集会だより


      注・・・主に祈祷会での学びをまとめてあります。
           出席していた方々の感想や教えられた事             
           感じた事を Yがまとめました。
エレミヤ書


2023年10月 エレミヤ書から学びをしています。

エレミヤは20歳前後 突然神様から召しを受けました。

エレミヤは「まだ準備ができていない・・」と神様にお答えしましたが、

主の時は 今でした。


[ 私たちも 神様の召しに素直な心で従って行きましょう

一人一人に神様から与えられた使命は何でしょうか ]


エレミヤは イスラエルの偶像礼拝について告発します。

神様を信頼し、神様にすべてを委ね 共に歩んで行く

人格的な関係を 神様は求めておられました。

 

ヨシア王のもと 主都エルサレムの神殿一本化という

宗教改革を始めました。

そこには 各地にあった神殿の廃止 偶像礼拝の廃止

・・・そこに携わっていた祭司達関係者は

失業の危機を感じ不満があふれ、エレミヤは故郷である 

アナトテの人々にさえ命を狙われました。


エレミヤは人々の為に 神様の言葉を伝え一生懸命働いているつもりなのに

殺されそうになったり 馬鹿にされたり 帰る所もない 不安な状態でした。


エレミヤは 自分が困っている事・苦しんでいる事・

不安な事を素直に神に訴えました。


神は私たちの辛さや悲しみを分かって下さる方です。

神はエレミヤに休息を与え 立ちあがる力を与え

助けてを与えて下さいました。


【 M・・・病を通して 神様が今も生きて働いて下さる事を

感じることができました。 】





イエスの生涯 「いつまでも 共に」 最終回


1 イエス様の権威


イエス様の権威は、父なる神様のみ心に従うことにより与えられる権威。

つまり、私たちを愛し、救い、生かし、養い、導くという神様のみ心を行う為に

用いられる権威。だから、イエス様の権威のもとに生きる時にこそ、

私たちは、本当の平和と希望と喜びをもって生きていくことができる。


2 イエス様の命令


*洗礼を受けなさい・・・キリストと共に死に、キリストと共に復活する。

単なる入会式ではなく、キリストと一つに結ばれた者として 神の愛と

恵みの中で新しい人生の出発

三位一体の神様の中に飛び込み、浸る。神の家族として一つにされていく。


*教えなさい・・・神様の背を向けた結果 罪と死の支配の中で苦しむことになった。

神様との関係を回復しようとしても 人の努力では不可能

イエス様賀まことの救い主であり、神様の恵みにより、ただイエス様を

信じる信仰によって救われる


3 イエス様の約束


イエス様は共にいて下さる


この世に生きている間は、苦しいこと、悲しいこと、様々な試練がある。

でも、いつも、どんな時も イエス様が共にいて下さる。

イエス様が天に昇られた後、ご自身の代わりに聖霊を送ってくださった。

聖霊は、父なる神 子なる神イエス・キリストと同じ本質をもっておられる方

一人一人といつも共にいることがお出来になる


イエス様は、神の栄光に輝く方、恵みとまことに満ちておられる方

そのイエス様がいつも私と共にいてくださる。

支え 導いて下さる。



2020年 7月から 始まりました、福音書からの学びも だんだんと終わりに近づいてきました。


十字架刑が当時のローマの刑の中で 一番重い刑だった事は

頭では分かっていたつもりでしたが、こんなにも 厳しい 惨いもの

だったのかと、あらためて思い知らされました。


そのような刑を 私の為に 人々の罪の為に 受けて下さったんだと

感謝しつつ 学びを 続けています。


2023年 2月9日

ヨハネ20:19〜23 「聖霊を受けよ」


イエス様が逮捕された後 散りじりに逃げた弟子たちに 復活後会いに来て下さり

開口一番「平安があなたがたにあるように」と言われました。


イエス様が与えて下さる平安とは


あなたがたの罪が許されるために 十字架で血を流してくださった。

だから あなたの罪は許された。安心しなさい。

赦されている平安 

神様との親しい関係の中で生きていくことができる幸せ


         『イエス様の生涯 』 福音書から 学んでいます。

     

    (2022年4月28日 ヨハネ14:12〜18 もうひとりの助け主 )

 

