初日は雨の中、一路高山へ・・・、「東海北陸道」飛騨清見ICーR158ー最初の目的地である宮村(高山の南隣)の国指定天然記念物「臥龍桜」(がりゅうさくら)を見に行きました。
樹齢1100年といわれる江戸彼岸桜で見事な枝振りで、ちょうど満開で雨も小降り、幸い人もまばらで素晴らしい桜見物ができました。
その後、高山市内を散策して、美味しい“わらび餅”を買い、ホテルへ・・・、5時から夕食をいただき、いざ古川祭へ・・・。
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出番を待つ付け太鼓 |
起し太鼓
起し太鼓の準備中 |
総司あいさつ |
待ち伏せ場所へ・・・ |
いざ 出発! |
起し太鼓/打出し |
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雨は上がる気配もなく降り続いていましたが、「起し太鼓」(おこしだいこ)の見学場所の選定をしたり街中の散策をして、その時を待ちます。裸で始まりを待つ櫓(やぐら)の担ぎ手の若衆“古川やんちゃ”が寒さと興奮で何やら気勢を上げ、たき火を囲みながら酒を酌み交わして待っています。私も一杯頂きました(御礼)。雨の中、次第に人々が会場である御旅所に集まりだして雰囲気が盛り上がってきました。
「若松様」の曲が放送されると裸男達もいっせいに“ワッセイ”“ワッセイ”の気勢を上げ始める。隣のテントでは酒樽の鏡を抜き、観光客に酒が振る舞われ始める。
正装した各役員、丸小提灯を手にした女性や子供達も沢山集まりだした。「付け太鼓」の一団も集まってきた。
いよいよ「出立祭」(修祓祭)の始まりです。
主事 麒麟台・代表の開式の言葉に続き、宮司がお祓いの祝詞(のりと)を奏上し、まず櫓を祓い、祭関係者、消防団、来賓を祓う。
再び祝詞奏上があって、お祓いの塩が起し太鼓の櫓にかけられ、次々に代表者のお名前が呼ばれ玉串の奉納が続く「起し太鼓総司、気多若宮神社氏子総代長、古川祭保存会長、飛騨市長、古川警察署長、古川消防署長、古川消防団長、・・・・・。」お名前が呼ばれるたびに歓声が上がり、盛大な拍手が起こる。
神事が終了すると祭壇が片付けられ、いよいよ「打出し」です。総司が櫓の上に上がり、マイクを片手に、あいさつを始める。主事町へのお礼、宮司初め関係各代表者、警察、消防団へのお礼と安全を祈念し、あいさつが終わると「若松様」を歌いだす。
(その間に太鼓の上に上がた2名と太鼓をサラシ布で互いに縛り付ける)
“ ド〜ン〜 ド〜ン ” ゆっくりと太鼓を打ち出す。初めはゆっくり、そしてだんだん早くなり、乱打になる。 そしてまたゆっくりと打ち出した頃、櫓が動き出し、会場は歓声とワッショイ、ワッショイの声が響き渡り、「付け太鼓」の若衆が走り出す。
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行列は、総司を先頭に各役員、各町代表者、丸小提灯を持った子供達、女房衆およそ千人を先導役に櫓がつづく・・・。 |
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櫓は、百数十名の櫓にないの肩に担がれ、前に14、5名の前衛、後ろに8、90名の後衛に守られている。 |
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付け太鼓は、各町内に一つずつあり、町内の紋が入った30cmの小太鼓を3mほどの丸太の真ん中に吊し、20人ほどの若者が持ち、櫓の後に付けるのである。 |
櫓に最も近い位置につけて進むのが名誉とされ、激しい先頭争いを繰り広げる。各四つ辻で待ち受けていて、櫓の後ろに付け太鼓が跳び出すと後衛が阻止する。すると櫓と後衛の間に隙間ができる。そこを狙って他の付け太鼓が突進する。駆け引きとタイミングが難しい。失敗した町は裏道を通って、次の四つ辻に走り出す、それを何度も繰り返し、途中四ヶ所の休憩所があり、太鼓打の4名はここでで替わる。焚き火にあたり、酒を酌み交わす、子供達にはお菓子が配られ、小さい子供は最初の休憩所までで家に帰る。
しかし、起し太鼓はまだまだ続く、「打止め」は0:50である。
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会 所
神 楽 舞
三番叟名旗
青龍台/台車
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古川の屋台
古川の屋台は天明2年(1782)当地に来遊した近江の俳人、林 篁の記した「飛騨美屋計」の一節で、9台の「屋台」が曳行した様子を知ることができる。
古川の「屋台」が美しいのは京・江戸融合といわれるように、東西の文化がよく吸収されているからである。江戸から移入された原形は単層であったが江戸の新興技術が飛騨の匠の技量によって高められる。京都からカラクリ人形が入ると重層になり、さらに飛騨独自の三層構造の形となる。そして金森氏の遺産である塗師の技術がこれを支え、京都から金具・織物が加わり、屋台芸術が花開くことになる。華麗な曳行は整然とした町並みと調和して見事な融合美を演出する。
江戸時代は「試の芸」という行事があり、中段から舞台を出して、子供の歌舞伎・踊り、又はカラクリ人形を操り、全屋台に出し物があった。現在は白虎台の子供歌舞伎、青龍台・麒麟台のカラクリ人形がそれに類するものである。神楽台には神楽舞があり、二頭の獅子が各戸を舞い清めながら、屋台行列の先頭を曳行する。
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