と   き

久保町は60年前まで奥久保(おくぼ)と呼ばれた江戸時代は中泉村が幕府領だったのに対し、久保村は府八幡宮社領だった。

久保村とはおおよそ現在の久保町、田町、石原町桜ヶ丘、旭ヶ丘、泉町の範囲を指す・・・。

府八幡宮が勧請されたのは、遠江国分寺ができた頃、天平の時代といわれる。

府八幡宮の祭礼に山車や屋台が登場したのは、江戸時代の後期のようだその頃、中泉の祭りは「久保若」「西若」「東若」の三若連によって行なわれていた。

明治6年「久保若」から田町、石原が分離独立、時の神官大場重光が「玉匣社」と命名したその頃の山車はどんな山車だったかはわからない。

平成9年まで使用してきた山車(旧玉匣社)も、いつ建造されたのか不明だ。

大正7〜8年頃だとする重要な証言もあるが、記録が残っていないから確定できない遅くとも大正中頃には建造されていたというしかない。

その後、大正10年に「改造・漆塗り」が実施された約七十世帯が総額500円を出資し、改造に250円、漆塗りに250円を費やした。

それから、今日まで約80年、二輪の山車はよく頑張ってくれた。


久保側沿い、右後ろは通称「いどじり」大場商店。
玉匣社記念写真(昭和26年10月2日撮影)


戦争という不幸な時間(とき)があったもういちど祭りがしたい、山車を曳きたいと思いながら散華した若者たちがいた。

十台の山車は久保町で祭り二日目の夜を明かし、八幡様へ向かったものだ。

昭和30年代、中部小の東門には、初日の昼頃、玉匣社は必ず子供たちを迎えにきた。

久保で育った人々には、この山車に尽きぬ思い出がある歳月はまたたくまに流れ、昨日まで世話係だった若者がもう大老、旧山車も歳をとった。

6回の「年番」を経験し、7回目の「年番」を前に新しい玉匣社が誕生した。

旧山車の思い出や諸先輩への感謝をしっかりと胸に刻んで町民みんなが協力し精根込めて作りあげた我が町の新しい象徴だ。

この新しい山車には何が載っているのだろう?

100年以上前から続く久保町町民の祭りにかける「意気込み」が載っている100年以上の未来に向かって、みんなが幸せであるようにという「祈り」が載っている。

子供たちには夢と希望、若者には健康な心身と素敵な恋人、大人たちには住みやすい故郷と家庭、お年寄りには安心と長寿そして地域と国と世界の繁栄と平和これらの夢と希望を彫刻に、刺繍に、人形に、そして山車の形に植え付け、託してある。

この山車をあなたもあなたも一緒になって曳くことによって声をそろえ力を合わせることによって彫刻の「仙人」が不可思議な力を発揮する。

「唐子たち」が笑いだし「宝づくし」は輝きを放ち幕の「鶴亀」は長寿を叶え「虎」は逞しく吠え「舞車の京女」が艶やかに舞い始める。

笛と太鼓に合わせて体を揺すろう輪になって練ろう 魂を吹き込もうさあ、ご一緒にシチャシチャコリャコリャ ・・・ ・・・。


 トップ・ページへ戻る

記念誌