    『イエス様の生涯43』 祈祷会ノートも 43まで来ました。

    イエス様の十字架にだんだん近づいて来ています。

  

     @わたしの名によって

     「・・わたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。・・・」14:13・14

     イエス様の名によって祈るとは、イエス様の名義を借りて祈ること。

     王の王 主の主であられる方のお名前 これほど確かな名義は無い。

     イエス様のお名前を借りるなら 自分勝手な祈りや、イエス様の名義に反する

     ような祈りではなく、イエス様の心 御性質に添って 祈っていく。

     「何事でも 神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる・・」

                     Tヨハネ5:14・15

     A祈りの答え

     私たちが神様に祈る時 神様は次の内野いずれかの答えを下さる

      1 「ノ―」 私たちの為にならない事には Noと言う答えをくださる

              答えを下さらないのではない

      2 「待て」 私たちの品性を練り上げるために忍耐を学ばせてくださる

              忍耐を通して 多くを学ぶことができる

      3 「それをすぐになそう」 直ぐに結果を見る事が出来る時もある

      

     注意・・・祈りの結果で自分の信仰を判断してはならない

          祈っても 病気が治らなかったり 問題の解決が見えない時もある

          自分の信仰が弱いとか足りないとか 自分を責めないように

          主は どんなにつたない祈りでも聞いていて 私たちが必要なものは何かを

          よく知っておられる 祈り続けていく中で 主の最善を待つことが大切

          主は 私たちを導き育んで下さる


      M・・神様の御心かどうか判断するのが難しい いつも自分勝手な祈りに

         なってしまっているのではないかと 思ってしまう


      K・・「これは 御心だったんだ」と感じたことが経験としてあるならば、次の1歩に

         繋がっていくのではないか


      T・・クリスチャン家庭ではないが 不思議なように 福音の種はまかれていた

         1つの悲しい出来事があったが、それによって家族がまとまっている事は感謝

      

      K・・御心かどうかのせめぎ合い 御心を求め探り 吟味することが必要なのでは



     (  2021年 10月7日〜 マタイ22:1〜14 婚宴への招待  )


    イエス様のたとえ話し・・・聞いてて 面白い 楽しいような話しでななく 手放しで

                    喜べないような 謎かけの様な たとえ話し



     1 最初に婚礼に招かれた人達は だれも 行かなかった

     2 道を歩いている人 すべての人を招いた

     3 一人だけ 礼服を来ていない人がいた


    『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書かれているのに 神殿には 両替人や商売人で

     一杯だった。欲望や悪意 高慢な人の心をみて 「あなたがたは偽善者だ」とイエス様は

     指摘され、お怒りになられた。

     イエス様を救い主として 認めようとしない、頑なな祭司や宗教指導者達に対して

     語られた たとえ話し


    1 招かれた人達は 王からの何回かの招きを無視し 僕を殺してしまった

      王子の結婚を喜ぶどころか、敵対行動を取った人達は 滅ぼされてしまった

 

    2 王は全ての人を招いた 良い人も悪い人も招いた 私たち一人一人も 主に招かれた


    3 当時 礼服は用意されていた 

      王に謁見する時には 王から与えられる晴れ着を見に付け 王の前にでる。普段着で

      王の前に出ることは 赦されていなかった

      すでに 用意されている礼服を 着て婚宴に 出ればよいだけなのにもかかわらず

      礼服を来ていない人がいた


      礼服とは・・・・イエス様の十字架の贖い

      バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな キリストをその身に

      着たのです ガラテヤ 3:27


     神様は全ての人のためにキリストという礼服を用意して 招いて下さっている

     それを感謝して受け取り 喜んで身に付け 神様の宴会に連なり 神様が与える

     祝福を味わって歩んで行きましょう

  


  (  2021年 7月1日 マタイ1〜20 からの学び  )

     

      Q 「わたしを誰だと言いますか」

       A 人々の答え

        @ バプテスマのヨハネ

        A エリヤ

        Bエレミヤ

        

        ペテロの答え

        行ける神の御子 キリストです


       ペテロの答えは ペテロの信仰告白であり それは

        聖霊の働きによって 与えられた 恵みでもある


       イエス様を信じる決心をし、信仰告白する者たちを 聖霊が 神様へと

        イエス様のもとへと 導いてくださいます。

        

