市内の病院3ヶ月、伊豆のリハビリ専門病院3ヶ月の入院が始まった。最初の3ヶ月はまるっきり回復していない身体でのリハビリであり、理学療法士の方には大変な思いをさせた文字が書けない、今食べた味噌汁の具が何だった?と聞かれても分からない、ベットから車椅子にも移れない、簡単な計算、パズルなんかぜんぜん出来なかった。
病室では文字を書く練習、食事を麻痺していない左手で食べる練習をした。(ちなみに麻痺は右半身上下肢)食事はスプーンで食べた。本当に情けなくてどうなってしまうんだろう?隣のベットには記憶をなくした人、寝たっきりの人、もうそのような人達を見るとますます落ち込んで行った。自分も最後にはこの人達のようになるのかな・・・・・不安、と絶望感で一杯だった。
リハビリ病棟では着替えの練習、座った上体でのバランス、ボール投げなどさまざまなことをやったがぜんぜん出来るようにはならなかった。リハビリ室から病室の往復には病院のホールを通らなければならなくて、そこで知人に会うのがたまらなく嫌だった自分のあまりにも惨めな姿をさらすことに抵抗があったのだ。それでもリハビリは続いた。この病院での入院が終わるころにはやっと車椅子も一人で乗れるようになっていた。この病室から見える住み慣れた町の景色は少しも変わらない、が自分は変わってしまったもう元には戻らない・・・・・・・一生。自宅から10分足らずの病院から伊豆へ転院した。
これまで家族が毎日来てくれていたがそれも今日で終わりだ。

伊豆リハビリ病院

さすがにの病院はリハビリ専門だけあって施設、医師、療法士などすごく充実していた特に病室は広く清潔で全平屋、外への散歩もそのまま窓から直接車椅子でも歩いても出られる仕組みになっている。施設内は広く散歩コースには大きな木が生い茂りすごく気持ちのいい日々を送った。季節も5,6,7月だったので余計に印象深い。ここへ来てからはすぐに足に装具をはめての歩く訓練が始まった。(ロボットのようだ) 階段を上ったり降りたり特に降りるときはこわかった。周りを見ると積極的にやってる人とただジーとしてる人さまざまだが自分より若く症状のひどい人も沢山いたここではほとんどの人が何らかの後遺症のある人達ばかりなのだ。
車椅子の横に立つ練習2,3秒がやっと。  足を一歩前に出すのにどのぐらいの時間がかかったか・・・・・・装具の重たいこと・・・・・まっすぐ歩けない・・・・社会復帰した時必要な包丁の取り扱い・・・・まっすぐ切れない・・・屈伸の練習、等などもういろいろやりました。
午前、午後1時間ぐらいのメニューで繰り返し行った。
とにかく歩行訓練がメインで後は指を使う作業訓練があった。
一日の大半は自由時間なのでけっこう暇だった。それでも週に一度は家族が来てくれていたのでありがたかった。
退院が近ずくころになると杖をついて歩けるようになりました。信じられません。お風呂も一人では入れるように・・・これは嬉しかった。
伊豆から電車で自宅まで帰り外泊できるまでになりました。もちろん杖をついて、装具をはめてゆっくりゆっくり・・・・・・・。
最初に帰ったときは感動でした生きてまた帰ってくることが出来た密かに涙を流しました。この病気をして何回泣けばいいんだろう。
杖をついて歩く自分の姿を道行く人が見つめている、急に緊張して歩きがふらつく・・・・・・くそー電車の乗り降りもあの段差は怖かった。駅の階段の長いこと長いこと。それにしても健常者の歩く早さには驚く、自分は昔もっと早かったんだなーまったく目まいがしてくる。
しかし、ロボットとの様に歩く自分ではあるが半年前を考えると見違える成長振りだろう。・
割と居心地の良かったこの病院ともいよいよお別れです。救急車で運ばれ約半年間の入院生活を終え退院です。[万歳]


