「旧山車の名残を留め、人形を載せたい」という意向で蕨手(わらびて)高欄付きの新山車になりました。
従来は毎年森町の『亀八人形』より借用していましたが「玉匣社の象徴として・恒久的な人形を」との意見が強く、テーマについて白熱した協議を重ねました。
「地元に相応しい人形を」ということから「奥久保に屋敷があり府八幡宮歴代の神官を務めた秋鹿氏を讃えて、神官の人形では」という発案がありました。
これに対し「もっと華やかさが欲しい」という意見が出ました。
磐田市全域の歴史や文化を見直す中で、ロマン溢れ祭に因む素晴らしい物語である見付が舞台の謡曲「舞車」が浮上、最終的にその女主人公の艶(あで)やかな姿を山車人形とすることになりました。   
<「秋鹿神官」は、彫刻の中に取り入れることとしました。彫刻の項参照>
国立能楽堂調査資料係の片桐勉氏より資料及び助言をいただき、愛知県高浜市の『紫峰人形吉浜座』に製作を依頼しました。
衣裳
【立烏帽子長絹女出立
(たちえぼしちょうけんおんないでたち)】と烏帽子は京都市の『井筒』に、舞扇(中啓)はやはり京都市の能楽扇専門店『十松屋福井』で「鬘扇(かづらおおぎ)・朱妻花戦花車(しゅづまはないくさはなぐるま)」をそれぞれ発注しました。

<能面「小面」永井明子作>


能面「小面」は町内在住の永井明子様のご好意により、自作の能面を寄贈していただきました。

人形の身長は5尺2寸(157p)で、その所作は「カザシ扇」といって手をかざして遠くを見る姿で、能舞台で最後に決めるポーズだそうです。

広げた扇を裏返しに持ちかえ右上にかざしています。

扇は左手に持つこともできるようになっており、能面を外せば美しく優しい女性の素顔が現われます。

人形本体は可倒式で前後の移動と回転もでき、変化に富んだ動きが可能です。       

中泉の山車人形に、何故見付のテーマを選んだのかという当然の疑問には、この松井氏の説がそのまま回答になっているといえます。

見付の淡海国玉(おおみくにたま)神社の祇園祭りは、江戸時代享保年間(1716〜1735)頃まで華やかに行なわれましたが、見付の宿が度々火災に遭い、凶作も続いた為、舞車は中断し、遂に廃絶になってしまいました。

一方、能になった「舞車」も長い間上演されず廃曲となっていました。

平成元年国立能楽堂において復刻、また磐田市でも平成5年市制45周年を記念して上演されました。

その舞車が300年の時空を超えて今ここに夢ひらき、人形を目のあたりにした時、観る人の心に幽玄の世界と限りないロマンを与え、脈々と続く永い歴史に育まれ、庶民のたぎる情熱に培われた伝統に支えられ祭文化が甦えろうとするのです。


「舞車」人形
拡大できます。


謡曲「舞車」のあらすじ
そして「出会いのまち・いわた」

昔、鎌倉は亀谷に住む男が、自分の留守中、舅に妻を追い出されてしまいました。
男はあわて妻を追い掛け、妻のふるさとである京に上りましたが、途中遠江国見付の宿に泊まりました。
見付はちょうど祇園会(ぎおんえ)の祭礼で、この祭りでは東坂と西坂から二輌の舞車を曳き出し、その上で旅人に舞を舞ってもらうのが習わしとなっておりました。
男は、舞手がみつからず困っていた東坂の頭に舞を頼まれ、神様のお引き合わせもあろうかと引き受けることにしました。
翌日、神前で舞が始まり、まず西坂の女の舞手が「在原業平」が契った12人の美女を列挙した『美人揃いの曲舞(くせまい)』を舞いました。
次に、鎌倉の男が「菅原道真」のが願いを聞いてくれない師の「法性坊(ほっしょうぼう)」に怒り、柘榴(ざくろ)を噛んで妻戸に吹き掛けると炎となって燃え上がったという『菅丞相の妻戸』を舞いました。
どちらの舞も見事だったので「もう一度(アンコール)!」の声が掛かりますと、偶然二人とも『大磯の遊女虎御前が曽我十郎祐成に名残を惜しむ場面』を舞うと言ったため、今度は東西の舞車を並べて二人で相舞をすることになりました。

舞車と府八幡宮祭礼について

磐南文化協会理事であった見付西坂町の松井雄太郎氏(故人)は、かつて郷土史誌「磐南文化」に『祇園祭りと舞車』と題した研究文を発表されました。
その追記に「舞車と中泉八幡宮祭」と中見出しをつけ次のように論じています。
鉾、山、舞車、これは別々三つのものを総称して山車である(中略)が、中泉八幡宮祭りに今なおその形が残っていることは面白い。即ち“鉾”、屋台(囃子方が乗っている)の上に町内の趣向の“山”があり、それに付随する花屋台は車の上の舞台ではないが、(現在花屋台の前で多勢で輪を作って踊る)“舞台”に当たるものである。結局、見付の祇園祭りの名残りは一方は裸祭りへ、山車の行方は中泉八幡宮祭りに移行して、磐田市の二大祭に分岐して千年の歴史の習わしが庶民の生活の中に延々と引き継がれ、愛されていることは人の心の寄りどころとして潜在している証査でもあろう。」
(原文のまま引用)
その途中、男は舞う女が妻であることに気付いて声を掛けようとするが、舞の途中なので女に制され、二人は最後まで見事な舞を舞い、再会を喜びあったのでした。
このラブロマンスから見付の町を、いや磐田市を「出会いのまち・いわた」と呼ぶことにしましょう・・・というメッセージがこの山車人形から発せられています。
玉匣社の人形は、妻の「京女」ですが、相手の「鎌倉の男」(東男)がいません。
中泉のどこかの町が「東男」を人形にし、中泉の二輌の山車(舞車)が、見付の町、総社の前あたりで出会う時メッセージは初めて完結し、千年の時を超えたロマンスがハッピーエンドとなるのですが・・・ 。
そして、見付も中泉もその他の地域をも融合した新しい磐田市イメージが、私たちの中に生まれるはずです。
伝統と歴史を大切にし、かつ輝かしい未来をめざすために。



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