       色々な事がありますが、聖霊に導かれ 守られて 今ある事を感謝いたします。



      *ヘブル人への手紙の学びが終わり 

        現在 2020年8月27日 福音書を学んでいます。


       ヘブル人への手紙を終えて 感想


        ・兄弟愛を示され 自分も久し振りに 兄弟に声を掛けました。

        ・神と人との間をとりなしてくださった イエス様に感謝します。

        ・イエス・キリストは きのうもきょうも いつまでも同じです。

          と言う御言葉が 心に残っています。

        ・ヘブル書は 私にとって 教えられることが多くて 大好きです。

        ・イエス様が 人の側に立って とりなして下さっている事が心に残りました。

 


         現在 午前の祈祷会では 聖書を輪読しています。

         声に出して読み その所の説明をしていただいたり、質問をしたりという

         時間を持っています。


      *2018年8月23日 イザヤ書まで 進んできました。


      イザヤ書の最初は 裁きの言葉が多くありましたが、今日の43章は救いの

      言葉が多く書かれていました。 

      43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。

           わたしはあなたを愛している。

      43:25・・・あなたのそむきの罪をぬぐい去り、

           もうあなたの罪を思い出さない。


      また 私が聖書の多くの箇所で力をいただいている御言葉もありました。

      43:5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。

      感謝いたします。


      *ハガイ書を学びました。

      たった2章しかないハガイ書でしたが、希望の書であることを学びました。


      1:14 主は・・心を奮い立たせたので・・・

      2:5 わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。

      人の力ではなく 人の努力ではなく まず 先に 主の霊が力を与えて下さり

      主の霊が 私たちの間で働いて下さっていたことを 学びました。

    

      *8月17日 ミカ書が終わりました。

      今年の御言葉 ミカ6:8 『 主とともに歩む 』 

      主が望まれている事は 誠実にへりくだり主と共に歩むこと


      *ヨナ書では 悔い改め 主に立ち返ることの尊さ を教えられました。

      ヨナ自身も魚のお腹の中で悔い改め 再び使命を与えられたのに 二ネベの人達の

      悔い改めを 受け入れられなかった 心の狭い自分の姿を見せられたようです。

      主は 悔い改めた人々を赦し 救って下さいました。 また 心の狭い者であることをも 

      知っていてくださいました。


      *6月15日 ヨエル書が終わりました。

      たった3章のヨエル書 1日で 終わってしまいました。

      前回のホセア書は 厳しい書だと思いました。

      ホセア書は 『姦淫の女をめとり 姦淫の子らを引き取れ 』から 始まるのですから。

      愛している人が姦淫をする。辛いことです。

      それは 神様が 私たちを愛して下さっているのに 

      偶像礼拝するのと 同じ事だと 言う事がわかりました。

      何度 そんな 辛い思いを くりかえさなければならないのでしょうか


      *ヨエル書からは 希望が与えられました。

      『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。

      あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。』2:28

      私にさえ 主の霊が与えられると 約束して下さいました。

      主を仰ぎつつ 希望を持って 歩ませていただきたいと思います。

      次回は アモス書です。


      *2017年3月30日 エステル記が終わりました。

      次回からは 小預言書に入ります。

      期待を持って 待ち望んでいます。

      

      *エズラ紀が終わり 今日は ネヘミヤ記。

      通常の礼拝では あまり開かないエズラ紀・ネヘミヤ記 どこにあったか・・・

      創・出・レビ・民・・・と 頭の中で考えないと 開けませんでした。


      祭司であったエズラと王様の献酌官だったネヘミヤ 視点の違いを感じながら

      捕囚から戻ってきたイスラエル民族が、苦難の中 主に祈りながら 主を求めながら

      城壁を建てていくところを読みました。

       


      列王記T12・13章を読みました。

      ソロモン王の時代が終わり イスラエルが北と南に分かれていくところです。

      

      一回読んだだけでは ごちゃ ごちゃしていて なんか 良く解らないと思いました。

      誰が味方で 誰が敵なのか?