退院

やったー!いよいよ退院だ、2月7日に倒れて半年、長かった。いや、倒れたときのことを思えば短いのかもしれない。ただこれからが本当のリハビリの始まりだ。リハビリの先生、看護師の方々ありがとう。
自宅に帰って感じることはとにかく不便という事、特にバリアフリーにしてある訳でもないので家の中での生活がたいへんだ。杖をついて歩くほど広くもないしそこら中を手すり代わりにし歩いた。1センチもない段差で転びそうになったりもした。風呂、トイレなど慎重に行動しないと危険が一杯だ。階段なんかは四つん這いで上り下りした。・・・・・・でも我が家はいいもんで心の底から感謝した。
まだ仕事は出来ないので毎日を犬と遊んだり、TV、昼寝などしてのんびり過した、家族は近所でも散歩に行くように進めるがどうも気が乗らない、というか世間体を気にして行かなかった。障害者の自分が恥ずかしく思えて一歩を踏み出せなかった。こうしてだんだん家に閉じこもることが多くなっていった。リハビリもほとんどしなくなり、だらだら過す日が多くなった。ただ、お店の手伝いを少しずつだが始めた
そんな中車の運転にチャレンジする事にした、右下肢が麻痺しているので左足でアクセルを踏めるように改造した、空き地で練習したがこれがなかなか難しく慣れるまでずいぶん時間がかかった。車もこれまで大型の4WDに乗っていたがバックするときの感覚がどーもつかめず恐いので軽自動車に乗りかえた。こうして車に乗れるようになるとこれまで閉じこもりがちだった自分の行動範囲もずいぶん広がり気分転換も出来るようになった。近所には海があり犬を連れて散歩にも行くようになった。ただビッコを引いて歩くので人の目が気にかかり緊張して歩きが不安定になる・・・ロボットのように。
車で出かけるときはいつも子供か祖父が一緒だった。再発の恐れがあったので一人での外出は避けた。一年、二年、三年と経つが身体の方は相変わらずだ、が仕事は随分出来るようになった、ただ1時間もたつと身体が重たくて横にならずに入られなくなる。娘達にマッサージをしてもらったりそのまま寝込んでしまったりとまったく情けない・・・・・・。手は動くようになったが力を入れすぎると引きつったように痛くなる、腕も引く力はあるが戻すとき筋が痛む、何度もいためた。もちろん筋力は健常者とは比較にならない。左右の足はいびつで右足は棒のように細い、身体は右腹部が太く左右対称じゃないし右手指の関節はずきずき痛む。最近(現在2005)では髪も薬の副作用のせいかどうか分からないが薄くなった、そう眉も、髭も(たんに歳のせい?)
退院して12年目にはいった、生活は割りと普通にこなせるようになった、というより慣れたのかな・・・・・・・・タバコはやめたがアルコールはビール中ビン1本ぐらいはほぼ毎日飲む、ただ歩く姿は相変わらずだ、病院へは月一度薬をもらったり、診察したりしている、リハビリは生活の中で・・・。
社会復帰
 
社会復帰

高校卒業以来一旦は某企業に入社し12年、しかし若いときからの夢でもあった喫茶店をOPENする事にした。
周囲はほとんどが反対だったが聞く耳はなかった。当時29歳だった自分は若く、怖いものはなかったように思う、ちょうどバブルの頃でもあり店は思いのほか順調だった周りの同世代の友人たちも羨ましがったものだ。自分は有頂天になっていた。しかしそれも長くは続かなかった6,7年もすると徐々に売り上げも落ちていった、そんな中、この病で倒れた・・・・・そして障害者となってしまった、最初の頃は自分の障害のことで落ち込んでお店のことなど考えられなかった。・・・・・・たまになんとかしなければと思ったりしたが病気のせいにしてなかなか行動が伴わなかったように思う、たしかに薬の副作用で眠気や、だるさが常にあるのも事実だが脱サラしてまでもはじめたお店なのに自分に甘かった。こうしてOPEN以来18年続けた店を一旦たたむ事にした。・・・・・残念
しかし、仕事をしないわけもいかずもう一度サラリーに戻る事にした、だが
障害者というハンディ、47歳という年齢どこも雇ってくれるとこなど無かった、現実は厳しいある程度は予想していたが生きずまった。絶望感に打ちひしがれていた。ハローワークに行っても今の店を何とか立ち直らせるほうが賢明ですよ・・・・・あっけない返事
どうしよう分かっていたとはいえ落胆した、障害者は働きたくても仕事場はほとんど無いようだ、しかし何としても職を見つけなければと色んな情報誌に目を通していたら障害者対象の職の斡旋があった。会場に行ってみると驚いた、いろんな障害の方が沢山いた、自分よりもはるかに重い障害を持ちながら必死に職を掴み取ろうとしている姿には衝撃で感動した、この多勢の中からほんの2,3割しか採用はなくまた、希望の職になどほとんど就けないのが現状であろう。自分も障害者の中では重いほうではあったが何社か面接にチャレンジした1年目は3社ほど面接したが全滅だった、2年目(2004)再チャレンジした、2社面接を受け現在の某企業に臨時社員ではあるが採用が決まった。
仕事の内容や駐車場(下肢麻痺)の手配、その他色々細かなところまで気を使っていただき感謝 感謝である。
この病気をし、障害を持ったことで失ったものもあるが、人の優しさ、ありがたさをあらためて知ることが出来たように思う。今後もこの障害とは一生付き合っていかなければならない、まだ完全に受け入れるほど強い人間ではないが事実を認め、たとえゆっくりであっても上手に乗り越えて生きたいと思う。


