静 岡 県 磐 田 市 中 泉




昭和初期の左が楼門、右が神宮寺




本殿は1671年に徳川二代将軍秀忠の娘、
東福門院によって寄進されました。

門(1635年建立)は県指定文化財。

楼門正面



 
 遠州中泉 府八幡宮は、天平年間(729〜748年)に遠江国司であった桜井王(さくらいおう)が、国府の守護として勧請したと伝えられる神社である。

 遠州中泉 府八幡宮の三祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后である。

 八幡宮の総元締である九州宇佐八幡宮は、仲哀天皇が比女神と入れ替わっている。

 全国の神社の中で二番目に多いのが、八幡宮だが、その祭神はその神社により異なっている。
しかし、常識的には八幡神といえば、応神天皇を指す。 

 この天皇は、仲哀天皇と神功皇后の子といわれている。
武内宿禰は、長く天皇家に仕えた伝説上の家臣で、特に神功皇后を助けた人物である。

 神功皇后は、九州から朝鮮半島に渡り、自ら弓を取り、いわゆる「三韓征伐」をしたといわれている。



 奈良時代、聖武天皇は都である平城京に東大寺を建立、各国に国分寺の建立を命じた。
遠江国にも国分寺(現・磐田市国府台)が建てられた。

 ここに国司として赴任したのが天武天皇の曾孫といわれる桜井王、この人が府八幡宮を勧請したといわれる。

 桜井王は、この地から歌を一首、天皇に送った。
天皇も早速返歌をお返しになった。
これが「万葉集」に残っている。

 奈良時代府八幡宮を勧請した遠江守桜井王が今之浦一帯を望む台地の国府より遠い奈良の都を慕(した)って詠(よ)んだ歌。
<以下>

        

【浜垢離】
 例大祭に先立ち、宮司以下神職が身を浄めるために、早朝、前の浜に向かい、禊ぎをします。これを浜垢離といいますが、禊ぎの後、浄めのしるしとして浜砂を持ち帰り、神輿渡御の際に順路に蒔き清めます。

【当日祭】
 神社本殿にて宮司以下神職、宮世話人が10月 1日を本来の当たり日として、大神様をお奉りします。

【前夜祭】
 例大祭前夜、いよいよ明日に控えた祭の執行を大神様に御報告いたします。

【例大祭】
 毎年10月第一土、日の2日間、八幡宮では例大祭が盛大に執り行われます。
明治時代の例大祭は、旧暦の8月15日に執り行われていました。

【夕 祭】
 神社本殿にて宮司以下神職、巫女が奉仕し、宮世話人、祭関係者等大勢の参列者を迎え厳かに執り行われます。

【神幸祭】《神輿渡御》
 御祭神を神輿に奉遷し、氏子区域を親しくお渡りいただくお祭りです。 神輿は各町中老に担がれ、宮司以下神職・楯・鉾・弓矢・太刀などの威儀物を持つ所役、供奉員(神輿に随行する所役)が従い、荘厳な行列となります。その行列は久保町・白山神社、石原町・田中神社、西新町・愛宕神社、各氏子町内を回り、御旅所(西町・浅間神社)にお泊まりし、還御の儀を執り行い本宮・府八幡宮に戻られます。

(現在では、御旅所でのお泊まり・還御の儀は行われていません。)



楼門から中門、本殿を望む


            

 「九月(ながつき)のその初雁の使いにも念(おも)う心は聞こえ来ぬかも」

 の歌に対して、聖武天皇は都より遠江の国司桜井王を偲んで・・・

 「大の浦のその長浜に寄する浪寛
(ゆた)けく君を念(おも)うこの頃」

 と返歌されました。

 *玉匣社(山車)の後ろに掛かっている「見送り幕」にこれらの歌が刺繍されています。



中門と本殿



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