      読み終わって 人の思いと、主の御心と 随分 離れてしまっていると思いました。      


       *使徒信条から 学びました。


    いつでも どこでも 変わる事なく 人を生かし そして 人を生かす言葉として教会の

     人々に世々語り継がれていく言葉 それが私たちに与えられている 使徒信条


    それぞれの心 生まれ育った環境 経験 理解 時代 価値観等に 左右されるものではなく、

     イエス・キリストを 主と受け入れた人々が 大胆に確信を持って 告白してきたもの 


    神を信じる・・・そこに 私の存在を賭ける。支えられて自分が生きる。

    (イエス・キリストの事 あまり良く知らないかも・・・復活 理解できないかも

     しかし イエス・キリストは 十字架にかかり 復活した。 それを 信じるか?

     と、神は問われている)

    

    創り主なる主と救い主なる主

     私たちは神の祝福のみ業の中で創られ それはとても良かったと 神は言って下さった

     欲の中に生き 罪の中に生きていた私は 恵みによってキリストと共に生きる者と

      変えていただいた  キリストによって もう一度作り直していただいた

     神を天の父と呼ぶ事ができる 神御自身の息そのものに他ならない御霊を注いで下さる

      御霊が 私と共に生きて 支え 導いて下さる

 

    なぜ?十字架 

     十字架は 私たちをめぐむと神が決めて下さったから

     十字架は 罪の呪いから 私たちを解放して下さる

    イエス・キリストは 死をも 経験してくださり、陰府(よみ)に下り 復活して下さった

     キリストは 死の時も 陰府にも 私たちと共に いて下さる


       十字架にかかり死んでイエス・キリストは 復活して下さった

     復活した主イエスが弟子に声をかけ 共に食事をし 共に生きて下さった 復活の信仰

     の中に自分をも 捉えて下さった

     

    主イエスは 天に昇られた 「私たちの本国は天に在ります」

     天国の門を開いて下さった


    教会で生活の中で 主イエスを受け入れる どんな時も 大勢の中に居る時も

     たった一人で 寂しい悲しいと思っている時も 目を上げる時 神の右に座しているキリスト

     が見える 私の為に 立ち上がって下さる主イエスを見る それを信じる 


    神の義・・間違えを全部抹殺するものではなく、正しいものとして 造り替える

          罪を 神の義によって 覆って下さる

          滅びから命へ 死から永遠の命へと 変えて下さる


    聖霊・・霊も風と同じように捉える事が難しい 信じて知ろうとしないとわからない

         主の御業 十字架の力 蘇りの命が 私たちの内に生きて働く その事を

         私たちの内に働く霊が覚らせてくださる

         神の救いの業の実りを信じる 救いの賜物を数えていく


 *イエス様のたとえ話から 学びました。


 ≪ 砂の上の家 ≫    マタイ7:24〜27


    岩の上に家を建てた 賢い人

    砂の上に家を建てた 愚かな人


    賢い人とは?・・・主イエス様の言葉を聞いて それをおこなう人

  

    おろかな人とは?・・・決して何もしなかった人ではない

                 おろかな人も 一生懸命家を建てた

                 では 何が おろかだったのか?

                 

    神様と自分との関係は きちんと真っ直ぐなものになっているか?

    いつの間にか 中心がずれてきてはいないか?

    自分の思い 感情 価値観が 神様より 優って来てはいないか?

    一生懸命生きていると 働いていると思っていたのに それが 自分の意志で確かさを

    確保しようとするなら 砂の上に家を建てる事になる


    自分では 正義を行っているつもりだったが 神様の御心とは全く違う方向を向いていないか


    このたとえ話は クリスチャンとなって 長い方にも もう一度語りかけて下さっている


    A・・・自分では良いと思っていた事でも 神様から見たら違っているという事もあるんですね

    

    牧師・・・聖書から 賛美から 祈りから 証しから 何からかはわからないが 真実は

         教えられている。

    

    B・・・自分の思いが先だって 一生懸命やっているつもりが 砂の上に建てては壊れ

       建てては壊れしていたところがあるのかもしれない

       主の御心が何かを求めながら 歩んで行きたい


 ≪ イチジクのたとえ ≫   ルカ13:6〜9


    ブドウ園の一角に植えてあるイチジクの木

    園の持ち主は・・3年待ったが実がならない・・切り倒してしまいなさい

    園の番人は・・・木の周りを掘って肥やしをやってみます。それでも実がならなければ

              切り倒してください。

    

