昔、鎌倉は亀谷に住む男が、自分の留守中、舅に妻を追い出されてしまいました。
男はあわて妻を追い掛け、妻のふるさとである京に上りましたが、途中遠江国見付の宿に泊まりました。
見付はちょうど祇園会(ぎおんえ)の祭礼で、この祭りでは東坂と西坂から二輌の舞車を曳き出し、その上で旅人に舞を舞ってもらうのが習わしとなっておりました。
男は、舞手がみつからず困っていた東坂の頭に舞を頼まれ、神様のお引き合わせもあろうかと引き受けることにしました。
翌日、神前で舞が始まり、まず西坂の女の舞手が「在原業平」が契った12人の美女を列挙した『美人揃いの曲舞(くせまい)』を舞いました。
次に、鎌倉の男が「菅原道真」のが願いを聞いてくれない師の「法性坊(ほっしょうぼう)」に怒り、柘榴(ざくろ)を噛んで妻戸に吹き掛けると炎となって燃え上がったという『菅丞相の妻戸』を舞いました。
どちらの舞も見事だったので「もう一度(アンコール)!」の声が掛かりますと、偶然二人とも『大磯の遊女虎御前が曽我十郎祐成に名残を惜しむ場面』を舞うと言ったため、今度は東西の舞車を並べて二人で相舞をすることになりました。
舞車と府八幡宮祭礼について
磐南文化協会理事であった見付西坂町の松井雄太郎氏(故人)は、かつて郷土史誌「磐南文化」に『祇園祭りと舞車』と題した研究文を発表されました。
その追記に「舞車と中泉八幡宮祭」と中見出しをつけ次のように論じています。
鉾、山、舞車、これは別々三つのものを総称して山車である(中略)が、中泉八幡宮祭りに今なおその形が残っていることは面白い。即ち“鉾”、屋台(囃子方が乗っている)の上に町内の趣向の“山”があり、それに付随する花屋台は車の上の舞台ではないが、(現在花屋台の前で多勢で輪を作って踊る)“舞台”に当たるものである。結局、見付の祇園祭りの名残りは一方は裸祭りへ、山車の行方は中泉八幡宮祭りに移行して、磐田市の二大祭に分岐して千年の歴史の習わしが庶民の生活の中に延々と引き継がれ、愛されていることは人の心の寄りどころとして潜在している証査でもあろう。」
(原文のまま引用)
その途中、男は舞う女が妻であることに気付いて声を掛けようとするが、舞の途中なので女に制され、二人は最後まで見事な舞を舞い、再会を喜びあったのでした。
このラブロマンスから見付の町を、いや磐田市を「出会いのまち・いわた」と呼ぶことにしましょう・・・というメッセージがこの山車人形から発せられています。
玉匣社の人形は、妻の「京女」ですが、相手の「鎌倉の男」(東男)がいません。
中泉のどこかの町が「東男」を人形にし、中泉の二輌の山車(舞車)が、見付の町、総社の前あたりで出会う時メッセージは初めて完結し、千年の時を超えたロマンスがハッピーエンドとなるのですが・・・ 。
そして、見付も中泉もその他の地域をも融合した新しい磐田市イメージが、私たちの中に生まれるはずです。
伝統と歴史を大切にし、かつ輝かしい未来をめざすために。
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