがわかる。

この祭典日は新旧暦月日対照表によれば、ぴったりと旧暦8月13〜15日に当てはまり、推測が正しかったことが証明された。

以降、明治34年(新暦9月26〜28日)35年(同9月15〜17日)というように明治42年まで旧暦8月15日までの三日間を祭典につき休業と記している。

日誌なので天候、気温は記録されているが、その他の事件については特記事項しか書かれていない。


昭和28年浜垢離風景



昭和28年浜垢離風景



 
明治43年に、新暦9月13〜15日と祭典日が固定されたと思われる。
というのは、この年の旧暦8月15日はこの日に当たらないからである。

明治44年は残念ながら記述がなく、45年は7月30日に明治天皇が崩御された為、祭典余興・歌舞音曲は中止された。

9月13日に学校後庭に祭壇を設け、神職大場禎一、外二名を招き祭事を奉仕、誄詞を奏上し一同遙拝式を挙行した。

また、八幡宮でも夜12時より遙拝所で式典を挙行、校長外主任職員が参列したと記述されている。
大正2年、まだ喪は明けていない。
 
9月13、14、15日は休業。
但し、府八幡宮に生徒は参拝をしている。

本来は全校で参拝する予定が、雨の為高等科三年生のみ祭殿に上り列席したとある。 

大正3年も記録がなく、不詳だが、御大典は翌年大正4年で、この年からは「年番記録」が残され、府八幡宮祭典余興の内容が詳しく現在に伝わっているのは、すでに読者のご承知の通り。 
 

以上により、江戸時代から現在に至る
祭典日の変遷は次の通りに判明した。

              
             
今田屋の前にて・・・盛友社

 
@江戸時代〜明治5年
  
   旧暦8月15日
 
 *新暦採用は明治五年十二月
  (証拠は西光寺日記)  

A明治6年〜42年
 
  
旧暦8月13日〜15日にあたる日

 *変更の理由・新暦採用となったため。  

B明治43年〜大正10年
 
  
9月14、15日

 *変更の理由・毎年祭典日が変わるよりも固定
   された日にしようとしたためと推定される。

C大正11年〜昭和37年 
  
  
10月1、2日

 *変更の理由・9月14、15日は雨や台風が
   多かったため。     (年番記録による)

D昭和38年〜現在 

  
10月第1・土、日曜日  

 *変更の理由・土日なら勤め人の参加者が
   便利なため。     (年番記録による)



   
 
    

  
中泉学校「校務日誌」の明治42年に興味深い記述があった。
 
この年の祭前日の記事に、「田町ノ女児明日ヨリノ祭典準備ノ由ニテ第一時限リ早引申出シニ付其区青年世話係ヲ招キ斯ルコトナキ様致シ度相談セシ処右ハ町ノ希望ニアラズ手踊師匠ノ失言ニ付本日ノ授業ヲ完カラシテ度申出アリタル」
とある。

花屋台は戦後始められたということだが、この記事により花屋台の存在はともかく、女子手踊りは当時より行われ稽古もしっかりやっていた様子がわかる。

また、同年祭典翌日の記事が面白い。
児童たちが祭で疲れ切り、とても授業は不可能なので、2時間で終了とし午後は職員だけで運動会の件を協議したとあり、のどかなものである。

別の記事にも同様の記述が見られ、見付天神裸祭の翌日も同じような判断をしている年もある。

以上のように旧中泉学校の校務日誌から、明治時代の祭典の様子を垣間見ることができた。

明治時代、山車・屋台の在り方に大きな影響を与えたのは、電線・電話線だった。

中泉では、明治41年に電話線が引かれ、その年の山車引廻しは中止、山車据置となった。

三階建て山車は姿を消し、時代は明治から大正へと移っていくのである。




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