玖延寺
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<仏教について>







「仏教以前に」

仏教では 自分がない と説きますが、これは仏教の発見というより、まず事実としてあるということを知らねばなりません。この世の不変の事実は、万物は絶えず変化するということ。要は変化し続けるものに、我々の意識にあるような不変の実体としての 自分 というようなものは存在しえないということです。空の雲のいったい いつが、どこが不変の実体なのでしょう?万物は変化のスピードは様々ながら、必ず変化する=エネルギーを持っている。これは素粒子の性質なのだから。現代の科学は素粒子の存在や性質についてかなり詳しく調べ上げてきました。しかしなぜ素粒子が存在するかということは わからない。なぜ素粒子がエネルギーをもっているのか わからない。わからないことに人間に都合のいい物語をくっつけたりしない。わからないはわからない。我々は人間という縁をもってある生き物だけど、実体と呼べるものはなく、その存在もわからないものだという事実をまず覚えておきましょう。
また別の観点から。私たちは目・鼻・耳・舌・体表の5つの窓から外界の情報を取り入れ脳に伝達しています。そして脳が認識したとき初めて景色が現れます。つまり景色と脳みそスクリーンの二つ存在しないと 景色 はないのです。別の言い方をすれば景色とは景色と自分自身が渾然一体になったものということです。景色は景色であり自分自身でもあるということです。5つの窓から取り入れられたもの、つまりこの世の全ては自分自身でもあるということです。同じ人間が二人いない以上あなたが見ている景色は世界でたった一枚しかない景色ということです。すなわちあなたが経験しうる全てはあなた自身でもあるということです。さてこの世のすべてが自分ということは、自分がないということとイコールじゃありませんか?私たちの意識に時々現れる自分という思いだけが、自分などということは断じてありません。
さてなぜこんなことを最初に言うかというと、仏教は自分の満足のためにあると思っている人がいるからです。私たちの意識に時々現れる自分とは本当の自分ではないというのは今のお話でわかったでしょう。仏教とは事実の中に救いがあるということを知るすべなのです。ここがスタートラインでなければなりません。

「人間とは」

人間とは常に人の経験を学び、そして人のために働くようにできている生き物です。自分のために働く=自給自足だけで生きていくということは事実上不可能です。ということは生活で必要な物の大半は人からいただく以外にありません。その兌換のためのお金を人は他人のために働くことによって得ています。製品であれ、サービスであれそれを必要としている他人のお金をいただくことによって生きているのです。つまり我々が生きるということは、人のために物を成すということとイコールです。刻々と変化している人や事物に対応できるように、常に人の新しい話に興味を持つものです。今人類が勝者となりえたのは、多様な言葉を持ち、それを媒体に他人の経験を自分のものとすることができたからです。赤道直下に生まれた人間でも、アラスカの人の話を聞き、そこで生きていくことができたからこそ生存競争を勝ち抜いてくることができたのです。

「阻害要因」

 人のために物をしようとするのに人が見えない。多くの有益な知識をいただきたいのに人の話が耳に入らない、こういう人がいるのはなぜでしょうか。その阻害要因は 自分 というイメージに対する執着です。生まれてものごころつく頃から選挙カーの連呼のように名前を呼ばれおまえは、おまえはと言われ、私は私はと言い、そのうちに観念としてイメージとして 自分 というものができてくる。このもの(自分)の起こす思いや感情や欲望にいちいち「自分の」という形容詞をくっつける。するとこのもの(自分)が起こす思いや感情や欲望が不当に重くなり、大きくなり、このもの(自分)を占拠してしまう。占拠されている度合いが大きいほど、それに比例して人が見えない、人の言うことが耳に入らない、とこういうメカニズムです。一事が万事という諺があるように「自分」というイメージに占拠されやすい人間は他のイメージに対しても同様です。イメージとは言葉の作りだす残像、実在しないものです。他の動物にない意志伝達手段である複雑な言葉という道具に、それを作り出した人間がしてやられる。人類進化の不完全さを感じます。観念、イメージに影響される、これを心の病と言います。人にとってもっとも不都合なイメージ「自分」。すぎれば自分の信ずるもののためには人殺しもいとわぬ、自分の欲望のためなら何でもする。実は社会科の教科書の8割は人の心の病の歴史そのものです。その様子は今も全く変わっていません。