    切り倒される木とは 罪を犯しながらも その罪に気が付かない

    悔い改めない かたくなな心


    園の番人とは・・・主イエス・キリスト

    私たちをかばう為  切り倒されない様に 肥やしをやって育てて下さる


    実をみのらす事の出来ない木が、主イエスを十字架に付けた


    自分の為に 主イエスが十字架で血を流して下さった 神の前に立ちはだかって

    実を実らす事の出来ない木 私を 守って下さった


    A・・・家族に対して自分がもっと実りのある者とならなければいけないと思った


    B・・・さらっと読んでしまっていたが、奥深い愛がそこにあったことが分かった。

       悔い改めが大切だと思う


    C・・・イエス様が神様と自分の間に立ちはだかって下さった。自分も誰かの為

        (家族・子供の為)に 立ちはだかって守る者となりたい。


    D・・・3年駄目でも 1年待って下さるやさしさと、1年たってダメなら切り倒してよしと

       いうのが ショッキング


 ≪ 不正な裁判官の話 ≫   ルカ18:1〜8


    失望しないで 熱心に求め続けなさい 祈り続けなさい


    不正な裁判官に熱心に求め続けるやもめの話


    決して 忍耐力を求めているのではない 主は生きて働いていて下さる。

    その主を信頼し 委ねて 信じて歩んでいきましょう


 ≪ パリサイ人と取税人 ≫   ルカ18:9〜14


   パリサイ人・・・自分は正しい人だと確信していた

    取税人・・・自分は罪人で 神様にどのような態度で望んで良いかわからない


    パリサイ人は 他人と自分を比べて 自分はただしい人なんだと 自分自身で評価

    していた。もうすでに 正しい生活をしている・・・今更 神様に義とされる必要はないのか?  

 

    取税人は、神様に憐れみを請う・・・神様が 恵みによって 義としてくださる

    

  ≪ 上席と末席 ≫   ルカ14:7〜11


    遠慮という言葉を用いる日本人には 理解し易いたとえ話

    

    祝宴に招かれた時 自分がどの席に座るか・・・相手が自分をどのようにもてなして

    くれるのか?どのように扱われるのか?・・・他の人との比較


    神ご自身が 喜びの席を備え 招いて下さる。主イエスは その招きの為に

    来られた。

 

    神の祝宴の上席に座ろうとする人・・・招かれて当然と思っている 御馳走が当たり前

                           自分が立派な人と思っている


    神の祝宴で末席に座ろうとする人・・・自分にはあまり多いと思っている

                           自分は罪人だと思っている


    A・・・わかり易いたとえ話で、さらっと読み進めていたが、神様が招いて下さっていた

       という事に気が付かないでいた。


    ≪ 愚かな金持ち ≫  ルカ12:13〜21

    

    豊作ー沢山の収穫ーお金持ちーますます豊かに−より大きな倉庫−沢山の食料

    −安心して長生き―その夜 死がー豊かな備えは誰ものに?


    主イエスの警告・・・どんな、貪欲にも注意して、良く警戒しなさいなぜならいくら豊かな

                人でも、その人の命は財産にあるのではないからです。


    死によって・・・すべてが無駄になってしまうのか?

             本当に豊かに生きる事とは?

    

    神の眼差しにおいて 値打ちのある生き方をし、豊かに生きる 生きがいのある生き方

    

    死に打ち勝つ生き方は・・・命を与えて下さり 命の根源である 神様とともに生きる

 

    ≪ 憐れみ深いサマリヤ人 2 ≫    ルカ10:25〜37


    イエス様を試そうとした律法の専門家・・・自分の方が正しい知識を持っているという確信

    自分の正しさを示そうとして・・・自分の立場を弁護する 正しさを説明しようとする。


    旧約時代

    ソロモン王の後 北王国イスラエルと南王国ユダに分裂する

    北はアッシリアに滅ぼされる (ユダヤ人と他の人種と血が混じってしまう)

    南はバビロン捕囚後 ペルシャ王クロスの時代にユダヤ人の血を保ちつつエルサレムに

    帰る事が出来る 

    新約時代 サマリヤ人はユダヤ人に憎まれ、差別されていた人達だった。


    イエス様の語る隣人愛は 誰が自分の隣人である値打ちがあるか?ではなく 自分が

    隣人を必要としている人の隣人となっているか


    祭司やレビ人は 見て見ぬふりをして 関わらないように去って行った

    サマリヤ人は 憐れに思った


    イエス様は質問をした律法の専門家に 憐れみの心を得てほしい と願った

    主の十字架によって表された 憐れみ その憐れみに生き続けるように


    A・・・憐れまれた者としてという事を忘れてはいけないと思う


    B・・・悲しいニュースを見ると心が痛む 憐れみの心が大切

 