続 社会復帰への挑戦

二年越しの職探しの末ようやく現在の会社に入社してほぼ一年半が経った、障害者になって初めてのサラリーである。
入社に際しては会社で細かいところまで気を配ってもらい非常に有難かった。
さて、実際に働いてみるとこれがなかなか大変である、あらかじめ
出来そうな仕事を選んで作業をしているので肉体的な疲労はあまり感じなくても良い、また作業能率についてもさほどうるさくはない、とても恵まれた環境の中で仕事をさせてもらっている、ただ現場の中には障害を理解されていない面もあるのは事実である、今回初めて障害者を受け入れた現場であればそこで働くメンバーの意識まで変えるのは時間のかかることなのだろう。
軽作業ではあるが麻痺している足にかかる負担は結構なものである
最近は手から肩にかけて痛みも出ている、やはり少しずつ無理をして疲れが溜まっているのだろうか、現在はなるべく麻痺側の手は使わずに作業してる。入社当初は人の目を随分気にしていた、自身をさらけ出すことに凄く
抵抗があり精神的にもつらかった、10時と15時に10分間休憩があるがもたもたするので間に合わず止めてしまった、お昼の休憩だけとっているその時は装具を着けて休憩所へ行く。最近やっと人の目にもなれ割と普通に過せるようになった。
結局最後はとにかく自分との戦いなのである。乗り越えるしかない壁なのだ。
製造現場の仕事というのはどこも一緒でいかにバラツキの少ない商品を造るか・・・だから毎日の仕事はほぼ同じことの繰り返しである
そういう中での自分に与えられた補助作業はまさに単調なものであるだからこそやりがいを見つけるのもなかなか難しい
やはり障害によって出来る仕事がある程度限られるので仕方がないのかもしれない、自分ではもっとこんな仕事も出来ると自負してはいるが実際にやってみると健常者のようにスムーズには出来ない様だ時間をかければ出来るのだが・・・・それは理解されにくい。
ただ仕事があるだけで有難いと考えた一年半前を思えば贅沢は言えないのだろう。
そうはいっても毎日の単調な繰り返しだけではやっぱり物足りないのも事実である、一度はあきらめた夢の続きをもう一度見ようと思うどんな形でもいい、支えが欲しい・・・生き続けるための充実した日々を送るために・・・・・HPを立ち上げて一年になろうとしている色んな仲間が立ち寄り交流を深めることが出来ている励まし、励まされながら壁を乗り越えてきた本当に感謝している
仲間たちの応援もあり又一歩を踏み出すことができた、二ヶ月余りたったがまだ順調とはいえない、ただ以前と比べれば数段楽しみが増えたように思う、自己満足かもしれないがゆっくりでいい身体を気使いながらも少しでも前へ進みたい
外へ出て働くようになって一番変わったことは積極的になれたことだと思う、この病気をして想像以上の障害を持ち中にこもりがちな生活が長く続いていた今思えば勿体無かったなー、取り返しはつかないが・・・
ショッピング、映画、コンサート、etcもっと色んなことがやれたよな・・・・
後悔してもしょうがない、それよりこれからの長い人生どう生きるのか、障害は受け入れて自分で壁を創らずに乗り越えていけたらいい、きっと仲間達が見てくれている、そしてこんな自分の生き方が同じ悩みを持つ又新しい仲間のほんの小さな支えになれれば自分のこの病もけして無駄ではなかったと感じる事が出来るだろう