「仏教」

 釈尊は生老病死の苦の根源を知り、それを滅する方法を知りたいという切なる欲求を持って出家、山中の修行に身を投じました。多くの人にそれを問い、同じように修行しましたが答えを得ることができませんでした。しかしぼんくらの我々でも「自分」というイメージが諸悪の根源だということに気がつくくらいですから、釈尊がそれに気がついていなかったはずはありません。
 そこでどうやったらこの「自分」というイメージを滅することができるか、取っ組み合いをしたに違いありません。さてここから先が釈尊の大発見、仏教の極めてユニークなところです。あるネガティブな思いをどうにかしようという発想は、その思いを同時に見つめているもう一人の自分がいて、対象とする思いをいじることができるという発想に基づいています。これを人間はだれでもやります。釈尊も疲れ果てるまでやったのでしょう。その顛末は・・・、このメカニズムは根本的に間違っているということに気がついたのです。事の真相は脳の反応スピードにだまされていたのだと。同時に二つの思いが存在すると思うほど素早く次の思いが現れるということなのだと。どんな種類の思いであれ、それに手をつけることはできない。なぜならば気がついた時点で、その思いは終わってしまって別の思いに移行してしまっているからです。さんざん思いと格闘した結果、それが無駄だと知った釈尊は菩提樹の木の下に坐ったのです。あらゆる一切に手をつけることができないと知って、只坐ったのです。思いをふりかえり感想を述べることをやめて。
 そしていつの頃からか忘我が訪れました。忘我とは記憶の全くない時間。そして12月8日早朝、明けの明星が機縁になりもとにもどったのです。ふりかえらなければ一切がなく、ふりかえれば一切があるということを自分で証明したのでした。つまり様々な一切は単に思いの上でのことだったということを知ったのです。しかもこの忘我の時にも名前などという符号のつかない得体のしれない一個の人間という生き物が確かにここに存在していたのだと。今まで意識の上で「自分」と思っていたのと全く違う本当の自分があったということを。ただしその存在を知ることはできない。特別に問題となっていた「自分」とは振り返れば意識の上にあるという程度の問題と知るのです。本当にごく上っ面だけのささいなこと。こうなってはじめて「自分」であれなんであれ、イメージに振り回されるということが根本的になくなったのです。
 思いに振り回されずに思いを使うことのできる人。これが本来の人というものです。そして「人間とは」で述べましたが、本来の人は実に人の話を良く聞き、人のためにものを成すものです。
さらに人の思いこみ、意識の上でのひっかかりが実によくみえるのです。ですからきっと人のためになることができると思うのです。釈尊が伝法の旅に出たのがこういう経緯です。
 仏教は人間の考えた教えではありません。事実に基づいた救いそのものなのです。

「テキスト」

 道元禅師著の「普勧坐禅儀」が具体的で親切です。これを本当に読んでください。そして読んだらここから100パーセント離れる。なぜなら標準は自分自身だからです。自分以外に仏教という標準があるわけではない、というのが「普勧坐禅儀」の真意です。これを間違えて仏典を乱読して何かしら仏教らしいものを持ってはダメです。そもそも釈尊は仏教を知らずに解脱したのです。我々も釈尊と全く同じ道をたどる以外にありません。自分が標準=自分はこの世に一人しかいない=自分は自分を振り返れない、この実践の勧めが「普勧坐禅儀」であり仏教です。

「正師」

 本来の人間を取り戻すには 坐禅の功徳 によるのが最善の方法です。ですが、人間の考えによらない事実そのもの=坐禅は単純ですが、単純になりきるというのは やさしくはない というのは現実としてあります。また思いこみやとらわれは、そこから離れたことがある人にしかわからないという面があるんです。ですからどうしてもそれらを指摘してくれる人が必要に思います。私の師匠は平成23年5月20日に遷化した新潟県東山寺の川上雪担老師です。雪担老師の師匠は井上義衍老師、義衍老師の師匠は飯田とう隠老師と聞いております。