    C・・・“自分の正しさを示そうとして・・”という御言葉が気になる

        自分にも思い当たる部分がある 

        “良き”サマリヤ人を意識しすぎて いつの間にか 自分が正しい者 

        良い人となろうと頑張っていたし、良い人になった気でいた。

        それでは 放蕩息子の兄と同じになってしまう。

        自分自身が憐れまれた者という自覚が大切だと教えられた。


   ≪ ルカ10:25〜37 憐れみ深いサマリヤ人  1 ≫  


    “良きサマリヤ人”というタイトルでよくこのたとえ話のお話しを聞くが、聖書の言葉

    をそのまま引用し、憐れみ深いサマリヤ人としました。


    律法の専門家がイエス様に質問するが、逆に質問で返される

    「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

    専門家の答えは イエス様に褒められる正しい答えだった。

    「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」・・・律法の基本

    ・神様への愛 ・自分への愛 ・隣人への愛

    神様との正しい関わり・・・神様を愛し、神様に愛される

    自分との正しい関わり・・・自分を生かし 自分を受け入れる

    隣人との正しい関わり・・・自分を愛する事が出来れるなら同じように愛することが出来る

  

    隣人とは?  身近にいる人なのに いつの間にか 私たちは 隣人を選んでしまって

             いないだろうか?


    A・・・自分がやる時にはなんとも思わないのに 他人が同じような事をした時

       怒れるような時がある


   ≪ 失われた息子 3 ≫ 


    もう一人の放蕩息子である兄 心の奥底にある罪 弟が帰った祝宴には出席しない。

    弟に対する怒り 弟を簡単に迎えてしまった父への怒り

    怒り・・・正義の意識・・・自分は弟より模範的に生きてきた。

                  弟より もっと値打ちがあるはず

                  他人と比較して感じる幸せ・・・そこに本当の平安はない

    

    罪ゆるされた者として 神の恵みを分かち合う事が出来ない兄

    父は 弟を受け入れ 共に喜んでほしいと願っていた。



    A・・・自分自身も放蕩息子のような所があったと思いそこから救いが与えられました。

   

    B・・・自分の色々な事を考えると 弟息子のように 自分勝手に生きていたり、周りの人

       の愛情を拒否していたりしていた所もあるし、兄息子のように 自分は正しいと

       かたくなな態度で人に接してしまったことがあった事を考えさせられます。

       御言葉から教えられる事をじっくり考えていきたいと思います。


    C・・・ある人から自分は放蕩息子であったという証しを聞き感謝するとともに 

       自分自身も その様な所がある事を教えられた事があります。



   ≪ ルカ 15:11〜32  失われた息子 1・2 ≫


    愛を拒否した 弟は お金がなくなったとたん 豚にも劣る生活をしなければならなかった

    愛のない人たちと暮らす生活は、だれも 助けてくれる人はいない


    弟は 我に返った

    愛のない生活 神を愛さず 人を愛さず 自分のみ愛する生活は空しく 得るものは

    何もなかった


    神の手から離れてしまう 神の恵みから離れてしまった悲しみ 苦しみ

    それに気付き 恵みを思いだしたとき 神様は喜んで迎え入れて下さる。


   

   ≪ ルカ 15:8〜10  なくした金貨 ≫  

    

   神様はたった一枚の銀貨さえ 大掃除して 探して下さっている。

   人は多くの悩みを抱え 時には 絶望し、自分の命さえ投げ出してしまおうとする。

   しかし 神様は 一匹の羊さえ 一枚の銀貨さえ 大切なものであり けっして あきらめず

   探し出して下さる事を 忘れてはいけない。


   

  ≪ ルカ 15:1〜7   いなくなった羊 ≫  


   神様 あるいは イエス様ご自身が たとえ話の主役となって 羊を探して下さる

   神様は 私達をどのように見ていて下さっているのか

   誰もが 迷い出た羊 その羊をイエス様ご自身が探し出し、つれてかえって下さる



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