障害を乗り越えろ
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前兆

毎日喫茶店の営業をしていたが当時はあまり忙しいという状況ではなかった。お昼ランチが終わると一日をわりとゆっくり過していた、その為かタバコの本数も増え3箱/日ぐらいは吸っていた(170円/箱)ように思う
ある日、知人が癌であることを知らされた。わたしはこの事にすごいショックを受け考え込む日がつづいた。(なぜ考え込んだかはわからないがおそらく気が弱いせいだと思う)暫くたつと眠れなくなっていた。夜、普通に寝付くのだが必ず二、三時間で起きてしまう、また寝ようとしても今度は動悸が激しくなり当然眠れない、それでも昼寝ができればいいだろうと思ったがこれも動悸で眠れない、しまいには夜になるのが怖くなってきた、いったいどうしてしまったんだろう?1ヶ月が過ぎた。もう限界に来ていた眠りたいのに眠れないつらい時期だった。
ようやく医者に行くことにしたが何科にかかればいいのか分からず医療相談を受けた結果、精神内科を薦められたが気が進まず行くのを止めてしまった。
そしてさらに1ヶ月が過ぎようとしたある日洗面台で顔を洗っていると右足に力が入らず”あれ”と感じた,その時は一瞬だったので気にも留めずにいた、また言葉がなんとなくうまく出ないことがあった。そして2,3日したある日とうとうその日はやってきた。
今考えると精神的プレッシャー、タバコ、不規則な生活など色んなことが重なって発症したのかなと思う。あの動悸がしていた頃はおそらく血圧も相当高くなっていただろうと予測もつく当時はまさかこんな大病になるなど予想もしていなかったのであの時ちゃんと医者に診せていればもっと違った結果になったのかなと思うと悔やまれます。




















リハビリ

障害を乗り越えろ


38歳で脳出血で倒れた・・・・,まさか自分が?身体が動かない、文字がかけない,ものを思い出せない、言葉がうまく出ない・・・・・さまざまな症状がある日突然おとずれた。ーーーーー当時の思いと、現在までの状況をまとめてみました。後遺症に負けて立ち直れない日々を送りながらも人のやさしさに勇気付けられやっと生きてきた、今ではチョットしたことにも感動し涙してしまう。 同じ病で苦しむ人たちは多勢いると思いますがもう乗り越えたのかな・・・・・・。わたしは?
突然の脳出血

まいった!あれは平成6年2月7日の寒い朝、突然足が動かなくなりその場にたおれこんだ。すぐに立ち上がり部屋に戻った、ソファーに腰掛けたがそのまま起き上がることができなくなった。(この時家族が側にいたのでスムーズに緊急連絡を出来たので運が良かったと思う)救急車に運ばれるまでは記憶はあったが目を覚ますと病院のベッドの上だった、この時すでに右半身が麻痺していた・・・自分の手が何処にあるのかわからない。そして激しい頭痛。なんなんだ!これは・・・・・?
数日後自分の状態がわかり涙があふれた。そう、そういう感情はしっかり残っていたのだ。医師は言った「命が助かってよかった」まさに死の淵からの生還だったのだ。(ちなみに手術はしなかった。)しかしこの後遺症を素直に受け入れることなど到底できなかった。何をするにも人の手をとり自分では何一つできない、悔しかった、悲しかった。病室には年老いた人たちが同じ病で苦しんでいた。それを見るのも嫌だった、自分はまだ38歳という若さだったのだ。本当に命が助かってよかったのか?この時はまだそんなことさえ考えた。
昨日までとはぜんぜん違う自分の姿・・・・・立つ事も、座ることさえ出来ない、言葉も、字を書くことも、箸を持つことも・・・・・何もかもが昨日と違う、一瞬にして!